異世界の洗礼 3
「陽葵、陽葵、どこ行っちゃったの……?」
泣き声が聞こえる。
白い蛍光灯に照らされた見慣れた家のダイニングテーブルで、姉の凜が顔を覆って泣いていた。
「お父さん、お母さん、陽葵を守って。お願い。お願いっ」
涙に濡れた声は陽葵の胸を貫く。
(お姉ちゃん、私はここだよ。ちゃんと生きてるよ。魔法が使えるようになったの。がんばってるよ)
凜が泣く家に、他に人の気配はない。
陽葵がどれだけ声をかけようと、凜の耳に陽葵の声は届かない。
これが夢だと陽葵はわかっていた。
最近は見る頻度が減っていたが、異世界に来てからよく見ている夢だ。
異世界と元いた世界の時間の流れが同じなのかはわからない。
だが、もうこちらに来てから随分と時間が経った。
両親を事故で亡くしてからというもの、親代わりになって陽葵を大切にしてくれていた凜は陽葵の消息がわからなくなったと知れば、きっと必死に探してくれているだろう。
元の世界に帰りたい。
その思いをもちろん今だって陽葵は抱えている。
だが、元の世界に帰ればルーティとメラス、そして何よりジルに会えなくなるのだと思うと、それはとてもつらいことに感じられるほどに、陽葵は異世界の人々のことも大切に思うようになっていた。
治癒魔法の研究に打ち込んでいる間や、ジルと共にいる時間は夢中になっていて、元の世界への気持ちを忘れてしまうことも多い。
それは凜に対する裏切りのように感じられて、夢の中で泣いている凜に責められているようにも感じられた。
「陽葵……。お願い、帰って来て」
掠れた泣き声で陽葵を呼ぶ凜の弱々しい姿を見て、陽葵は途方に暮れる。
(ごめん。ごめんね、お姉ちゃん。忘れてなんかないよ。本当だよ。会いたいよ)
じわ、と閉じていた瞼から涙が沁みだして溢れる感覚があって、陽葵は緩く瞬きをして目を覚ます。
鼻を啜りながら窓を見ると、カーテンの向こう側はもう明るかった。
ジルが続き部屋にいることに妙に緊張して寝付けなかったのは最初だけで、眠りに就いてからはぐっすりだったらしい。
自分の乙女心も大したことはないと、ちょっと可笑しく思いながらも陽葵は濡れている目元を拭った。
夢の中の出来事であるため、もちろん凜が本当に陽葵を思って泣き暮らしているかはわからない。
だが、その可能性があると思うだけで、罪悪感に胸が痛む。
朝に強い陽葵は大体爽やかな気持ちで目覚めることが多いが、今朝は憂鬱さをどうしようもできなかった。
ベッドに座って落ち込んでいると、ドアをノックする音が聞こえる。
このノックの音は廊下に通じるドアからのものではなく、続き部屋へのドアの音だ。
ジルのノックだと気付いて、陽葵は慌てて乱れた髪を手櫛で梳かした。
「は、はい」
「起きられましたか? 朝食を用意したので一緒にどうでしょう?」
「ありがとうございます。支度するので、ちょっと待ってください!」
大きな声で返事をした陽葵はベッドから飛び降りて、超特急で身支度を調えた。
最近は一緒に朝食をとってくれるようになったルーティとは女同士ということもあって、寝間着に寝癖頭で朝食を食べることも多いが、ジル相手にそうはいかない。
鏡でチェックした顔は、泣きながら起きたせいか目元がむくんでいたが、もうこれは仕方がない。
他にだらしないところはないことをチェックし終えたところで入っても構わないことを告げると、ジルは紅茶とスコーンののったトレーを持って入ってきた。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「はい。とっても。ジルさんのハーブティーのおかげです」
凜の夢を見たが、よく眠れたのは事実だ。
笑顔でうなずきはしたものの、腫れぼったい瞼を指摘されないかとヒヤヒヤしていた。
顔色を窺うようにこちらを見つめるラベンダー色の瞳にドギマギする。
「それはよかったです」
「あ、ジルさんも眠れました?」
「心配には及びませんよ。朝食にしましょう」
にっこりと微笑んだジルが窓際の机にトレーを置く。
何も言われなかったことにほっとしつつ、ジルと共に机につくとスコーンから香るバターのにおいが空腹を刺激した。
ぐぅ、と遠慮もなく鳴った腹の虫に、紅茶を注いでいるところだったジルの視線がこちらを向く。
ばっちり目が合ったことが恥ずかしくて、陽葵は咄嗟に両手で腹を押さえた。
「朝から元気な腹の虫ですね」
「気付かなかったふりしてくださいよ!」
「腹が減るのはいいことでしょう。私の分もいりますか?」
「大丈夫です!」
明らかにからかっているジルに赤い顔のまま拒否の意を示すと、くっくと喉を鳴らしながらジルはティーポットを置く。
「腹の虫が待ちきれない様子ですから、早く食べてしまいましょう」
「もうっ。いただきます!」
まだからかい口調のジルに怒りながらも、陽葵はあたたかいスコーンを割って一口大にしたものを口に入れる。
ほわっと広がるバターの風味と、噛みごたえのある外側とふんわりとした内側の生地の絶妙なバランスに、すぐに不機嫌は飛んで行ってしまった。
「ん〜、おいしい!」
「よかったですね」
横目にジルを見て、陽葵はドキリとする。
窓から差し込む朝日に照らされたジルの表情は驚く程に柔らかで優しい。
見惚れる程に美しいジルの微笑みに、陽葵はほうと息を吐いた。
「朝のジルさんもかっこいいですね」
「なんですか急に」
「いや、やっぱり輝いてるなと」
「カブのような絵を描いていたのにですか?」
「あれは精一杯描いた結果です!」
他愛ない話をしつつ朝食を食べ終えた頃に、再びノックの音が鳴る。
この音は廊下に通じるドアのノック音だ。
返事をすると入ってきたのはメラスだった。
「おはようございます。ジルさんは昨夜は楽しめました?」
「普通に寝ただけだ」
「え〜? 寝られたんですかあ?」
へらへら笑うメラスをジルが睨む。
「本当は何か忙しかったりしたんですか?」
「いえ。メラスの言うことは気にしないでください。彼も来たことですし、私はそろそろ失礼します。今夜は魔力の補給がありますので、また夜に」
「あ、はい。そうですよね。ありがとうございました」
「あー、ジルさん、ちょい待ち」
護衛の交替が来たのだから、ジルは自分の仕事に戻るのだろう。
陽葵が別れを告げようとしていると、メラスが慌ててジルを止めた。
「何かあるのか?」
「ジルさんは朝からこの部屋を出ない方がいいというかなんというか……」
「どういう意味だ?」
珍しく何か言い淀んでいる様子のメラスは陽葵をチラチラと見ながら話す。
要領を得ないメラスの話にジルが眉を寄せ、陽葵が首を傾げると、メラスは観念したように白状した。
「あー、いや、騎士の間でジルさんが情婦を部下まで使って囲わせてるって噂が……」
「は?」
「じょうふ……? 情婦!?」
不快感を顔一杯にあらわにしたジルはすぐに何を言われているかわかったようだが、陽葵は一瞬理解が追いつかなかった。
言葉の意味がわかった瞬間、ぼんと爆発する勢いで真っ赤になった陽葵にメラスは気まずそうに頬を掻く。
「一応秘密の要人を警護してるって話にしてはあるんですが、おふたりが庭を歩いてるところと、その……キスしてるところを見たって奴がいて一気に噂が回ったみたいですよ」
「そ、そそ、それは! 魔力の補給で……!」
聞こえないとわかっていても陽葵はあわあわとメラスに言い訳をしてしまう。
ジルは呆れた様子で片手で顔を覆った。
「くだらない……。勘違いしている奴らにはさせておけ。私はもう行く」
「いいならいいですけど……」
「よくない! よくないです!」
苛立たしげに立ち去ろうとするジルの腕を掴んで陽葵は必死に引き留める。
情婦と勘違いされている状態で、陽葵の部屋からジルがこんなに朝早く出て行くところを誰かに見られたら誤解は深まるだろう。
「もう少しここにいてください! お昼まで!」
「噂など気にしなくても……」
「お願いです! は、恥ずかしいから!」
ジルの腕に縋り付いたまま、恥ずかしさからの涙目で見上げると目が合ったジルがぐっと黙り込む。
平気そうなふりをしているが、情婦がいるなんて勘違いをされてジルもきっと恥ずかしかったのだろう。
じわじわと耳を赤く染めたジルはため息をついて、うなだれるようにうなずいた。
「……わかりました。そうしましょう」
「そうしてください!」
「ははは、ジルさんも陽葵様には形無しですね」




