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14 自由であるとはどういうことか


 ――人は生まれながらにして自由である。しかし、われわれはいたるところに鎖で繋がれている――


 これは、ルソーの社会契約論の冒頭に書かれている名言である。いっけん矛盾しているように見えるが、この言葉はあらゆる法と呼ばれるものすべての前提といっても過言ではない、神聖なものなのである。


 しかし『自由』と言われても、ぴんとこないのではないだろうか? 先に言っておくが、それはある意味、あたりまえと言えばそうなのかもしれない。だから、ここでしっかりとその定義について、説明してみたい。


 そもそも自由という言葉は、西洋から輸入されたもので、もともとは、『Freedom――好み、愛などの意味合いをもつ自由――』、『Liberty――制約などからの解放などの意味合いをもつ自由――』という二つの意味を持ち、日本では、『自由』というひとつの言葉にまとめられている。ちなみに、漢字は日本で考えられたそうだ。だから、自由という言葉の起源に遡ろうとすると、西洋、もっと言えば、旧約聖書の創世記――アダムとイブや出エジプト記、新約聖書などの話を知る必要があり、西洋の宗教と政治がどのようなものだったかを知らなくてはならない。それでは、ざっくりとまとめてみる。


 そもそも、キリスト教以前は、宗教と政治が別れていなかった。だから、たとえば、戦争があって、どちらかの国が負ければ、負けた方の国は、勝った方の国の宗教に改宗しなければならなかった。ユダヤ教はこれにはじめて逆らった宗教である。


 イスラエルの民は、エジプトで奴隷になっていた。奴隷と言っても、その頃、豊かだったエジプトでは、住むところにも、食うところにも困らなかった。しかし、神の言葉を聞いて、彼らは砂漠へと旅に出ることになる。


 本当に神からの言葉だったのかどうかは、ユダヤ教徒でも、キリスト教徒でもないわたしには計り知れないことだが、要するに結論としては、奴隷でいるくらいなら、砂漠で遭難したほうがましだ、ということになったのである。これが自由の起源であると言って間違いないであろう。


 身も心も支配された状態よりも、たとえ肉体が滅びようとも、心が何からも支配されず、信仰を続ける方がよっぽど良い人生だ、ということだ。


 ここで重要なことは、イスラエルの民が、自由になろうとしたとき、肉体よりも心の問題を重視したことにある。自由とは、肉体的な快楽や苦痛云々の話ではなく、心の問題である、ということが、見てとれるだろう。


 もっと言うと、心の問題とは、悲しい嬉しいの感情の話ではなく、理念の問題である。この場合は、信仰のことだが、自身の立法に従う、という意味では前回のエッセイの最後で取り上げた、カントの話にも通ずるところがある。


 時代が流れ、今度はユダヤ教によって支配される国が誕生する。そのユダヤ教のあり方に疑問を感じた青年、それが、イエス・キリストである。


 彼がやったことを一言で説明すれば、『政教分離』である。その当時のユダヤ教は、政治と宗教を分けておらず、利害関係と信仰の問題がごっちゃになり、都合のいいように、聖書の内容を改ざんして教えてしまったりと、信仰とは程遠い状態になってしまっていた。イエス・キリストは、宗教そのものが腐敗してしまうと、危惧したわけである。


 イエス・キリストがなぜ処刑されてしまったのかも、この政教分離という問題に深くかかわっている。そもそも、彼は、「自分が救世主である」などとは一言も言っていないし、キリスト教を立ち上げようとしたわけでもない。しかし、民は、彼は本当に救世主なのではないか、と思って、彼を信仰しはじめる。


 なぜか? 自由になりたかったからである。彼についてこようとしたのは皆、貧しい人々だった。お金を持っている人しか救われない。お金持ちが救われるための奴隷になってしまった人々は、また砂漠へ旅立とうと決心したわけである。その道しるべとなったのが、イエス・キリストだった。


 しかし彼は、新しい宗教を立ち上げたかったわけではないので、ユダヤ教の中で改革を行おうとした。しかし、彼の行動を良く思わなかった者たち――政治の邪魔をされると思った者たち――は、彼のことを処刑しようとする。


 さらに彼らは、「もし彼が本当に救世主ならば、奇蹟が起きるだろう」と本気で考えていたようだ。しかし、彼は処刑されてしまう。


 なぜ奇蹟の力をもつイエス・キリストは、死んでしまったのか。それはすべての人間の罪を背負ったからである。罪とは、あの世とこの世の矛盾のことである。


 あの世とは頭の中、この世とは頭の外のことである。頭の中とは、宗教のこと。頭の外とは、政治のことである。人々は頭の中にある神の教えに従わなくてはならないのに、この世のことにばかりに気を取られて、神の教えのことなど後回しにしてしまう、それが罪なのだ、というわけである。だから、イエス・キリストはその罪を背負って死んだのである、というわけだ。キリスト教のことをよく知らない人にとっては、子供に罪があるという感覚に頭をかしげるようだが、この世に生を授かった瞬間からあの世とこの世の矛盾にさらされているという考え方からすれば一貫している。たとえば子供が神の教えよりも、食べ物や快適を求めてしまうとする。このような状況が、キリスト教にとっての罪、というわけである。罪というと、世俗の罪――主に犯罪――の方を思い浮かべてしまうかもしれないが、それとはまったく違うのである。


 奴隷というと、ガリガリでやつれた感じの人をイメージするかもしれないが、それは間違いである。スキルの高い奴隷を働かせたければ、より良い環境を整えて迎え入れるのは、ローマの奴隷制度でも同じことである。服をつくるのが上手な奴隷、カネ勘定が上手な奴隷、さまざまな知識をもつ学者の奴隷までいたのである。それもそのはず、それらの奴隷は、一国を滅ぼして手にいれた者たちなのであるから、さまざまな職種の人間がいるわけである。


 さて、そして時は流れ、今度はキリスト教を用いて国家を統治しようと考えた国が現れはじめる。そこで出現するのが、王権神授説と呼ばれるものだ。


 サー・ロバートと呼ばれる人物の『パトリアーカ』が有名であるが、先に言っておく、この本は、歴史資料として、――王権神授説を知る資料としては、とても良い資料だが、内容はおそらく、というか、ほぼ確実に武器軟膏や魔女狩りの類いの奇書と同じ位置づけの本である。正直、わたしもちゃんと読んだことはないが、旧約聖書の内容と照らし合わせてみると、かなり都合の良い、勝手なことを書いてしまっているのだそうだ。――この本を手に取って保守に目覚めるのはよした方が良い。それよりも、ちゃんと古事記と日本書紀を読むべきだと付け加えておく。


 このサー・ロバートの『パトリアーカ』を批判した人物がいた。その人物とは、かの有名な政治哲学者、ジョン・ロックである。


 サー・ロバートは、まず、旧約聖書の創世記の内容をもとに、――というか曲解して――アダムを世界の最初の絶対君主とし、サー・ロバートが生きていた当時の王権の権原としたのである。しかしその考えはあまりにも強引だった。というのは、そもそもアダムの子孫が、今のさまざまな王国の君主になったとどうして言えるのか? また、アダムの絶対権力とやらがあったとして、そのあとの兄弟に、その権力はどのように継承または分割されたのか。一人に継承されたなら、その絶対君主は一人しかいないはずである。なのに、彼以外の奴隷はなぜ平等でないのか――もしそうなら、絶対君主を除いて、人は生まれながらにして平等でなくてはならない――、そもそも権力を受け継いだ者はどこにいるのか、ということ。そして分割されたなら、なぜ私――ジョン・ロック――には絶対権力がないと言えるのか、人類みんな絶対君主ではないのか、東洋人はアダムなんてしらねーだ、ということ。そもそも、そんなこと誰が決めたのか。もし神によって定められた権力なら、君主が生まれるたびに神が現れて、「今日から汝が地上を収めよ」、そして「地上の者は彼に従え」と命令にしにやってこなくてはならないのに、どうして来ないのか。よって、聖書にそんなことはすこしも書かれていないが、アダムの絶対権力とやらが実際にあったとしても、それはすでに空虚なものであるということで、また、そのような権力の地盤を破壊することにしか役立たなかった。


 このようにして、宗教を統治の道具にする試みは崩されていく。そして、最後に政治と宗教を分ける決め手となった思想が、――人は生まれながらにして自由である。しかし、われわれはいたるところに鎖で繋がれている――である。


 人が生まれながらにして自由とは、いったいどういうことか? そもそも人間は不自由なものとして生まれて来るのではないか。また、不平等なものとして生まれてくるのではないか。しかし、彼は言う。人は生まれながらにして自由だと。


 これまで、ユダヤ教、キリスト教の歴史を通じて、自由の起源や歴史について述べてきた。ここで明らかになったのは、自由とは、心の問題であるということだ。心とは、感情のことではなく、理念のことである。理念とはつまり、『~すべし』と自分自身に命令することである。


 ここでカント哲学にでてくる『自由』の証明をざっくりとまとめる。


①:自由という言葉をすでに知っている。


②:人はすべてを肯定または否定できる(アンチノミー)。


③:何かを否定する時、その何かが理念ないしは概念としてあることを前提とする。


④:人はある物体を眺めてそれがどんな形か判断する際に、完全な図形を頭の中で用意した上で、その物体が丸いか四角いか、などの判断を行っている。この際、完全な図形は、どのようにしてそれが可能かはわからないが、あらゆる条件から度外視されており、無条件に描かれる。この無条件な図形を描いた者を無条件者とした場合、その無条件者は何を材料として円を描いたのだろうか、という疑問が浮かび上がる。なぜなら、経験的なものを前提とした場合は、必ずそれが現れるに至った条件が含まれるからである。なのに、それがまったく介在していない。よって、この図形は、自発的に描かれたということになり、消極的にではあるが、自由を想定していると証明できる。


⑤:自発性からくる自身の立法に従って理性的存在者――人間――が行動する場合、その結果は、感性的な自然法則によるものではなく、超感性的自然である。たとえば、海外旅行に出かけた時、『どんなことがあっても絶対にスラム街には行かない』と自分に命じたとする。その立法に従うことで、安全な旅行を楽しむことができる。一方、まったく立法を持たない場合、つまり、気が向くままに海外でさすらえば、危険と隣り合わせになる。自分の欲求を抑え込んで、危険を排除する行動をとることができるということ。


 よって、①~⑤より、自由が客観的実在性をもつ。


 つまり、自由とは、行為の規定根拠のことである。この規定根拠(立法)はそれだけで行動の原因となる、ということだ。


 立法とは契約のことである。契約とは鎖のことである。人は自由になろうとすると、鎖に縛られていく。両親が優秀で、恵まれた家庭であればあるほど、子供の選択肢は狭まっていくのと似ている。また、意気込んで勉強すればするほど、得意不得意がわかって可能性が狭まっていくような感覚になるのにも似ているし、さらに会社で頑張って出世するほど、責任ばっかり増えて息苦しくなるのにも似ている。自由のために何度も契約を重ねているのである。


 人は生まれながらにして不平等である。しかし皆が法の奴隷であるならば、法の上で、人は生まれながらにして平等である。身体の鎖は重たく、時にはその重みによって、砂漠で死に絶えるかもしれない。でも、心に鎖はない。だれもが心に、思い思いの自分の立法をもって生きて行け。鎖の重みで苦しむ人を見過ごすのが恥ずかしいなら、初めから誰でも助けてやれと自分に命令すればいい。痛いか、苦しいか、重たいか、疲れたか?……。でも心はどうだ? 軽くなったか。もし軽くなったのなら、それが自由であるということだ。


 ――人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉による――


 ルソーの名言と似ていると思うのは、わたしだけであろうか。

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