迷い込んだ異世界 2
「私のファーストキス!」
「お目覚めですか、神子様」
ガバリと毛布を撥ねのけながら起き上がった陽葵の耳に冷静な声が届く。
そちらを見ると、窓際に置かれた机に何やら書類を広げて仕事をしている様子のあの青年がいた。
陽葵のファーストキスを奪った謎の男だ。
こぢんまりとした部屋には穏やかな空気が流れており、窓の外では小鳥が木の枝を飛び移りながらさえずっている。
ベッドに寝かされていた陽葵は周囲を見回して、ふと胸元に視線を落とす。
自身が着ている服がセーラー服ではないことに気が付いた瞬間ベッドから飛び出して、ワンピースのような白い寝間着を着せられている自分の姿を見下ろした。
「えっ、嘘!? 着替えって……?」
「もちろんあの時一緒にいた女性に頼みましたのでご安心を。彼女はメイディア。私はジルと申します」
「あ、佐伯陽葵です」
「サエキヒマリ様」
「いえ! 佐伯が苗字で、陽葵が名前です」
「なるほど、陽葵様ですね」
部屋にはにこりと笑ったジルしかいないらしい。
メイディアの姿を思い出して、あのナイスバディとしか言えない豊満な体の持ち主に貧相な体を見られたのかと密かなショックを受ける。
手元の書類の角を整えて机に置いたジルに、陽葵は狼狽えながらも向き直った。
「あ、あの、助けてくださったんですよね? ありがとうございました」
「乙女のファーストキスを奪ってしまってすみません」
笑顔のままさらりと言われて、陽葵はむぐぐと唇を曲げて頬を染める。
飛び起きたときに思わず叫んでしまったことで気にしているとバレたとはいえ、改めて謝罪されると恥ずかしかった。
「いえ、あれは人工呼吸だってわかってますから大丈夫です」
「人工呼吸ではなく魔力の補給を行わせていただきました」
「魔力の補給……?」
「あなたには魔力がなく、魔力を自力で生み出すこともできないようです。この世界では魔力がないと生きていけませんから。ここが陽葵様が生きてきた世界とは異なる世界であることは、もうおわかりでしょうか?」
「さすがにおわかりです」
神妙にうなずいた陽葵は腰を据えて話を聞こうとベッドに腰掛ける。
陽葵を見つめるジルのラベンダー色の瞳は光を吸い込んだ宝石みたいに美しい。
ファンタジーの世界に迷い込んでしまったのだと実感して、唐突に帰れるのだろうかと不安になった。
「ジルさんが、私をこの世界に召喚した、とかですか?」
「いえ、あなたは突然空中から現れました。この世界の伝説通りに」
「空から女の子が現れる的なやつですか?」
「黒曜の髪と瞳を持つ、神子が現れるというものです」
「その神子が私ってことです……?」
「はい。ですが、あなたが祝福の神子か災禍の神子のどちらなのかが誰にもわかりません」
当然陽葵に神子の自覚なんてものはない。
祝福だの災禍だの言われても、ちんぷんかんぷんだ。
陽葵は平凡ではないものの、人並みに幸せな人生を歩んできた。
今年で17歳になる陽葵は5年前に両親を突然事故で失った。
だが、10歳年上の姉にたっぷりの愛情を注がれて、何不自由ない人生を歩んできたのだ。
そんな陽葵は自分が神子だなんて思えなかった。
首を捻る陽葵に、ジルは子どもにおとぎ話を聞かせるように話した。
「昔、この世界に魔王が現れ、人々を蹂躙しました。その魔王が復活する直前にも神子が現れたそうです。様々な文献に神子の存在は記されています。しかし、神子の命懸けの助力によって魔王を討伐できたとして祝福の神子と呼ぶ文献と、神子が訪れたことによって魔王が復活したとして災禍の神子と呼ぶ文献のどちらもが存在するのです」
「……今のところ魔王は復活したりしてるんですか?」
いきなり神子なのだから戦えと言われても困ってしまう。
おずおずたずねた陽葵にジルは首を横に振った。
「いえ。ですが、その予兆がないかは確認しなければいけません。あなたの立場はわかっていただけましたか?」
「私がめちゃくちゃ愛されキャラなのか悪役なのか、今はまだ誰にもわからないってことですよね?」
「そうです」
これからどうなってしまうのか。
途方に暮れる陽葵を横目にジルは立ち上がって、チェストの上にあったベルを手に取った。
「それまで、あなたの存在は公にはできません。あなたの身は私が隊長を務める騎士団暗部組織ノワールが預かります」
チリリリとジルがベルを鳴らすと、間もなくしてドアがノックされる。
ジルの「入れ」という声を合図に開いたドアの向こうにはジルと同世代の赤い髪の青年と、小柄な金髪の猫のような目をした少女が立っていた。




