学びの喜び 4
ジルは昔から城内にある、この書庫の空気が好きだった。
古い紙のにおいが満ちた埃っぽい広大な空間には、天井まで続く巨大な本棚が規則正しく並んでいる。
世界中から集められた魔法に関する書物や歴史書、物語などが集められた書庫への立ち入りが許可されているのは王族と騎士団が認めた一級以上の魔法使いのみだ。
王族の血が流れており、一級よりひとつ上位の特級魔法使いであるジルは、幼い頃はよく書庫に来ていたが、最近は仕事が忙しく書庫を訪れることも減っていた。
人の気配がない書庫で目的の書物を探しながら、ジルはふと昨夜のことを思い出す。
(どうして許可も得ずにキスなんて……)
無意識にため息が漏れる。
陽葵が初心な少女であることは、今までのかかわりからもわかっていたことだ。
魔力の補給のためで致し方なくする必要があるキスでも、陽葵の尊厳を守り、驚かせないように心掛けなければならないと、ジルは2回目のキスでは気を付けられたはずだ。
だが、昨夜の3回目のキスでは自制ができなかった。
かわいいと思ったのだ。
ジルのひと言でころころと表情を変え、はじめて魔法を使えたことにはしゃぐ陽葵を見て、気が付けば衝動のままにキスをしていた。
魔力の補給が必要であることは確かだったため、そのまま魔力を陽葵に流したが、あれは本能的なものだっただろうと言われれば反論はできない。
幸い陽葵ははじめての魔法を使ったことで、魔力が消費されたと勘違いしてくれていたためそういうことにしたが、あの程度の魔法で即座に魔力の補給が必要になるはずもない。
理性的に生きてきたジルにとって、行動を自制できないなんて経験ははじめてのことだった。
陽葵は受け入れてくれていたが、紳士的な行動だったとは言いがたい。
昨夜からそのことを反省ばかりしている。
別れ際に離れがたい気持ちになり、思わず艶やかな黒髪に触れたのも我欲的な行動だった。
埃が付いていたなんて下手な言い訳をしながら、昨夜は自分の感情と行動にジルは動揺しっぱなしだった。
(定期的なキスによって、距離感が曖昧になっているのかもしれない。彼女は恋人ではないのだから、気を付けなければ……)
「——ジルってば」
「うわ」
背後から肩を叩かれて驚いて振り返ると、頬に人差し指が突き刺さる。
そこにいたのはいたずらっぽく妖艶な笑みを浮かべたメイディアだった。
強張った体の力が一気に抜ける。
「驚かせないでくださいよ……」
「ノワール隊長が背後を取られるなんて情けない。私が刺客だったら、おまえの頬には穴が空いていたかもしれないよ?」
髪と同じくワイン色をした整えられた爪の先を見せるように、メイディアはジルの前でくるくると指を回す。
反論できずに、ジルは苦い表情を返すしかなかった。
「何度も呼んだのに返事がなかったから、ちょっといたずらしたまでさ。おまえがそんなにぼんやりしているのも珍しい。何か悩み事でもあるなら、このメイディア様が聞いてあげよう」
「結構です。悩み事などありません」
「おまえはそんなに嘘が下手だったかな?」
くすくす笑うメイディアに胡乱な眼差しを向けながらもジルは歩みを進め、目的の本棚へとたどり着く。
巨大なはしごを昇ったり、浮遊魔法を使わずとも届く位置にあった本に手を伸ばして、一冊、二冊と抜き取っていると、それをメイディアはまじまじと覗き込んできた。
「その本はジルには簡単すぎるだろう?」
「これは私のために借りるのではなく、陽葵様のために借りるものです」
「陽葵様って、あの神子の?」
「はい。貸し出しの許可をお願いします」
メイディアは特級魔法使いであり、あらゆる魔法具の研究を行う傍ら、この書庫の管理人も任されている。
書庫の本を持ち出すにはメイディアの許可が必要だ。
「ふーん」
目尻の垂れた赤い瞳がジルを射貫く。
本当はこの書庫から陽葵のための魔法の教本を借りたくはなかった。
しかし、魔法について詳しく書かれた本は入手が難しく、ここで借りざるを得なかった。
幼い頃からジルのことをよく知っているメイディアは、ジルの心などお見通しなのだろう。
ジル自身にも自覚はあった。
陽葵にジルは大きく心を揺り動かされている。
メイディアはジルをからかって遊ぶところがある人間だ。
今の感情を外側から刺激されたら、ころっと戻れないところまであっさり転がっていってしまいそうでジルは身構えていたのだが、メイディアの目は意外なほどに冷静だった。
「……なにか?」
思わずたずねたジルに、メイディアは腕を組む。
「祝福の神子か災禍の神子か。彼女がどちらかまだわからないのに、魔法を教えるなんて早計なんじゃないかい?」
「祝福の神子だった場合には、魔王ではないにしても何かの災厄の際に陽葵様にはご活躍いただかなくてはいけないかもしれません。そのために魔法を教える許可は王からも得ています」
「それなら、彼女が災禍の神子だったとき、おまえは彼女を殺せるんだね?」
冷や水を浴びせられたようだった。
冷静なメイディアに対して、ジルは唇が戦慄くのを感じた。
「なにをそんな……」
「必要な覚悟だよ。神子の存在はほとんどの者に秘匿されてる。あの子がいることを知っている私達の中の誰かが彼女を殺さなければいけないかもしれない。魔王復活の兆しが見られたときに、神子を殺せば復活を阻止できる可能性だって否定できないんだからね」
残されたかつての文献の中には災禍の神子の存在によって魔王が復活したという記載も存在した。
それが事実なら、魔王が完全に復活する前に災禍の神子を亡き者とすれば確かに魔王復活は防げるのかもしれない。
そんなことは、ジルは理解していた。
わかっていたのに、ジルは陽葵を殺せるかと問われて、すぐにはうなずけなかった。
俯いたジルに、メイディアは厳しかったまなざしを緩める。
「とはいえ、彼女が祝福の神子だっていう可能性が否定できないのもまた事実。魔法を教えることに反対はしないけど、あまり心を奪われると彼女が吉兆ではなく凶兆だったときにつらい思いをすることになるよ」
歩み寄ってきたメイディアがジルの肩をそっと叩く。
その表情は慈しみに満ちたものだった。
「悪いけど、私はぽっと出の神子よりおまえが大事だからね。芽吹きはじめの感情に私は水を与えられないよ」
「……そんなことは余計なお世話です」
「あら、そうかい? 相手が神子でなければ、私は散々水も肥料も与えてやるつもりだったけどね」
くすくす笑ったメイディアは、ジルが持っていた本の表紙にしなやかな指先で触れた。
「この本は快く貸し出そう。神子が祝福をもたらす存在であることを祈ってるよ」
ひらりと手を振ったメイディアが書庫の奥へと去って行く。
コツコツと響く彼女の足音が遠くなっていくのを聞きながら、ジルは額を擦った。




