あふれた想い 3
「……お待たせしました」
何度も顔を洗っても瞼の腫れぼったさは取れなかった。
諦めて寝癖を直して着替えを済ませた陽葵はドアを細く開けて廊下を覗く。
ドアの横で壁を背にして立っていたジルは陽葵のか細い声に反応して、小さな子どもを脅かさないように細心の注意を払う怪物のような慎重な動きで部屋に入ってきた。
「……ルーティは?」
「ふたりで話しなさいって、そっちの部屋に行ってくれました」
続き部屋を指差すと、ジルは「ああ」と納得した様子で後ろ手にドアを閉める。
しん、と一瞬静まった部屋には気まずい沈黙が落ちた。
陽葵が意識を失う前の記憶は、ジルに背後から抱き締められてキスをされた記憶だ。
そして、怒りに満ちた表情のジルがその直後に言っていた言葉も覚えている。
――私以外に魔力の補給をさせる気はなかったのでは?
あれは一体どういう意味だったのか。
束縛めいた台詞にときめきながらも、真意を問う勇気はない。
陽葵が沈黙の中でどうしようかと視線を彷徨わせていると、向き合っていたジルが気まずそうに目を伏せた。
「陽葵様、申し訳ありませんでした」
「えっ、なにがですか?」
「……あなたを泣かせてしまったことを心から悔いています」
「へ?」
心底気落ちしている様子のジルに、陽葵は素っ頓狂な声を返す。
伏せていた目をジルが上げて、陽葵はジルとぱちりと目が合った。
「戦闘の興奮を引きずったまま戻って、陽葵様にキツく当たってしまいました。魔力の補給も同意なしの強引なものになってしまったことを反省していたのです」
「えっ、それで私が泣いたと思われてるんですか?」
「……違うのですか? それで先程も来るなと言われたのだとばかり思っていたのですが」
「えー!? 全然違います!」
罪悪感に押しつぶされそうな表情をしているジルに、陽葵は慌てて首を横に振る。
そんな誤解をさせているとは全く思っていなかった。
「では、なぜ泣いておられたんですか?」
「それは、いろいろな事情がありますけど……」
「なにか他に被害があったんですか?」
「いえ、そんなことはなくて」
ジルの気配が途端にピリ付く。
陽葵を害するものは例え己であっても許さないというジルの雰囲気が嬉しくて、陽葵はほろっと照れ笑いを浮かべた。
「魔力切れが苦しかったのもあったんです。でも、ルーティを助けられてほっとした気持ちとか、メラスが魔力の補給をしようとしたことにびっくりした気持ちとか、そういうのがぐちゃぐちゃになって……、ジルさんが来てくれて、安心した、と言いますか……」
言っていて、だんだん恥ずかしくなってくる。
メラスが陽葵の命を守るために魔力の補給を試みたことはわかっている。
それでも、あのとき陽葵はジルでなくてはいやだと思った。
魔力の補給は人工呼吸のようなものだ。
救命措置なのだから、誰から受けても構わないもののはずなのに、ジルでなくてはいやだった。
たったひとりにしか唇を許したくないと思う理由。
そんなものはひとつしかない。
(私……、ジルさんのことが好きなんだ)
ずっとどこかで理解していた気持ちは、心の中で言葉にすると急激に深まった気がした。
メラスによる魔力の補給をジルが止めて強引に唇を奪ってくれたことが、もしジルの嫉妬から来る行動なのだとしたら嬉しい。
でも、そんな理由は陽葵の妄想で、ジルの優しさに期待していたことが全部勘違いだったとしたらと思うと怖くて聞けない。
陽葵は臆病な気持ちでジルに問いたいことは胸のうちに引っ込めて、自分の気持ちだけを言葉にした。
「とにかく私が言いたいのは……、これからもジルさんからしか魔力の補給は受けませんってことです。だから、ああいうことがあったら、きっとまた駆けつけてくださいね」
冗談っぽくへらりと笑ってお願いした陽葵の耳は真っ赤に染まっていた。
ジルは一瞬面食らったような表情をした後に、困ったように眉を下げる。
「もう二度とあいいうことは起こらないようにしてください。そもそも、部屋から出ることは許可していなかったでしょう」
「でも役に立てるなら今しかないと思ったんです」
「それにしても無理は禁物です。陽葵様には私から与えられる魔力しかないんですから。もう少し魔力の出力を調整して、燃費をよくする方法も研究してください」
「それは確かに」
治癒魔法のおかげで多くの人を救うことはできたが、結局陽葵は倒れてしまった。
誰かを助けて自分が倒れて結局周りの手を患わせていては本末転倒だ。
魔法陣のさらなる調整を課題とした陽葵に、ジルはやっと安堵した様子で肩の力を抜いた。
「あなたが泣いたときは焦りました」
「もしかして嫌われちゃったと思いました?」
「ええ」
「えー? ふふっ」
「笑うところじゃないでしょう」
「嬉しくて」
ジルは陽葵に嫌われたと感じて焦ってくれるらしい。
その事実は陽葵の恋心を優しくくすぐった。
くすくす笑う陽葵にジルは柔らかく目を細める。
その表情が愛しげに見えるのは恋心が見せる幻覚なのかもしれない。
「陽葵様がお元気そうで安心しました。あなたの帰還魔法は私とメイディアで研究中です。必ず元気なまま元の世界にお帰ししますからご安心を」
「あ、それは、もうすぐ完成しそうってことですか?」
「古い資料をメイディアと共にあさって、大方完成はしています。なので、もうあまり長くはかからないかと思います」
穏やかな口調で言うジルの言葉に「そうですか」と返しながら、陽葵はてっぺんから奈落へと突き落とされたような気分になった。
元の世界に帰りたい気持ちはある。
姉の凜に会いたいし、もしも探してくれているのなら自分は無事だと伝えたい。
だが、元の世界に帰ったらルーティとメラスにはもちろん、ジルにも会えなくなってしまう。
その未来を考えると、胸が引き絞られたように辛かった。
「祝福の神子にも災禍の神子にもならなくて構いません。あなたはただの迷子として、魔王なんかにかかわらず無事元の世界に帰ってください」
「……はい」
ジルの言葉には優しさしかない。
陽葵の無事を祈ってくれているジルの気持ちは陽葵を思いやってのものだ。
それがわかっていても、別れが迫っているという事実に心はズキズキと痛んで仕方がなかった。




