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言葉にしない願い

一週間は、思っていたよりもずっと早く過ぎていった。


朝はいつもの橋から始まる。


昼は授業を受ける。


放課後は図書室や文学部で過ごす。


そんな毎日を繰り返しているうちに――。


気づけば、秋祭りで展示するための短編を書き終えていた。


その日の放課後。


陽人先輩は、部員たちを部室の大きな机の周りに集めた。


俺も特別に参加している。


机の上には、すでに印刷された原稿が並べられていた。


どの作品も、きれいに整理されている。


俺は何気なく原稿を手に取った。


そこに書かれていたのは、題名だけだった。


作者の名前は見当たらない。


「名前は書かないんですか?」


俺が尋ねると、陽人先輩は静かに頷いた。


「はい」


「最後まで、作者の名前は伏せるつもりです」


舞夜が興味深そうに原稿を見つめる。


「素敵な考えですね」


「先入観を持たずに読めますから」


陽人先輩は微笑んだ。


「その通りです」


そして、原稿を指先で軽く整える。


「読者には、言葉だけを見てほしいんです」


「誰が書いたのかではなく、何が書かれているのかを大切にしてほしい」


部室には静かな空気が流れていた。


その中で、陽人先輩が最後に付け加える。


「物語は、自分の力で歩かなければなりませんからね」

部室での打ち合わせが終わったあと――。


舞夜と俺は、秋祭りの会場になる校舎を見て回ることにした。


廊下には、すでにたくさんの生徒が集まっている。


どの部活動も、準備に追われているようだった。


美術部の生徒たちは、廊下に絵を飾っている。


体育館のほうからは、楽器の音が聞こえてきた。


どうやら音楽部が演奏の練習をしているらしい。


中庭では、出店の準備も始まっていた。


机を運ぶ生徒。


看板を作る生徒。


楽しそうな声が、あちこちから聞こえてくる。


学校全体が、いつもとは違って見えた。


まるで別の場所のようだった。


「毎年、いろいろな企画があるんです」


舞夜が楽しそうに話す。


俺は校庭を見渡した。


「一年生の時も、秋祭りには来ていたの?」


舞夜は小さく頷く。


「はい」


「でも、ほとんど一人で回っていました」


俺は思わず足を止めた。


「じゃあ、今年は?」


舞夜も足を止める。


そして、ゆっくりと俺のほうを見た。


その表情は、とても自然だった。


「今年は、一人じゃありません」


その言葉に、心臓が小さく跳ねた気がした。


すぐには返事ができなかった。


俺は何も言わず、再び歩き始める。


舞夜も俺の隣に並んだ。


たった一言だった。


でも――。


なぜだろう。


どんな感謝の言葉よりも、その一言が嬉しく感じられた。

廊下を曲がると、大きな木製のパネルが目に入った。


まだ何も貼られていない。


上には一枚の看板が掲げられていた。


『未来の自分への願いを書いてください』


その横には、もみじの形をした小さな紙が置かれている。


舞夜が足を止めた。


「参加してみませんか?」


「願いを書くの?」


「はい」


俺は頷いた。


悪くないかもしれない。


俺たちは一枚ずつ紙を手に取った。


近くのベンチに腰を下ろす。


俺は思っていたよりも早く書き終えた。


紙を二つに折り、手の中に収める。


隣を見ると、舞夜はまだ考え込んでいた。


ペンを持ったまま、何度も紙を見つめている。


数分後――。


ようやく彼女もペンを置いた。


「書けた?」


俺が尋ねると、舞夜は小さく微笑んだ。


「はい」


俺たちは立ち上がり、パネルの前へ向かった。


俺は自分の紙を貼り付ける。


舞夜も隣に紙を貼った。


お互いの願いを読むことはなかった。


一歩後ろへ下がる。


広いパネルには、まだ二枚の紙しか貼られていない。


でも、数日後にはたくさんの願いで埋め尽くされるはずだった。


舞夜が俺のほうを見た。


「何を書いたんですか?」


俺は笑いながら首を振る。


「舞夜が教えてくれるなら、話してもいいよ」


彼女は小さく笑った。


「それなら、秘密のままにしておきましょう」


「いつか、分かるかもしれませんし」


俺も笑った。


もしかしたら、その日が来るのかもしれない。


そんな気がした。

校舎へ戻ろうとした時だった。


突然、強い風が中庭を吹き抜けた。


乾いた落ち葉が空へ舞い上がる。


その瞬間――。


願いを書いた紙の一枚が、掲示板から外れて飛ばされてしまった。


「危ない!」


反射的に駆け出した。


紙は風に流されながら、中庭の花壇のほうへ飛んでいく。


あと少しで地面に落ちそうだった。


俺は手を伸ばす。


「取った!」


紙をしっかりとつかんだ瞬間、後ろから舞夜の声が聞こえた。


「すごいですね」


振り返ると、彼女が笑顔で立っていた。


「なかなかいい反射神経です」


俺は手にした紙を見つめた。


自分のものではない。


もちろん、舞夜のものでもなかった。


誰か別の生徒が書いた願いだった。


俺たちは紙を丁寧に元の場所へ戻した。


そして、もう一度しっかりと貼り直した。


その様子を見ながら、舞夜が小さく呟いた。


「また読まなかったんですね」


「え?」


意味が分からず、彼女のほうを見る。


舞夜は優しく微笑んだ。


「前にも同じことがありましたよね」


「私が落としたメモを見つけた時も、読まなかったでしょう?」


ようやく彼女の言いたいことを理解した。


確かに、あの時もそうだった。


俺は少し考えてから答えた。


「言葉には、届けたい相手がいると思うんだ」


「だから、読むべきじゃないと思った」


舞夜は静かに俺を見つめていた。

舞夜はゆっくりと視線を落とした。


そして、小さな声で答えた。


「もし、もっと多くの人がそう考えてくれたらいいのに」


風が再び吹き抜ける。


中庭の木々が静かに揺れていた。


俺は彼女の横顔を見つめる。


その言葉には、どこか特別な意味が込められているように感じた。


けれど、何も聞かなかった。


聞いてはいけない気がしたからだ。


しばらくの間、俺たちは並んで歩いた。


落ち葉が足元を転がっていく。


校舎の窓には、夕日が反射していた。


「もうすぐですね」


舞夜が空を見上げながら言った。


「何が?」


「秋祭りです」


「ああ、そうだね」


彼女は小さく頷いた。


「楽しみです」


その横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


けれど、その瞳の奥には、ほんのわずかな寂しさも見えた気がした。


それが何を意味しているのか、俺にはまだ分からなかった。


ただ一つだけ確かなことがあった。


舞夜にとって、今日の出来事は単なる偶然ではなかったということだ。

再び校舎へ向かって歩き始めた。


夕暮れの光が廊下の窓を赤く染めている。


生徒たちの笑い声が、あちこちから聞こえてきた。


秋祭りまで、あと数日。


学校全体が期待に包まれていた。


「南くん」


舞夜が小さな声で呼んだ。


「うん?」


「展示される作品、楽しみですか?」


少し考えてから答える。


「正直に言うと、少し緊張してる」


舞夜はくすりと笑った。


「私もです」


「読んだ人がどんな感想を書いてくれるのか、少し怖いですよね」


「そうだね」


けれど、不思議だった。


以前の俺なら、自分の文章を誰かに読まれるなんて考えられなかったはずだ。


それなのに今は、少しだけ楽しみにしている自分がいた。


校舎の入り口に到着すると、舞夜が立ち止まった。


そして、願いを書いたパネルのほうを振り返る。


「いつか、お互いの願いを知る日が来るでしょうか」


俺は小さく笑った。


「どうだろう」


「その時までのお楽しみかな」


舞夜も優しく微笑んだ。


窓の外では、落ち葉が静かに舞っていた。


言葉にできない願い。


まだ伝えられない気持ち。


それでも、それらは確かにそこに存在していた。


そして、少しずつ未来へ向かって歩き始めていた。


第九十二話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、秋祭りの準備を通して、少しずつ変化していく二人の日常を描きました。


言葉にしない願いは、誰の心の中にも存在しています。


だからこそ、その願いがいつか誰かに届く瞬間は、とても特別なのかもしれません。


次回はいよいよ秋祭りが始まります。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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