反逆 2
漆黒の谷は王都近くにある深い渓谷であり、地形や魔物に阻まれて人間が容易にたどり着くことのできないその底には魔王を封印したと言われている巨大な洞窟が存在する。
魔王が世界を荒らし回ったという話は、伝説になるほど昔の話であり、今や架空の物語だと思っている者もいるほどだが、王族は魔王の存在を信じてその封印を守り続けてきた。
騎士団の中でも秘密任務を任されることが多いノワールの最重要任務のひとつも、魔王の封印が解けていないか、緩んでいないかを監視することだった。
陽葵がこの世界に現れてすぐ、ジルは自らの足で魔王の封印を確認しに行ったことがある。
現地の見張りから報告を受けていた通り、封印に一切の緩みはなく、陽葵という神子がこの世界に現れても封印に影響はないのだとジルは信じてきた。
だが、魔王が復活したということは、その判断は誤りだったのだろう。
ルーティの報告では、今日の夕刻に突然漆黒の谷から巨大な黒竜が現れて、最も近くの村を根絶やしにしたらしい。
現場から命からがら隣の村に逃げ延びた村人からの報告を騎士が受けて、ようやくその惨状は城にまで伝わった。
それをルーティが知ったのは、リヒターが陽葵の部屋を訪ねてきて陽葵をあっという間に連れ去ってしまったからだったらしい。
「リヒター様が、魔王が復活した以上、ジル様に神子の管理を任せておく訳にはいかないって陽葵を連れて行きました」
そう報告したルーティのいつも血色のいい唇は青くなっており、事態の深刻さを彼女が正しく捉えていることをジルは理解した。
ルーティから報告を受けてすぐ、ジルは執務室を飛び出してリヒターの元へと向かった。
城内はいつも通りの様子であり、魔王復活に慌てたり怯えたりしている者は存在しない。
まだ一部にしかこの事実は知らされていないことを察しながら、ジルはリヒターの執務室のドアを叩いて返事が聞こえるなり、室内へと大股で入り込んだ。
「陽葵様をどうされるおつもりですか?」
一枚板でできた重厚な執務机の向こう側。
ジルを座ったまま迎えたリヒターは頬杖を突いたままこちらを見つめ返す。
その表情には普段の兄として振る舞おうとする柔和さはなく、王として冷徹な判断を下す上に立つ者の圧があった。
「わかっているだろう。陽葵様には神子として魔王に挑んでもらう」
「私も行きます」
「魔法使いはふたりもいらない。騎士団の中で選りすぐりの騎士を既に僕が選定済みだ。既に村がひとつ滅ぼされている。これ以上の被害が出る前に、陽葵様が祝福の神子であることを示してくださることを祈るしかない。でなければ、彼女を災禍の神子として人々の憎悪の対象とするしかないだろうな」
悲劇が起きたとき、人は誰かを悪者として心の平静を保つ。
魔王の復活は天災のようなものだ。
天災を憎むことは難しくとも、人が人を憎むことは簡単だ。
陽葵が敗北すれば、リヒターは陽葵が魔王に挑んで死んだことも伏せて、陽葵がこの世に現れたから魔王が復活したという噂を流すのだろう。
そうして、歴史の書には陽葵は災禍の神子として名を刻む。
現在の歴史に名を残すかつての神子も、もしかすると魔王復活のきっかけなどではなく、魔王討伐のために現れたにもかかわらず、理不尽に不名誉な名をなすりつけられたのかもしれない。
表情をころころと変えて、よく笑い、よく泣く陽葵が災禍の神子とされる未来なんて、ジルは想像もしたくなかった。
「陽葵様は攻撃魔法の習得はしていません。いきなり魔王との戦いに放り出すなんて無謀です」
「陽葵様には別室でメイディアに攻撃魔法を教えさせている。彼女には類い稀なる魔法の才能があるのはジルもわかっているだろう。剣士に前衛は任せて、後衛で魔法を放たせるだけならば問題ない」
「ですが……!」
「ジル。君がごねても僕の決断は変わらない」
感情的になりかけたジルに冷や水を浴びせるように、リヒターは温度の低い声で告げる。
継母に虐げられてきた幼い頃に唯一味方をしてくれた優しい兄の姿は、そこにはなかった。
「僕は国を、君は好いたたった一人の女性を守ろうとしている。愛する妻を持つ者として、君の想いは尊いものだと感じるよ。だが、僕は王として、弟のわがままに決意を揺るがせるわけにはいかないんだ」
リヒターの背負っているものの重さをジルは間近で見て理解してきた。
その重みを陰ながら支えられればと思い、魔法の腕を磨き、ノワールの隊長として日々実直に務めてきたのだ。
だからこそわかる。
リヒターは陽葵を魔王の前に放り出し、死んだとしても淡々と次の行動へと移るだけだろう。
国を守る王として、その振る舞いは正しい。
ジルは唇を噛み締めて、叫びたい言葉の数々を必死に飲み込んだ。
「……わかりました」
「魔王復活についてはまだ周知していない。ルーティとメラスにも口止めしておいてくれ。他は命令があるまで普段通りの仕事を続けなさい」
「はい」
爪が食い込むほどに拳を握りしめてうなずいたジルは、踵を返してリヒターの執務室を出る。
廊下にはジルを追いかけてきたルーティとメラスが不安げな表情で待機していた。
「ジルさん、一体どうなったんですか?」
メラスの問いに答えず、ジルは苦い表情のまま俯いて足早に歩きだす。
顔を見合わせたルーティとメラスが後をついてくるのをそのままにさせて、ジルが向かったのはいつも陽葵がいた部屋だった。
ドアを開けると、そこにいつもいたはずの陽葵はいない。
がらんとした部屋はきれいに整頓されており、陽葵が治癒魔法の練習にいつも使っていた切り花が窓際の机の上で月明かりを浴びているだけだった。
「陽葵、リヒター様が来て魔王復活を告げても、ちょっと驚いただけで……。連れて行かれるときも、なんの抵抗もしなかったんです」
「彼女は聡い。リヒター様が陽葵様を魔王討伐に送り出そうと考えていることにすぐに気が付いたんだろう」
「っそんな! 無茶です!」
「そうですよ! 陽葵様は攻撃魔法なんて使えない!」
「メイディアが教えているそうだ。陽葵様ほどの才能があれば、攻撃魔法なんてすぐに簡単に扱えるようになるだろうな」
絶望の表情を見せるルーティとメラスを横目に、ジルは窓際の机に歩み寄る。
置かれた切り花は瑞々しく可憐で、まるで陽葵がジルへの別れの挨拶のために置いて行ったようだった。
陽葵はきっと自身が魔王を討伐できると信じている。
後ろ向きな気持ちで、リヒターに付いていったわけではないだろう。
だが、戦場に出て無事でいられる保障なんて誰にもない。
そんな危険を愛した女に冒させる気は、ジルにはさらさらなかった。
「ルーティ、メラス」
窓から差し込む月明かりを背に、ジルは背後のふたりを振り返る。
改まったジルの声に、ルーティもメラスもハッと落としていた視線を上げた。
「私は陽葵様を愛している。彼女をリヒター様の言うままに死地に行かせる気はない。反逆罪に問われようと、私のわがままに共に命を懸けてくれないか」
ジルの考えは無謀なものであり、うまくいくとは自分でも到底思えるものではなかった。
それでも、陽葵が傷つかず、平和な元の世界に帰るためならば、ジルは実行するつもりだった。
たとえそれが反逆の罪に問われる可能性がある行為だとしても。
決意に満ちたジルの言葉に、ルーティとメラスは胸に手を当てて騎士の礼をする。
ふたりの表情にも一切の迷いはなかった。
「陽葵のためなら」
「俺もひと肌脱がせてもらいますよ」
「……ありがとう」
陽葵の人望があったからこそ得られた仲間に、ジルは感謝を告げる。
そして、ジルはすぐに行動へと移った。




