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12 結果論はなぜ良くないか


「終わりよければすべてよし」


 聞こえがいいだけで、実はまったく「よし」ではないこともある。「終わりよければすべてよし」は、現代風に直せば「フラグ回収ご苦労さん」である。皮肉を描くシェイクスピアの引用であることも知らずによく使われているが、本来はそういう意味だ。


 結果論は明示的に示せなくとも、よく考えてみればなんとなく変だと気がつくだろう。


 マラソンなどのスポーツに例えてみれば、他の選手にケガをさせてまでも自分は一番でなければならない、というのは、あまりにも道理に反している。そもそも怪我人ばかり出るなら、マラソンというスポーツそのものが成り立たなくなるであろう。スポーツはルールがあるからスポーツなのである。


 原因と結果を、単に事象Aと事象Bと考えてみる。鉄球を離す意志が事象Aで、地面に激突することが事象Bである。目の前で鉄球を落としてみると地面に落ちる。しかし目を閉じて鉄球を思い浮かべてみても地面には落ちない。なぜなら事象Aと事象Bだけでは物は落ちないからである。物が落ちるためには、条件がいる。手を離す意志、面積、空気抵抗、重力、そして時間である。事象A、条件があって事象Bになるのである。事象Aと事象Bだけだったら『1は2です、だから2は正しいんです』と言っているようなものだ。事象A、条件、事象Bがあって始めて『1に+1すると2になります』が正しいと直観でき、現実でも経験を期待できるのである。


 哲学の歴史にこんな有名な教訓がある。


『結果だけ見ていると判断を誤る』 


 アリストテレスという天才が、ある昔、二つの球を高い塀の上から落として、どちらが先に落ちるか、という実験をしたという。


 わかりやすくするために、一つは鉄球で、もう片方は風船だとしよう。大きさは同じであり、重さはもちろん鉄球のほうが重たい。さて、どちらが先に地面に落ちる?


 アリストテレスの答えは、「鉄球の方が先に落ちる」であった。


 もし読者がパチンコ玉とスーパーボールを持っていたら、誰もいない公園で試してみるといい。


 すると、アリストテレスの言う通り、鉄球が先に地面に到達するであろう。


 そのあと物理の教科書を本棚から引っ張り出して、自由落下のページを開いてみよう。


 すると、こう書いてあるはずだ。


 『v=gt』


 gは重力加速度、tは手を放してから何秒経ったか、そしてvは落下速度である。


 それではこの公式に鉄球と風船を当てはめてみよう。鉄球の重さはとことん重くして、10キログラム、風船の重さはとことん軽く、0.001ミリグラムとしよう。手を放してからの時間は10秒とし、重力加速度は9.8(メートル/秒²)とする。そして面積はどちらも同じである。


【鉄球の落下速度】10×9.8=98(メートル/秒)


【風船の落下速度】10×9.8=98(メートル/秒)


 読者はきっとこう突っ込むに違いない。


「重さはどこ行った!」


 その通り、物理学のこの公式には実は、あるものが意図的に除かれているのである。


 それは『空気抵抗』である。


 なぜ空気抵抗を抜くのかというと、空気抵抗を考慮してしまった途端に、結果(または答え)にまとまりがなくなってしまうからである。というのは、あるときは風が吹いたり、またある時は風が無く、あるときは月のように体が浮き上がってしまうほど重力がない、というように例外ばかりになってしまうからである。例外を管理しようとすると、人間の理解能力を超えてしまい、何かを理解することが出来なくなってしまうのである。


 世の中には、物理学は、頭の外の話だと思い込んでいる人がたくさんいる。わたしも学校で物理を教わっているときは、そう思っていた。しかし、それは間違いである。


 物理学は頭の外ではなく、頭の中の話をしている学問なのである。新しい発見はいつも頭の中にあり、実験はあくまでその理論が現実存在として普遍的であるか――頭の中の形式が妥当であるか。頭の中の計算と似通った結果になるか――を確かめるものでしかない。


 そもそも公式というものは、人間の主観にとって絶対的に正しく、理解しやすいようにした形式であって、自然界にこの公式が落っこちているわけではない。完全に丸い球が頭の中にしかないように、公式は人間の頭の中にしかないのである。


 人には、あらゆるものを抽象化して物を覚える能力がある。逆に言えば、抽象化しないと、物は覚えられない。


 人は地球から遠く離れた宇宙から見た映像を見て、地球は丸いと思うが、地球に立っている――地球に近すぎる――ときは、地球がだいたい丸い形をしているかもしれないなどと、ちっとも実感できないものである。


 自由落下の公式も同じである。教科書で公式は知っているが、自分で物を落としてみても、法則らしい法則は見当たらない。法則は頭の中にしかないからである。


 必然性は、頭の外へ出た瞬間、普遍性に変わる。普遍性とは、白鳥のことである。白鳥という言葉は、常に、黒い白鳥(空気抵抗)が現れる反証可能性にさらされており、「おまえがみたその鳥が白かったのは、その池に偶然白い鳥しか来なかったからだ」と誰かにいつか言われるかもしれないということである。どんなに確実に思えるものであっても経験から借りてきたものであればすべて同じである。


 結果とは、常に頭の外にある経験である。ということはつまり、常に反証可能ということである。結果論でかたずけてしまえば、そこにはただの偶然だけが残るのである。


 アリストテレスは天才であったため、誰も彼が間違っていたとは思わなかった。結局、間違いに気がつくのに、人々はおよそ2000年かかったという……


 スポーツは、選手たちの頭の中に、ルールがあるからスポーツとして成り立つのである。たまたま人が集まって偶然スポーツになっているのではない。


 英語で、『rule of law』と書けば、『法の支配』という意味になる。法の支配は偶然であってはならないのは誰にとっても同じである。偶然捕まえた人を裁いて良いわけがない。


 一切の経験的なものから隔離され、明示的に正しい形式のことを、哲学ではアプリオリと呼ぶ。形式がなければ、人はものを考えることができない。懐疑論に陥るのである。


 もし、あるサラリーマンが営業成績に伸び悩んでいるとき、結果論ですべて許されるなら、書店のビジネス書のコーナーには「短刀一本でかたずけろ」「秒で拳銃を買え」「ばれずに数字を変えろ」などという物騒な言葉が並んでいることだろう。


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