わがままなふたり 1
オレンジと紫のグラデーションが美しい空に、薄く雲がかかっている。
ちょうどジャンプして水たまりに着地したかのようにアスファルトの上に降り立った陽葵の頭上をカラスが飛んでいった。
見上げた空には一番星を引っかけた電線が伸びている。
見慣れた閑静な住宅街は陽葵と凜が住む、両親が遺した一軒家である自宅の前。
飛び越えようとして失敗して異世界に迷い込んでしまった、その水たまりの上に陽葵は立っていた。
「……戻ってきたんだ」
呆然とした声で陽葵は呟く。
その瞬間、ボロボロと涙がこぼれた。
元の世界に帰されてしまった陽葵の手には、もう銀色の杖も握られていない。
魔法のない世界に、陽葵はジルによって強制的に帰らされてしまった。
祝福の神子だと、自分の力で証明したかったのに。
ジルのことが好きで、異世界で共に生きる覚悟を陽葵は決めていたのに。
勝手に陽葵の幸せを決めつけたジルは、陽葵を元の世界に送り返してしまった。
「ひどいよ」
涙に濡れた声が震える。
ジルのことを自分勝手だと思う。
責めてやりたい気持ちだってある。
だが、最後のキスの時にそっと抱き締めてくれたジルの温もりが、彼の身勝手の全てを許してしまう。
「陽葵? ちょっとあんた、なにしてんの?」
ジルに会いたい。
だが、もう陽葵の手には魔法を使うための杖がない。
絶望に打ちひしがれて泣いていた陽葵は後ろからかかった声に涙を流したまま振り返る。
そこにいたのは、スーツを着た仕事帰りの凜だった。
「なに、その格好? コスプレ? 学校からあんたが来てないって連絡あったけど、まさかコスプレするためにサボったの? ていうか、なんで泣いてんの?」
陽葵は制服のまま異世界に迷い込んだが、あちらで生活する際はルーティが用意してくれた服で過ごしていた。
そのため、陽葵の服装は今ファンタジー感満載のものだ。
そんな格好で妹が大泣きしている状況に凜は激しく困惑している。
「お姉ちゃん、あのね、私……異世界に行ってたの」
「は……?」
そんな凜をさらに困惑させるとわかっていながら口にした陽葵の言葉に、凜はあんぐり口を開けて呆気にとられた表情を見せる。
仕事終わりで疲れているだろうに、訳のわからない話をされる凜のことが気の毒で、その反応がなんだかやたら可笑しく感じられる。
理不尽な強制送還ではあったものの、大好きな姉に久しぶりに会えたことは嬉しい。
張っていた緊張の糸がぷつんと切れて、陽葵は泣きながら笑ってしまった。
「なんなの、もうあんたは……。訳わかんないこと言ってないで、まずうち入んなさい。話はそれから」
未だ困惑しっぱなしの凜に急かされる形で家に入った陽葵は、凜に信じてほしいと前置きをしてから、異世界に行っていたことを話した。
異世界で陽葵は長い時を過ごしたが、こちらの世界ではまだ半日しか経過していないらしい。
陽葵が家の前の水たまりをジャンプし損ねたのは朝の登校時のときであり、今はもうすっかり日が暮れてしまっていた。
食卓で向かい合って座り、異世界であった出来事を話していると、最初は訝しむ表情をしていた凜がだんだんと真剣に話を聞いてくれるようになる。
時折投げかけられる凜からの問いに答えながらすべてを話し終えると、凜は神妙な表情で腕を組んで俯いた。
「なるほどね……」
「……信じてくれたの?」
「ぶっちゃけ信じられる話じゃない。異世界なんてなにそれって感じだし、陽葵が魔法を使えるなんて嘘みたいな話だと思う。でも、ほんとなんでしょ?」
「ほんとだけど、どうして信じてくれるの?」
正直、凜に信じてもらえるまでにはもっと時間がかかると思っていた。
水たまりから異世界に行ってしまったなんて、荒唐無稽な話であることは陽葵も理解していた。
しかし、一度の説明で陽葵の話を信じてくれた凜は「うーん」と唸ってからにこりと笑った。
「お姉ちゃんの勘かな」
「なにそれ! ほんとに信じてる?」
「信じてるよ。そもそも陽葵がなんの理由もなくコスプレして学校サボるなんて方が私からしたら信じられなかったし。疑うなら頭でも打ったかなって方だけど、私が見てた限りそんな様子もなかったしね。伊達にあんたの保護者やってないのよ、こっちは」
陽葵は公立の高校に通っているが、学校で学ぶためのすべてが無料というわけではない。
何不自由なく陽葵が学校生活を送れるように若いうちから懸命に働いてくれている凜のためにも、陽葵は体調管理に全力を投じて健康を維持し、朝寝坊して遅刻しかけようとも休みなく毎日学校に通っていた。
そんな陽葵の真面目さを知っているからこそ、凜は陽葵がくだらない嘘をつくはずがないと信じてくれたらしい。
姉の愛に胸を打たれ、思わず照れ笑いを浮かべた陽葵の鼻先を凜が軽くつまんだ。
「へらへら笑ってる場合じゃないでしょ。その、ちょっと壮大すぎてびっくりしてるけど、魔王討伐とやらに陽葵の好きな人は行っちゃったんでしょ?」
「うん」
「で、陽葵は祝福の神子として、その戦いに参加したいってことでオーケー?」
「そうだけど、もう杖もないし、あっちの世界には行けないのかも……」
「他に方法はないの?」
「……お姉ちゃんは、私があっちの世界に行っちゃってもいいの?」
「ほんとはよくないに決まってるでしょ」
ぴしゃりと言った凜は眉をつり上げた。
「でも、陽葵が頑固で、私に気を遣って夢を諦めてきたことも知ってる。私が陽葵が本当は医者になりたいと思ってたことに気付いてないとでも思った?」
「気付いてたの!?」
「お姉ちゃんをナメるんじゃありません。見てたらわかるよ、そんなこと」
凜はくすくす笑って腕を組んだまま肩を竦める。
「陽葵はたくさん我慢してきた。両親がいないかわいそうな子って目で見られるのも、私に遠慮して夢を追うことも我慢したでしょ。そんな陽葵に、はじめて好きになった人まで諦めてほしくない」
「お姉ちゃん……」
「でも、もしも帰れたとしても、絶対にこっちの世界にまた帰って来ること。魔王だかなんだか知らないけど、そっちの世界で祝福の神子とかいうすごい存在の陽葵ならやっつけられるんでしょ? RPGだと主人公は負けないんだから、陽葵もしっかり勝って帰って来なさい。もしその人と結婚するなら、私にきちんと挨拶もさせないと許さないからね」
凜の趣味は昔からゲームだった。
陽葵の話を信じてくれてはいるのだろうが、凜はどこかまだ異世界のことをゲームの世界の話のように感じているらしい。
魔王との戦いで陽葵が絶対に勝てるとも限らない。
それでも陽葵の勝利をRPGの主人公が絶対に負けないことのように確信してくれている凜の気持ちに、肩肘張っていた気持ちがすとんと楽になった気がした。
「ほんと、私、お姉ちゃんのこと大好きだな」
「なに、急に」
「絶対ちゃんと帰って来るからね」
「当たり前でしょ。お姉ちゃんをひとりにしないでよね」
凜が小指を差し出してくる。
子どもの頃から約束をするときは決まって指切りをした。
陽葵は凜と小指を絡ませて指切りをしながら胸に誓う。
絶対にジルの元に帰って、また凜にも会いに来るのだと。




