空席の理由
「それで?」
校門へ向かいながら、松が隣で口を開いた。
「コンクールに出す作品のこと、もう考えたのか?」
俺は横目で彼を見た。
「まだだよ」
「まだ?」
「まだ」
松は大げさにため息をついた。
「大輝、お前は本当にのんびりしてるな」
「まだ時間はあるだろ」
「文学部の部長が言ってただろう? 今週から応募が始まるって」
「覚えてるよ」
「その『覚えてる』っていう言い方が心配なんだよな」
思わず笑ってしまった。
「心配しすぎだって」
「作家って、みんなそう言うんだよ」
「お前、いつから作家に詳しくなったんだ?」
松は胸を張った。
「作家の友達がいるからな」
「俺はまだ何も出版してないぞ」
「でも、話し方は完全に作家だ」
「それ、褒めてるのか?」
「たぶんな」
相変わらず適当な返事だった。
朝の校庭には、次々と生徒たちが集まり始めていた。
楽しそうな話し声。
笑い声。
部活動の準備をする生徒たちの姿。
いつもと変わらない光景だった。
それなのに――。
胸の奥に残る違和感だけは消えなかった。
理由は分からない。
ただ、何かがいつもと違うような気がしていた。
正門をくぐると、何人かのクラスメイトが俺たちに挨拶をしてきた。
俺たちも軽く頭を下げながら挨拶を返す。
そのまま階段を上り、教室へ向かった。
教室の扉を開いた瞬間――。
俺の視線は、ほとんど無意識のうちにある場所を探していた。
三列目。
窓際の席。
そこには誰もいなかった。
思わず足を止める。
「え?」
隣にいた松も、俺の視線を追った。
「ああ、八神はまだ来てないみたいだな」
その言葉を聞いても、違和感は消えなかった。
舞夜が遅れるなんて珍しい。
むしろ、いつも誰よりも早く教室に来ているくらいだった。
始業のベルが鳴る前から、本を読んでいる姿を見かけることも少なくない。
俺は自分の席に鞄を置いた。
「電車が遅れたのかもしれないな」
「その可能性はあるな」
松は気楽な口調で答えた。
俺も、その考えに納得しようとした。
きっと、それが一番自然な理由だ。
そう思った。
けれど――。
胸の奥にあった小さな違和感が、再び顔を出した。
俺はもう一度、窓際の席を見た。
そこには、まだ誰も座っていなかった。
時間がいつもより遅く流れているように感じた。
教室には次々と生徒たちが入ってくる。
椅子を引く音。
友人同士の会話。
笑い声。
いつもと変わらない朝の風景だった。
その中で、一つだけ変わらないものがあった。
舞夜の席だった。
まだ誰も座っていない。
しばらくすると、田中結衣が教室に入ってきた。
友達と話しながら歩いていた彼女は、舞夜の席を見るなり、不思議そうに眉をひそめた。
「まだ来てないの?」
俺は首を横に振った。
「うん」
「珍しいね」
結衣は鞄からスマートフォンを取り出した。
「メッセージを送ってみる」
素早く文字を入力する。
送信。
そして、画面を見つめた。
数秒が過ぎる。
返事はなかった。
結衣はもう一度、画面を確認した。
「既読にもなってない」
小さな声だった。
その言葉を聞いて、胸の奥がわずかにざわついた。
けれど、まだ心配するほどではない。
そう思いたかった。
教室の時計を見る。
始業時間までは、まだ少しだけ余裕があった。
きっと、もうすぐ来る。
そう信じながら、俺は再び窓際の席へ視線を向けた。
そこには、変わらず静かな空席が残されていた。
「きっと、すぐに来るだろう」
そう思っていた。
しかし、時間だけが静かに過ぎていった。
教室にはほとんどの生徒が集まっている。
それでも、舞夜の姿は見当たらなかった。
結衣はスマートフォンを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「返事がないね」
松が軽く肩をすくめる。
「大丈夫だって。そのうち来るだろ」
「そうかな」
「きっと寝坊したんだよ」
「舞夜が?」
結衣は疑わしそうな表情を浮かべた。
確かに、それは少し想像しにくかった。
松もそれに気づいたのか、苦笑いを浮かべる。
「まあ、それはないかもしれないな」
教室の空気が少しだけ変わっていた。
まだ誰も心配しているわけではない。
ただ、いつもそこにいるはずの人がいない。
それだけだった。
それなのに、その小さな違和感が、教室全体に静かに広がっているような気がした。
俺は無意識のうちに時計へ視線を向けた。
始業の時間が近づいていた。
それでも、窓際の席は空いたままだった。
その時だった。
始業を知らせるチャイムが校舎に響いた。
教室のざわめきが少しずつ静まっていく。
生徒たちはそれぞれ自分の席に着いた。
ほぼ同時に、教室の扉が開いた。
全員の視線が自然と入り口へ向けられる。
一瞬だけ、胸が高鳴った。
けれど――。
入ってきたのは担任の先生だった。
いつもと変わらない表情だった。
腕には出席簿を抱えている。
「おはようございます」
「おはようございます!」
教室に声が響いた。
先生は教壇に立つと、いつものように出席確認を始めた。
一人ずつ名前を読み上げていく。
教室には返事が次々と響いていた。
俺は無意識のうちに、窓際の席を見つめていた。
そこだけが、まるで時間から取り残されたように静かだった。
「八神舞夜」
先生が静かな声で名前を呼んだ。
返事はなかった。
教室は静まり返っていた。
先生は顔を上げる。
数秒間、そのまま待っていた。
けれど、誰も答えなかった。
先生は出席簿に何かを書き込んだ。
「欠席」
それだけを告げると、再び出席確認を続けた。
何事もなかったかのように。
けれど、俺の意識はもう授業には向いていなかった。
舞夜が欠席するなんて、本当に珍しい。
体調を崩したのだろうか。
それとも、何か用事ができたのだろうか。
いくつもの考えが頭の中をよぎる。
しかし、どれもしっくりこなかった。
窓際の席に視線を向ける。
そこには誰もいない。
ただ静かな空間だけが残されていた。
その瞬間だった。
胸の奥にあった違和感が、少しだけ大きくなった気がした。
理由は分からない。
けれど、その小さな変化が、何かの始まりであるような気がしてならなかった。
そして、俺はまだ知らなかった。
この空席が、これから訪れる大きな出来事の最初の兆しだったということを。
第九十八話を読んでくださって、ありがとうございました。
いつもと変わらないはずの朝。
松との会話。
教室へ向かういつもの道。
しかし、その日だけは一つだけ違うことがありました。
舞夜の席が空いていたのです。
小さな違和感は、少しずつ不安へと変わり始めています。
そして、その理由はまだ誰にも分かりません。
次回もぜひお楽しみください。




