封印された手紙
夜の八神家は静まり返っていた。
日はとっくに沈み、窓の外には暗い空が広がっている。
雲の切れ間から、わずかな星だけが顔をのぞかせていた。
舞夜は自分の部屋の窓辺に立ち、しばらく夜空を見つめていた。
机の上には三つのものが置かれている。
クリーム色のノート。
読みかけの小説。
そして、一通の白い封筒。
長い間、一度も開かれることのなかった手紙だった。
舞夜はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
右手を伸ばし、封筒の上にそっと指を置く。
けれど、すぐには開かなかった。
まだ、その時ではない。
彼女は静かに目を閉じた。
部屋の中には時計の針が進む音だけが響いている。
どれほど時間が過ぎただろうか。
小さな吐息がこぼれた。
「私は、あとどれくらい逃げ続けるつもりなんだろう……」
その声は、自分に問いかけるような小さな独り言だった。
窓の外では、風が静かに木々を揺らしていた。
そして、舞夜の心の中にも、ゆっくりと過去の記憶が動き始めていた。
舞夜は封筒を見つめたまま、動かなかった。
指先がわずかに震えている。
机の上に置かれた白い封筒は、いつもと何も変わらない。
それなのに、その存在だけが妙に大きく感じられた。
ゆっくりと目を閉じる。
すると、記憶が次々と浮かび上がってきた。
教室。
窓を打つ雨の音。
静かな図書室。
そして――。
ある人の声。
今でもはっきりと思い出せる声だった。
「言葉には、人を救う力がある」
「でも、その言葉が誰かを一生傷つけることもある」
舞夜は突然、目を開いた。
呼吸が少し乱れている。
「分かってる」
小さく呟いた。
「そんなこと、誰よりも分かってる」
彼女は両手で封筒を持ち上げた。
鼓動が少しずつ速くなっていく。
これまで何度も開こうとした。
けれど、そのたびに手が止まった。
もし、この手紙を読んでしまったら――。
何かが変わってしまう気がした。
だから、ずっと避け続けてきた。
しかし、もう以前の自分ではなかった。
南と出会った。
文学部に入った。
物語を書き続けた。
そして、自分の言葉を誰かに届けることを知った。
それでも、過去だけは置き去りにしたままだった。
舞夜は静かに息を吐いた。
その視線は、まっすぐ封筒へ向けられていた。
舞夜は封筒を両手で包み込むように持った。
指先に力を入れる。
もう少しだけ。
あと少しだけ勇気を出せば、この封印を解くことができる。
その時だった。
机の上で、小さな振動音が響いた。
突然の出来事に、舞夜は肩を震わせた。
視線を向ける。
スマートフォンの画面が光っていた。
着信だった。
彼女はゆっくりと手を伸ばす。
画面には、登録されていない電話番号が表示されていた。
誰だろう。
そんな疑問が頭をよぎる。
数秒間、ためらった。
しかし、そのまま無視することもできなかった。
舞夜は静かに通話ボタンを押した。
「もしもし……」
返事はなかった。
受話口の向こう側は、不気味なほど静かだった。
数秒の沈黙が続く。
舞夜は無意識のうちに、封筒を握る手に力を込めていた。
そして――。
ようやく、男性の声が聞こえてきた。
「八神舞夜さんですか?」
落ち着いた声だった。
しかし、その一言だけで、彼女の胸は強く締めつけられた。
「はい……私です」
短く答える。
けれど、不安は消えなかった。
その声には、どこか懐かしさのようなものが含まれていたからだ。
舞夜は無意識のうちに息をのんだ。
電話の向こうで、再び沈黙が流れた。
舞夜はスマートフォンを握りしめたまま、相手の言葉を待っていた。
そして、その男性は静かな口調で言った。
「ずいぶん長い時間が経ちましたね」
舞夜の体がわずかに強張る。
その声には聞き覚えがなかった。
それなのに、不思議な圧迫感があった。
「どちら様ですか?」
彼女は慎重に尋ねた。
しかし、相手は質問には答えなかった。
再び短い沈黙が訪れる。
そして――。
次の言葉が、彼女の表情を一変させた。
「星龍学園は、あなたのことを忘れていません」
その瞬間だった。
舞夜の顔から血の気が引いていく。
心臓が激しく鼓動を打った。
「どうして、その名前を……」
かすれた声が漏れる。
しかし、返事はなかった。
通話は突然切れてしまった。
部屋の中に、静寂だけが残される。
舞夜は動けなかった。
片方の手にはスマートフォン。
もう片方の手には、白い封筒。
時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。
重たい沈黙が、部屋全体を包み込んでいた。
舞夜はしばらくその場から動くことができなかった。
スマートフォンの画面はすでに消えている。
それでも、先ほど聞いた言葉だけが頭の中で何度も繰り返されていた。
「星龍学園は、あなたのことを忘れていません」
小さく息を吐く。
しかし、胸のざわつきは消えなかった。
どうして今になって、その名前が出てきたのだろう。
なぜ、このタイミングだったのだろう。
机の上に視線を落とす。
そこには、白い封筒が置かれていた。
長い間、向き合うことを避け続けてきた手紙。
けれど、もう逃げることはできない。
舞夜は静かに封筒を手に取った。
指先はまだ震えていた。
それでも、その瞳に迷いはなかった。
「もう終わりにしなきゃ」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
過去の自分かもしれない。
あるいは、今の自分だったのかもしれない。
窓の外では、雲の隙間から一つの星が姿を見せていた。
舞夜はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、封筒の封に指をかけた。
今度こそ、後戻りはしない。
そんな決意が、その横顔にははっきりと表れていた。
舞夜は白い封筒を両手で持ち上げた。
何年もの間、開くことのできなかった手紙。
何度も向き合おうとした。
そのたびに、恐怖が彼女の手を止めた。
けれど、もう迷いはなかった。
「もう逃げない」
静かな声が部屋に響く。
ゆっくりと指を動かした。
封筒の端に爪をかける。
わずかな音とともに、封印が少しずつほどけていった。
舞夜は小さく息をのんだ。
胸の鼓動が速くなる。
しかし、その手は止まらなかった。
少しずつ。
慎重に。
封は完全に破られた。
彼女は静かに目を閉じる。
長い時間、閉ざされていた物語。
見ないふりをしてきた過去。
忘れようとしても忘れられなかった記憶。
そのすべてが、ようやく動き始めようとしていた。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
机の上には、開かれた封筒が置かれていた。
舞夜はゆっくりと中に手を入れる。
そして――。
折りたたまれた一枚の便箋を取り出した。
物語の続きを知る瞬間が、すぐそこまで迫っていた。
第九十五話を読んでくださって、ありがとうございました。
秋祭りの賑やかな時間とは対照的に、今回は舞夜が一人で過去と向き合う夜を描きました。
長い間、閉ざされたままだった手紙。
そして、突然の電話。
止まっていた時間が、ついに動き始めようとしています。
次回、その手紙に何が書かれていたのかが明らかになります。
それでは、次の話でお会いしましょう。




