13 大切なことは……
――大切なことは目に見えない――
サン=テグジュペリの『星の王子さま』で何度もでてくる有名な言葉だ。
今回は、この有名な作品を取り上げて道徳について語ってみたい。たまたま書店で手に取って、そういえばこの本読んだことないな、と思い購入。さっそく家で読んでみた。
こういった類の本は、子供の頃に出会っていないと、――わたしのような物好きは覗いて、――そのままもう二度と出会えないのが普通だ。大人は、哲学や小説よりも、幸福がほしいものだからだ。
幸福とはいったい何だろうか? 適当に思い浮かべてもらいたい。
最初に浮かぶものは、たとえば、わたしなら笑顔が浮かぶ。その次に、誰かと食事をしたり、富に恵まれたり、何かを成し遂げたり……
前回のエッセイでわたしは、結果論の危険性を長々と説明した。わたしのエッセイを最初から読んでくれる人は、おそらくこの世には一人もいないと思うので、短くまとめると、――結果とは、常に体の外にあるもので、反証可能である、ということであった。
幸福を意識して追い求めることは、実はとても危険な行動である。なぜなら、それには条件や結果が伴うからである。そして、その先には必ず、反証可能性と呼ばれる、未知の絶望が、手招きしてあなたを待っているからである。
このエッセイの『5 さよなら欺瞞、ようこそ絶望』で取り上げたことだが、カフカの変身では、虫になった主人公は、それでも家族の一員として、また一家の大黒柱として、認められたいという欲求を満たそうと、あれこれ頑張っていた。しかし、それはあっけなく反証された。とどめは、一番気にかけていた妹に「こんなのお兄ちゃんじゃない、虫けらよ」と言われたことだった。
結果には、それに到達するために必要ないくつもの条件がある。その条件にひとつでも誤差があれば、幸福にはたどり着けない。にもかかわらず、誤差を見てみぬふりをするのが人間だ。子供は正直だから間違いをすぐに認める。でも、大人は頑固だから、軌道をはずれて、宇宙に放り出されるまで気がつかない。自分の目指している星が、どこなのかも、いつのまにか、どうでもよくなっているのだ。それが大人だ。大人ってへんだ。
『星の王子さま』は、クリスマスに子供に送るための小説として書くよう、依頼されたものらしく、たくさんのクリスマスプレゼントと合わせて送られる予定だったそうだ。
新しいおもちゃに囲まれて、さぞかし子供は幸せだろう。しかし、それが本当に幸せなことなのかを、よく考えてみてほしいと作者は子供たちに伝えたかったのであろう。
物語の前半で、星の王子さまは、たくさんの星を旅する。そこで、大切なことを忘れてしまった大人たちと出会う。大人たちはみな、『もの』に支配されている。
それは星の王子さまも例外ではない。彼自身も物語の前半は『もの』に支配されている。その証拠に、彼ははじめ、薔薇に対して、美しさ、トゲの弱々しさ、態度の悪さなど、外面的なことばかりを意識しており、言葉を発しない小さな火山と同じような存在として認識していることがわかる。火山は掃除してやりさえすれば、奇麗になって、王子さまも満足する。でも、薔薇は、いくら尽くしてもきりがない。王子さまは「もうおしまい」と満足したいのに、薔薇はそれを許してはくれないので、ついに彼は、薔薇と別れてしまう。
バオバブの木は大きな幸福である。もっと言えば、それは夢や理想と言ってもいいかもしれない。子供の姿をした王子さまは、それが大きくなってしまう前に自分で刈り取ることにしている。作者が戦争を体験していることを考えると、これはかなりきつく受け取ることもできる。
しかし、やはり子供たちに読んでもらおうと書いているとすれば、もうすこし違う意味でとらえることもできるだろう。たとえば、身の丈に合わない大きな幸福は、身を滅ぼすという考え方だ。そのように考えれば、怠け者がほおっておいた、バオバブの木がたくさん生えて、星がたいへんなことになっている絵も、納得がいく。
カントの実践理性批判にかかれていることだが、外的なもの(幸福)を自分の意志の結果とした場合、原因もまた外的になるという。
たとえば、「年取って苦労しないために若いうちに稼ごう」とか、「出世するために資格をとろう」とか、「おれ、これが終わったら結婚するんだ」とか、そんな外的なものを前提に置いて、自分の意志を決める方法があるが、わたしはこれがバオバブの木なのではないかと思う。なぜなら、裏を返せば、資格をとるまで出世は先送りにされるし、お金を稼ぐことができなければ、老後の快適も先送りされ、これとやらが終わるまで結婚も遠のくからである。先送りにされて膨らんだものは抱えきれないものとなって星を埋め尽くし、原型がどうだったのかもわからないほど大きくなってしまう。またそれと同じように、人を怠け者にしてしまうというわけだ。
エッセイの一番はじめで紹介した純粋理性批判に習えば、『ぼく』は肉体で、星の王子さまが魂、星は主体として位置づけられるだろう。外的なもの、――たとえば仕事、人間関係など――にしばられていた自分は、ある日突然、砂漠で遭難して孤独になる。孤独になったとたんに、どこか知らないところで彷徨っていた自分自身の魂――王子さま――と会話するようになる。魂は、主体――星、本当の自分――の外側をぐるぐると回って暮らしている。主体とは、到達しえない物それ自体である。物それ自体とは、捕まえることのできない虹のようなものだ。現象として確かに虹はそこにあるが、人は虹を光や水として認識しているわけではない。さらに人は、水素や酸素の原子まで、光の波や粒子まで認識できているわけではない。さらに原子は……波は……粒子は……(無限ループ)。このように無限に遡ってしまえるものの先にある最高原因を、カントは物それ自体と呼んでいる。顕微鏡で覗くと『Ⓗ』という丸い塊が見えるわけではないことは誰でも容易に理解できるが、空にかかる虹を眺めて、単に水や光という要素に分解しようとすることは、顕微鏡で『Ⓗ』を探すのと同じことだとは、気がつかない人がいてもおかしくはない。王子さまは、自分の星を掘り進めようとはしないし、さまざまな星の大人たちも、自分の星の外ばかりを気にしている。明らかに顔が大気圏を突き抜けているのに、どうして生活ができるのか! 彼らはなぜ、一番不思議な星を調べようとしないのか。それはつまり、できないからである。人間とはそういうものだ。そうすることしかできない、ということを表現しているのではないかと、わたしは思う。トルストイの人生論で紹介したように、人が生命の話をしようとすると、蟻ん子の話がはじまるのと同じだとわたしは思う。
幸福のために生きること。それは当たり前のことだが、それをわざわざ人生の目的とするのは避けた方がいいだろう。それはあくまで気持ちが良いものに名前がついただけのものでしかなく、快感以上のものは何も得られないからである。気持ち良いものがほしいなら、回りくどいことや言い訳はせずに、素直に、ご飯を食べたり、ゲームをしたりすればいい。より上級に思える幸福を求めようとすることは空虚である。そんなものはこの世にない。幸福に上も下もない。
カントが云うには、幸福は金貨のようなものだそうだ。金がどこで獲れようと、金は金。マグロみたいに、天然と養殖だったら天然ものが高いなんてことはない。そもそも頭の中にまで高い低いを持ちだすのは奇妙だ。銀行でもらったピカピカの百円玉とラーメン屋のお釣りでもらったボロボロの百円玉を見て、どちらがより百円玉かと考えるようなものだ。
空虚なものを追いかけ続ければ、その先には依存が待っている。懐いた者は、懐かれた者に、「きみが悪いんだよ。ちゃんと責任とってね」と言って懐かれた者を支配しようとする。懐かれた者は、ありもしない責任を感じて知らず知らずのうちに支配されていく。懐いた者の快のために。
『人生を思い通りに作り上げていく』とは、さまざまな反証可能性と出会っても、それにながされることなく、自分自身の立法に従うということだ。他人にどうこう決めてもらうことではない。他人に道徳を教えることが難しい理由は、これにつきるだろう。なぜなら、道徳を教えようとすると、自分自身への命令を、他人に押しつけてしまうからである。
一日のはじめに鏡の前に立って、たとえば、「きょうは、絶対に嘘をつかない」と自分に命じてみよう。何があっても、絶対に、である。そうして一日を過ごしてみると、さまざまな反証可能性と出会うことになる。――「これくらいなら」「これは例外だろう」「ああ、これはちょっと微妙だ」「うーんこれはグレーかな……」。こんな風に、自分に嘘をつくことが習慣化していることに気がつく。今でも断食や特定の食品を口にしない習慣が残っている宗教や文化があるのは、おそらく、こういうことを本当は伝えたいからではないかとわたしは思う。外的なものは関係ないのである。
大切なこと。それは自分に噓をつかないことである。その鍛錬の先にあるものが、愛である。
――大切なことは目に見えない――




