あの日の真実
部屋の中は静まり返っていた。
窓を叩く風の音だけが、夜の静けさをわずかに揺らしている。
舞夜は机の前に座ったまま動かなかった。
電話が終わってから、まだ数分しか経っていない。
それなのに、あの言葉だけが何度も頭の中で繰り返されていた。
「ずいぶん長い時間が経ちましたね」
――。
「星龍学園は、あなたのことを忘れていません」
スマートフォンの画面はすでに消えていた。
登録されていない電話番号。
表示されていたのは、それだけだった。
舞夜は小さく息を吐いた。
指先がかすかに震えている。
机の上には、白い封筒が置かれていた。
何年もの間、一度も開かれることのなかった手紙。
彼女は約束していた。
開かないと。
忘れると。
あの出来事は、もう終わったことなのだと、自分に言い聞かせ続けてきた。
けれど、その幻想は一本の電話によって簡単に壊されてしまった。
舞夜はゆっくりと両手を伸ばした。
白い封筒を静かに持ち上げる。
数秒間、そのまま見つめていた。
そして、小さく呟いた。
「もう、逃げられない」
その声は、とても弱々しかった。
けれど、その瞳には確かな決意が宿っていた。
ゆっくりと封筒の端に指をかける。
長い時間、封じ込められていた過去。
今、その扉を開く時が訪れていた。
舞夜は封筒を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
封を閉じていた蝋は、何年もの時間を閉じ込めているように見えた。
彼女は静かに息を吸い込む。
そして、ゆっくりと封を破った。
紙が裂ける小さな音が、静かな部屋に響く。
それは、とても小さな音だった。
けれど舞夜には、長い間閉ざされていた扉が開く音のように聞こえた。
封筒の中には、一枚の便箋しか入っていなかった。
写真もなければ、資料もない。
ただ、一通の手紙だけだった。
舞夜は折りたたまれた便箋を慎重に開いた。
その瞬間、胸が強く締めつけられる。
見覚えのある文字だった。
どれだけ時間が経っても、忘れることのできない筆跡。
一文字見るだけで、誰が書いたのか分かった。
目の奥が熱くなる。
まだ一行も読んでいない。
それなのに、涙がこぼれそうになっていた。
何度か深呼吸を繰り返す。
視線を落とす。
そして、最初の一文を読んだ。
「舞夜へ」
その二文字だけで、止まっていた時間が動き始めた。
「もし、この手紙を読んでいるのなら、君はあの日から逃げることをやめたんだろう」
舞夜の手が大きく震えた。
その一文だけで十分だった。
忘れたはずの記憶が、次々と蘇ってくる。
日の差し込む教室。
ページをめくる音。
誰かの笑い声。
そして――。
ずっと忘れられなかった名前。
「蓮……」
小さく呟いた瞬間、一粒の涙が便箋の上に落ちた。
舞夜は慌てて涙を拭った。
文字を消したくなかった。
もう二度と、この言葉を失いたくなかったからだ。
彼女は便箋を握り直した。
そして、再び視線を文字へと向けた。
黒いインクで書かれた文字が、時間を止めてしまったかのようだった。
「もし、この手紙を読んでいるのなら、君はあの日から逃げることをやめたんだろう」
舞夜は便箋から目を離せなかった。
喉の奥が締めつけられるような感覚がする。
何年も経ったはずだった。
何年も、自分に言い聞かせてきた。
いつか、この記憶は消えていくのだと。
けれど、消えることはなかった。
ただ、心の奥で眠っていただけだった。
そして今、その記憶が再び目を覚まそうとしていた。
窓の外では、雨が降り始めていた。
小さな雨粒が、一定のリズムで窓ガラスを叩いている。
舞夜は目を閉じた。
「どうして……今なの?」
答えを期待したわけではなかった。
部屋には彼女しかいない。
それは分かっていた。
それでも、思わず口にしてしまった。
ゆっくりと目を開く。
再び、便箋へ視線を向けた。
次の文章も、見慣れた筆跡で丁寧に書かれていた。
その文字は、何年もの空白を埋めるように、静かに彼女の心へ入り込んでいった。
舞夜は唇を強く結んだ。
便箋を持つ指先に力が入る。
次の文章を読んだ瞬間、呼吸が止まりそうになった。
「きっと、君は僕を許せないだろう」
「それでも、それは当然のことだ」
「僕自身も、長い間、自分を許すことができなかった」
舞夜の胸が痛んだ。
そこに書かれていた言葉は、言い訳ではなかった。
責任から逃れようとする文章でもなかった。
まるで、自分の罪を受け入れた人間の告白のようだった。
窓の外では、雨が少しずつ強くなっていた。
雨音が部屋の静けさを埋めていく。
舞夜は目を閉じた。
遠い記憶が、少しずつ形を取り始めていた。
ぼんやりとした景色。
薄暗い廊下。
閉じられる扉。
けれど、その先を思い出すことができない。
まるで霧の中にいるようだった。
彼女はゆっくりと息を吐いた。
そして、再び手紙へ視線を落とした。
この先を読めば、何かが変わる。
そんな予感がしていた。
それでも、もう立ち止まるつもりはなかった。
舞夜は静かに次の行へと目を移した。
次の文章を読んだ瞬間、舞夜の心臓が大きく脈打った。
「君に許してほしいとは思っていない」
「ただ、真実だけは知ってほしい」
「――あの日の真実を」
舞夜は息をのんだ。
「あの日」
その言葉だけで十分だった。
二人の間では、何の説明も必要なかった。
古い校舎の廊下。
閉まる扉の音。
誰かの叫び声。
そして、止まない雨。
記憶は断片的だった。
壊れた鏡の破片のように、少しずつ目の前に現れては消えていく。
すべてを思い出すことはできなかった。
それでも、心の奥に眠っていた感情だけは、はっきりと蘇っていた。
舞夜は額に手を当てた。
「嫌...」
声が震える。
「思い出したくない...」
けれど、視線は手紙から離れなかった。
止めようと思っても止められない。
彼女は再び便箋を握りしめた。
文字はまだ続いている。
そして、その中に、一つだけ強く書かれた文章があった。
まるで、書いた本人が最後まで迷っていたかのように。
舞夜はゆっくりと、その一文を読んだ。
舞夜はゆっくりとその一文を読んだ。
「君のせいじゃない」
その言葉を見た瞬間、彼女の手から力が抜けた。
便箋が机の上に落ちる。
呼吸が急に苦しくなった。
「違う...」
小さな声が漏れる。
何年もの間、彼女は自分を責め続けてきた。
「あの日、私がもっと早く気づいていれば」
「あの日、違う言葉を選んでいたら」
「あの日、あの場所へ行かなければ」
そんな後悔が、毎晩のように彼女の心を苦しめてきた。
それなのに――。
たった五文字の言葉が、そのすべてを否定していた。
「君のせいじゃない」
舞夜の頬を涙が伝った。
一粒。
そして、もう一粒。
涙は止まらなかった。
両手で顔を覆う。
声を上げて泣くことはなかった。
ただ、静かな涙だけが流れ続けていた。
それは、長い間閉じ込められていた感情だった。
誰にも見せることのなかった悲しみだった。
窓の外では、雨が降り続いていた。
夜の街は静かだった。
けれど、舞夜の中では、止まっていた時間がゆっくりと動き始めていた。
そして、その夜はまだ終わっていなかった。
手紙には、まだ続きが残されていたのだから。
第九十六話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに舞夜は手紙を開きました。
長い間、閉ざされていた過去。
そして、「君のせいじゃない」という言葉。
止まっていた時間が、少しずつ動き始めています。
それでは、次の話でお会いしましょう。




