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物語は記憶から生まれる

授業は昼過ぎに終わった。


ほとんどの生徒が校舎を出ていく中、舞夜と俺は文学部の部室へ向かっていた。


そこへ入るのは、今回が初めてだった。


今までは、いつも廊下で待っていただけだったからだ。


舞夜が静かに扉を開く。


「失礼します」


部屋の中には、本の香りが漂っていた。


壁際には本棚が並んでいる。


窓から差し込む夕日が、大きな机とその周りの椅子を優しく照らしていた。


部屋の隅には、古いタイプライターが置かれている。


きっと、昔の部員が残したものなのだろう。


原稿に目を通していた陽人先輩が顔を上げた。


そして、穏やかに微笑む。


「ようこそ」


俺は少し緊張しながら椅子に腰を下ろした。


「誘っていただいて、ありがとうございます」


すると、陽人先輩は首を横に振る。


「お礼を言う必要はありません」


「今日は、お客さんとして来たわけではありませんから」


俺は首を傾げた。


「え?」


陽人先輩は、当たり前のように言った。


「今日は、作家として来たんですよ」


その言葉を聞いた瞬間、思わず顔が熱くなった。


「まだ、その呼び方は早い気がします」


すると、陽人先輩は静かに微笑んだ。


「それを決めるのは、書く人ではありません」


「読む人です」


俺は何も言えなかった。


けれど――。


なぜだろう。


その言葉が、少しだけ嬉しかった。

机の上には、何枚もの原稿が並べられていた。


どれも秋祭りで展示される予定の作品だった。


陽人先輩は、一枚ずつ原稿を指さしながら説明を始める。


「企画自体は、とてもシンプルです」


「来場者には部室を自由に見て回ってもらいます」


「そして、気になった短編を読んでもらうんです」


舞夜は興味深そうに原稿を眺めていた。


陽人先輩は続ける。


「もし感想を書きたいと思ったら、作者にメッセージを残せるようにする予定です」


舞夜が少し驚いたように目を見開いた。


「感想も書いてもらえるんですか?」


「ええ」


陽人先輩は頷く。


「作家は物語から学ぶだけではありません」


「読者から学ぶことも、とても多いんです」


そう言ってから、今度は俺のほうへ視線を向けた。


「だからこそ、南くんにも参加してほしいと思っています」


「長い作品を書く必要はありません」


「短くても構いません」


「大切なのは、心から書くことです」


俺は机の上の原稿に目を向けた。


そこには、それぞれ異なる物語が並んでいる。


どの作品にも、書いた人の思いが込められているのだろう。


俺はゆっくりと頷いた。


「頑張ってみます」


陽人先輩は満足そうに微笑んだ。


その隣では、舞夜も嬉しそうな表情を浮かべていた。

その後、俺たちは図書室へ移動した。


舞夜は向かい側の席に座る。


机の上には、いつものクリーム色のノートが置かれていた。


俺の前には、一枚の白い紙。


鉛筆を手に取る。


けれど――。


何も書けなかった。


五分が過ぎる。


十分が過ぎる。


十五分が過ぎても、紙の上には一文字も並んでいなかった。


俺は深いため息をつく。


すると、舞夜が鉛筆を置いた。


「何も思いつきませんか?」


「思いつきすぎるんだよ」


俺は苦笑した。


「それが問題なんだ」


舞夜は優しく微笑む。


「それなら、物語から考えないほうがいいかもしれません」


「え?」


俺は顔を上げた。


舞夜はノートを閉じる。


「最初に思い出を探してみてください」


「思い出?」


彼女は静かに頷いた。


「物語は、感情から生まれると思うんです」


「嬉しかったことでも、悲しかったことでも構いません」


「目を閉じた時に、今でも思い出せる瞬間を探してみてください」


「大切なのは、本当の気持ちです」


俺は何も言わなかった。


ただ、静かに目を閉じる。


そして――。


昔の記憶を探し始めた。

ゆっくりと目を閉じる。


すると、一つの光景が浮かんできた。


雨の日だった。


まだ小学生だった頃のことだ。


学校からの帰り道で、俺は傘をなくしてしまった。


空からは激しい雨が降っている。


家まで走ろうかとも思った。


でも、どう考えても全身ずぶ濡れになる。


途方に暮れながら校門の前に立っていると、一人のおじいさんが声をかけてくれた。


近所に住んでいる人だった。


顔を見たことはあったけれど、ほとんど話したことはない。


「一緒に帰ろうか」


そう言って、おじいさんは自分の傘を少し傾けた。


俺は小さく頭を下げる。


そして、二人で歩き始めた。


雨が傘を叩く音だけが聞こえていた。


会話はほとんどなかった。


それでも、不思議と気まずさは感じなかった。


家の近くの角に着くと、おじいさんは足を止めた。


そして、穏やかな笑顔を浮かべながら言った。


「大人になったら、今度は君が誰かに傘を貸してあげなさい」


それだけだった。


特別な出来事ではない。


けれど、その言葉だけは今でもはっきりと覚えていた。


俺は静かに目を開いた。


目の前には、真っ白な紙がある。


そして、その隣には舞夜がいた。


俺は鉛筆を握り直した。


今なら書ける気がした。

それから、どれくらい時間が過ぎただろうか。


俺は夢中になって鉛筆を動かしていた。


紙の上には、少しずつ文章が並んでいく。


雨の匂い。


濡れた道路。


一本の傘。


そして、短い言葉。


思い出をたどるように書いているうちに、いつの間にか物語が形になっていた。


ようやく最後の一文を書き終える。


俺は鉛筆を机の上に置いた。


「できたかも」


舞夜が顔を上げる。


「本当ですか?」


「ああ」


彼女はノートを閉じた。


「読んでもいいですか?」


少し迷った。


けれど、ここまで来て断る理由もない。


俺は書き終えた原稿を彼女に渡した。


舞夜は両手で丁寧に受け取る。


そして、静かに読み始めた。


図書室には、ページをめくる音だけが響いていた。


俺は向かい側に座りながら、落ち着かない気持ちを隠そうとしていた。


自分の書いたものを誰かに読まれるのは、思っていた以上に緊張する。


特に、その相手が舞夜ならなおさらだった。

舞夜は静かに原稿を読み進めていた。


一行ずつ、丁寧に言葉を追っていく。


俺は落ち着かない気持ちのまま、彼女の表情を見つめていた。


少しして――。


舞夜の口元に小さな笑みが浮かんだ。


さらに読み進めるうちに、その表情は少しずつ柔らかくなっていく。


最後のページまで読み終えると、彼女はすぐには顔を上げなかった。


最後の一文をもう一度読み返しているようだった。


やがて、ゆっくりと視線を上げる。


「南くん」


「どうだった?」


舞夜は原稿の最後の段落を指差した。


「ここが、とても好きです」


そこには、こんな一文が書かれていた。


『あの日、私は気づいた。人生の中には、ほんの数分しか一緒に過ごさない人もいる。でも、その短い時間が、一生心に残ることもあるのだと。』


舞夜は静かに原稿を閉じた。


「きっと、この言葉はたくさんの人の心に残ると思います」


思わず肩の力が抜けた。


「本当に?」


彼女は迷うことなく頷く。


「はい」


「だって、この文章を読んだ時、私も誰かのことを思い出しましたから」


「誰かって?」


思わず聞きそうになった。


でも、やめた。


舞夜も、その名前を口にしなかったからだ。


ただ――。


彼女の優しい笑顔を見ていると、その人が彼女にとって大切な存在だったことだけは伝わってきた。


図書室の入り口では、陽人先輩が静かにその様子を見守っていた。


部屋の中には入らない。


邪魔をするつもりもないのだろう。


先輩は小さく微笑んだ。


「二人とも、まだ気づいていないんでしょうね」


誰にも聞こえないほど小さな声だった。


「お互いに書くことを教え合いながら――」


「少しずつ、相手のことも理解し始めているんですから」


窓の外では、夕日が静かに校庭を照らしていた。


秋祭りまで、あと少し。


新しい物語が、また一つ生まれようとしていた。

第九十一話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、思い出がどのように物語へ変わっていくのかを描きました。


誰かとの小さな出会いや、何気ない言葉は、時間が過ぎても心の中に残り続けることがあります。


次回は、秋祭りの準備が少しずつ進み始めます。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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