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名前のない言葉

秋祭りまで、あと二日となった。


学校全体が、期待と活気に包まれている。


廊下には色とりどりのポスターが貼られていた。


体育館からは、音楽部の演奏を練習する音が聞こえてくる。


中庭では、模擬店の準備も始まっていた。


授業中でさえ、食べ物の香りが風に乗って漂ってくるほどだった。


放課後になると、舞夜と俺はまっすぐ文学部の部室へ向かった。


扉を開けた瞬間、いつもとは違う雰囲気を感じる。


部室の中は、これまでになく賑やかだった。


部員たちは机を運び、展示用のパネルを並べている。


陽人先輩は手にしたリストを見ながら、一人ひとりに指示を出していた。


「よし」


先輩は一枚の紙に目を落とした。


「作品は、この順番で展示します」


「感想は、こちらの箱に入れてください」


そう言って、小さな木箱を指差す。


そして、最後に部員全員を見渡した。


「それから、もう一つ大事なことがあります」


部室の空気が少しだけ引き締まった。


陽人先輩は穏やかな表情のまま続ける。


「祭りが終わるまで、作者の名前は公開しません」


その言葉に、部員たちは一斉に頷いた。


「分かりました!」


元気な返事が部室に響く。


隣にいた舞夜も、小さく微笑んでいた。


秋祭りは、もうすぐそこまで来ていた。

陽人先輩が手招きした。


「南くん、少しいいですか?」


「はい」


近づくと、一枚の紙を手渡された。


それは、俺が書いた短編だった。


印刷された自分の文章を見るのは、どこか不思議な気分だった。


一番上には題名が書かれている。


『分け合った傘』


その下には、何も書かれていなかった。


名前はない。


あるのは、物語だけだった。


俺はしばらく紙を見つめていた。


「変な感じがします」


思わず本音が漏れる。


陽人先輩は穏やかに微笑んだ。


「どうしてですか?」


「まるで、自分が書いたものじゃないみたいです」


先輩は静かに首を横に振った。


「いいえ」


「ただ、もう南くんだけのものではなくなったんです」


俺は顔を上げた。


陽人先輩は続ける。


「秋祭りが始まれば、この物語はさまざまな人に読まれるでしょう」


「そして、それぞれが違う意味を見つけるはずです」


「そのどれもが、間違いではありません」


俺はもう一度、原稿に視線を落とした。


同じ文章でも、読む人によって受け取り方は変わる。


そんなことを考えたことはなかった。


俺はその言葉を心の中にしまい込んだ。


物語は、書き終えた瞬間に完成するわけではないのかもしれない。


誰かが読み、何かを感じた時に、初めて新しい形を持つのだろう。

ほかの部員たちが準備を続ける中――。


舞夜が小さく手を振った。


「南くん、少し来てもらえますか?」


「うん」


彼女の後についていく。


向かった先は、部室の奥にある小さな本棚だった。


そこは、ほかの部員たちの声がほとんど届かない静かな場所だった。


舞夜は、一冊の本を両手で持っている。


「少し考えていたことがあるんです」


「何かあったの?」


彼女は本をそっと棚に戻した。


「以前、私の小説に出てくる手紙について質問しましたよね?」


「ああ、覚えてるよ」


「どうして誰が書いたのかを明かさないのかって聞いたでしょう?」


俺は頷いた。


舞夜は小さく微笑む。


「最近になって、その理由が少し分かった気がするんです」


俺は黙って彼女の言葉を待った。


「時々、言葉は誰のものか分からないほうが、もっと強く心に届くことがあると思うんです」


「書いた人のことを考えるのではなくて、自分自身のことを考えるようになるから」


その言葉を聞いた瞬間、秋祭りの展示のことを思い出した。


作者の名前がない物語。


それを読む、見知らぬ誰か。


もしかしたら、陽人先輩は最初からそれを伝えたかったのかもしれない。


「たぶん、舞夜の言う通りだと思う」


そう答えると、彼女は楽しそうに笑った。


「最近、陽人先輩の考え方が少しずつ分かるようになってきました」


本棚には、たくさんの本が並んでいた。


けれど、その時の俺には、舞夜の言葉のほうがずっと印象に残っていた。

部室へ戻ろうとした時だった。


「ちょうど二人を探していたんです」


陽人先輩の声が聞こえた。


俺たちは振り返った。


先輩の手には、小さな白い封筒が二つあった。


「これを渡しておきます」


そう言って、一つを俺に差し出す。


もう一つは舞夜に手渡された。


「これは?」


封筒を開けると、小さなカードが入っていた。


そこには数字が印刷されている。


俺のカードには、『7』と書かれていた。


隣では、舞夜も自分のカードを見つめている。


「私は十二番です」


彼女は不思議そうに首を傾げた。


「この番号には何か意味があるんですか?」


陽人先輩は微笑んだ。


「いいえ」


「完全にランダムです」


「先入観を持たせないためですよ」


そう言いながら、先輩は手にしていたリストをファイルの中へ戻した。


作品の順番も、番号も、すべて公平に決められている。


それが、この展示会のルールだった。


俺はカードを見つめた。


たった一つの数字なのに、不思議と緊張してくる。


二日後には、この番号の下に自分の物語が並ぶのだから。

陽人先輩は、俺たちの顔を順番に見渡した。


そして、穏やかな口調で話し始める。


「一つだけ、忘れないでください」


部室の中が静かになった。


作業をしていた部員たちも、自然と先輩のほうへ視線を向ける。


「今回の秋祭りの目的は、褒められることではありません」


誰も言葉を挟まなかった。


陽人先輩は続ける。


「大切なのは、自分の言葉が誰かに寄り添えたかどうかです」


その言葉を聞きながら、俺は手の中のカードを見つめた。


七番。


その数字に、特別な意味はない。


けれど、その向こうには自分の物語がある。


舞夜が静かに頷いた。


「忘れません」


その表情には、迷いがなかった。


俺も小さく頷く。


いつの間にか、その考え方が少しずつ好きになっていた。


何かを証明するために書くのではない。


誰かに寄り添うために書く。


それが、陽人先輩の考える文学なのだろう。


そして、その考え方は、少しずつ俺の中にも根づき始めていた。

部室を出る頃には、窓の外は夕暮れの色に染まっていた。


廊下には、祭りの準備を続ける生徒たちの姿が見える。


楽しそうな笑い声が、校舎のあちこちから聞こえてきた。


秋祭りまで、あと二日。


学校全体が、特別な時間を迎えようとしていた。


階段を下りながら、舞夜が小さな封筒を取り出した。


中から現れたのは、「12」と書かれたカードだった。


彼女はそれを静かに見つめる。


「どうしたの?」


俺が尋ねると、舞夜は少し照れたように笑った。


「なんでもありません」


そう言って、カードを胸の前で軽く握った。


校舎の出口にたどり着くと、俺たちは立ち止まった。


空には、赤く染まった雲がゆっくりと流れている。


「もうすぐですね」


舞夜が空を見上げながら言った。


「ああ」


「少し緊張する?」


「少しだけ」


そう答えると、彼女は小さく笑った。


「私もです」


俺たちは並んで歩き始めた。


これまでと変わらない帰り道だった。


けれど、心の中には小さな期待が生まれていた。


誰かが物語を読んでくれる。


そして、何かを感じてくれるかもしれない。


それだけで十分だった。


別れ際、舞夜はもう一度カードを取り出した。


そして、「12」という数字をそっと見つめる。


次の瞬間、そのカードをいつものクリーム色のノートの間に挟んだ。


静かな笑みが浮かぶ。


その表情を見ながら、俺は思った。


秋祭りで何が起こるのかは分からない。


それでも――。


その笑顔だけで、今日という一日は十分に価値のあるものだった。

第九十三話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、秋祭りの準備とともに、「言葉が誰のものなのか」というテーマを描きました。


名前がなくても、言葉は誰かの心に届きます。


そして、その言葉が誰かに寄り添えたなら、それだけで物語には大きな意味が生まれるのかもしれません。


次回はいよいよ秋祭りが始まります。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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