胸騒ぎの朝
午前六時半。
目覚まし時計の音が、俺を眠りの世界から引き戻した。
「あと五分だけ……」
半分眠ったまま、反射的にアラームを止める。
そして、そのまま枕に顔を埋めた。
五秒後――。
「いや、このままだとまた遅刻するな……」
小さく呟きながら、ゆっくりと体を起こした。
昨夜の雨はすっかり止んでいた。
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。
空気もいつもより少しだけ冷たかった。
俺は大きく背伸びをしてから、洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔を見て、思わず苦笑した。
「ひどい顔だな……」
どう見ても寝不足だった。
制服に着替え、階段を下りる。
一階からは朝食の香りが漂ってきていた。
いつもの朝。
いつもの景色。
それなのに、なぜか胸の奥に小さな違和感が残っていた。
その正体を、まだ俺は知らなかった。
食堂へ入ると、焼きたてのパンとコーヒーの香りが家中に広がっていた。
「おはよう」
俺が椅子に腰を下ろすと、母さんが笑顔で朝食をテーブルに並べた。
「おはよう、大輝」
「ありがとう」
向かいの席では、妹の妙子が牛乳を飲んでいた。
俺の顔を見るなり、小さく吹き出す。
「お兄ちゃん、昨日遅くまで起きてたでしょ?」
「そんなに分かるか?」
「すぐ分かるよ」
妙子は楽しそうに笑った。
「なんだかゾンビみたいだもん」
「それは褒め言葉じゃないな」
「褒めてないもん」
父さんは新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
ページをめくりながら、静かに口を開く。
「文化祭は成功したそうだな」
「うん。思った以上にうまくいったよ」
「それは良かった」
いつもと変わらない朝だった。
家族との何気ない会話。
穏やかな時間。
それなのに、俺の意識は何度も昨夜のことへ戻っていた。
別に何かが起きたわけじゃない。
変わった出来事もなかった。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残っている。
理由は分からなかった。
ただ、何かを見落としているような気がしていた。
俺は湯気の立つお茶を一口飲んだ。
すると、母さんが不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「え?」
「さっきからずっと考え事をしてるでしょう?」
思わず目を瞬かせた。
「そんなに分かりやすかった?」
「ええ」
母さんは優しく微笑んだ。
「朝からずっと上の空よ」
俺は小さく笑いながら首を横に振った。
「次に何を書こうか考えてただけだよ」
完全な嘘ではなかった。
舞夜と出会ってから、物語を書くことが日常の一部になっていた。
けれど、今の気持ちは創作とは少し違う。
これは――不安だった。
どこから来たのかも分からない、不思議な胸騒ぎだった。
学校へ向かう道は、いつもより静かだった。
昨夜の雨に濡れた落ち葉が、朝の日差しを受けて小さく輝いている。
並木道を吹き抜ける風は心地よかった。
歩きながら、俺は何気なくスマートフォンを取り出した。
新しい通知はない。
いつもの癖で、舞夜とのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは文化祭の日のままだった。
指が自然にキーボードの上で止まる。
「おはよう」
短い言葉を入力した。
数秒間、その文字を見つめる。
けれど――。
送信することはなかった。
ゆっくりと削除する。
「俺は何をしてるんだろうな……」
小さく笑った。
毎日連絡を取り合う必要なんてない。
あと少し歩けば、学校で会えるのだから。
それなのに、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
スマートフォンをポケットにしまう。
空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。
こんなに穏やかな朝なのに、どうしてこんな気持ちになるのか、自分でも分からなかった。
ちょうどその時だった。
「大輝ー!」
聞き慣れた大声が、静かな朝の空気を切り裂いた。
振り返る。
そこには、片方の肩にだけ鞄を掛けた松が、全力でこちらへ走ってくる姿があった。
片手を大きく振りながら、必死に駆け寄ってくる。
「待てって!」
思わず笑みがこぼれた。
「また遅刻しそうなのか?」
「まだ遅刻じゃない!」
息を切らしながら、松は勢いよく答えた。
「一時間目が始まってないんだから、まだセーフだ!」
「その理屈はおかしいだろ」
「俺の中では正しいんだよ!」
ようやく俺の隣までたどり着くと、松は両手を膝についた。
肩で大きく息をしている。
「はぁ...はぁ...」
「大丈夫か?」
「たぶん...」
どう見ても大丈夫そうには見えなかった。
しばらくして呼吸が落ち着くと、松は顔を上げた。
「いつか絶対に早起きしてやる」
「その台詞、一年生の頃から聞いてる気がする」
「安心しろ」
松は真剣な表情で胸を張った。
「いつかは実現する」
「いつかって、何年後だ?」
「卒業までには何とかなるだろ」
思わず吹き出してしまった。
相変わらずだった。
その適当な性格も、妙な自信も、何ひとつ変わっていない。
それが少しだけ嬉しかった。
松と並んで歩いているうちに、不思議と胸のざわめきは少しずつ薄れていった。
いつもの会話。
いつもの通学路。
そんな何気ない時間が、自然と気持ちを落ち着かせてくれる。
「そういえば」
松が突然口を開いた。
「文化祭のあと、何か変わったことはあったか?」
「どうして?」
「いや、特に意味はない」
意味がないようには聞こえなかった。
俺は少し考えてから首を横に振った。
「特に何もないよ」
「ふーん」
松は意味ありげに笑った。
「本当に?」
「本当だって」
「舞夜さんとも?」
思わず足が止まりそうになった。
「どうしてそこで舞夜が出てくるんだよ」
「だって、最近のお前を見てると分かりやすいからな」
「何が?」
「全部だよ」
松はそう言って笑い出した。
まったく説明になっていない。
「お前な...」
「安心しろ」
彼は軽く肩を叩いた。
「俺は応援してるぞ」
「だから、何をだよ」
返事の代わりに、松は楽しそうに笑うだけだった。
その笑顔を見ているうちに、俺も少しだけ肩の力が抜けていくのを感じていた。
それでも、胸の奥に残る違和感だけは、完全には消えていなかった。
しばらく歩いているうちに、学校の校門が見えてきた。
朝の日差しが校舎の窓に反射している。
いつもと変わらない景色だった。
けれど、胸の奥に残る違和感だけは消えなかった。
「どうした?」
松が不思議そうに俺を見た。
「いや、何でもない」
そう答えたものの、自分でも納得できなかった。
理由は分からない。
ただ、何かが変わろうとしている。
そんな気がしていた。
校門をくぐる直前、俺は無意識に空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
こんなに穏やかな朝なのに、不思議だった。
その頃――。
もう一人の誰かも、同じように学校へ向かっていた。
そして、その人物はすでに一つの決断を下していた。
その決断は、きっと多くの人の未来を変えることになる。
もちろん、その時の俺は何も知らなかった。
ただ、胸の奥に小さな不安を抱えたまま、いつものように校舎へ足を踏み入れた。
新しい一日が始まろうとしていた。
そして、それはこれまでとは少し違う一日になるはずだった。
第九十七話を読んでくださって、ありがとうございました。
大輝にとっては、いつもと変わらない朝でした。
家族との朝食。
松との何気ない会話。
穏やかな通学時間。
しかし、その胸には説明のできない違和感が残っていました。
一方で、誰かはすでに大きな決断を下しています。
その決断が、これからどのような変化をもたらすのか。
次回もぜひお楽しみください。




