言葉が増えていく日々
その日の朝――。
俺は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
ゆっくりと目を開く。
窓の外では、朝日が少しずつ差し込み始めていた。
俺はしばらくベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
理由はよく分からない。
それなのに――。
頭に浮かんだのは舞夜のことだった。
昨日、卒業までにやりたいことを書いた時の笑顔。
そして――。
一つの言葉が、なぜか心に残っていた。
「これからも、南くんと一緒に学校まで歩きたいです」
自然と、小さな笑みがこぼれる。
大きな約束ではない。
告白でもない。
それなのに――。
その言葉は、眠っている間もずっと心のどこかに残っていた。
「大樹」
突然、母さんの声が台所から聞こえてきた。
「朝ごはんができたわよ」
「今行く!」
俺はベッドから起き上がった。
新しい一日が始まろうとしていた。
食堂には、淹れたてのコーヒーと焼きたてのパンの香りが広がっていた。
父さんは、いつものように新聞を読んでいる。
多恵子は、牛乳を飲みながら朝食を食べていた。
俺が席に座ると、妹がじっとこちらを見つめる。
その顔には、どこか怪しい笑みが浮かんでいた。
「お兄ちゃん、今日も早いね」
「そうか?」
俺はできるだけ自然に答えた。
すると、新聞から目を離さないまま父さんが口を開く。
「最近、毎日早く出ているな」
「何か理由でもあるのか?」
俺は時間を稼ぐために、コーヒーを一口飲んだ。
「別に」
「ただ、ゆっくり歩きながら学校へ行くのが好きなだけだよ」
すると、多恵子が吹き出した。
「へえ」
「不思議だなあ」
嫌な予感がした。
「何が?」
「だって、お兄ちゃんが家を出る時間になると、いつも窓の外に舞夜さんがいるんだもん」
危うくカップを落としそうになった。
「いつから見てたんだよ!」
多恵子は胸を張る。
「結構前から!」
「それに、舞夜さんって挨拶の仕方がすごくかわいいよね」
母さんも優しく微笑んだ。
「本当に礼儀正しい子よね」
俺は小さく頷いた。
「うん」
「そうだね」
父さんはゆっくりと新聞をたたむ。
そして、何気ない口調で言った。
「今度、お茶に誘ってみたらどうだ?」
一瞬で顔が熱くなった。
「ちょっと、父さん!」
その瞬間――。
母さんも、多恵子も笑い始めた。
俺は急いで朝食を食べ終える。
「行ってきます!」
鞄をつかむと、そのまま玄関へ向かった。
背後からは、まだ多恵子の笑い声が聞こえていた。
学校へ向かう途中――。
橋が見えてきた。
遠くからでも、そこに立つ人の姿がすぐに分かった。
舞夜だった。
今日は本を持っていない。
文学部のクリーム色のノートもなかった。
ただ、橋の欄干にもたれながら、水面をゆっくりと流れる落ち葉を眺めていた。
俺の足音に気づいたのか、舞夜が顔を上げる。
「おはようございます」
「おはよう」
俺たちは自然に笑顔を交わした。
そして、そのまま並んで歩き始める。
朝の風は少し冷たかった。
いつもよりも、街は静かに感じられる。
しばらくして、舞夜が口を開いた。
「南くんは、誰と一緒にいるかで場所の印象が変わることってありますか?」
思いがけない質問だった。
俺は少し考える。
「あると思うよ」
「子どもの頃、家の近くの公園がすごく広く感じたんだ」
「でも、今はそんなふうには思わない」
舞夜は静かに耳を傾けていた。
「それって、人と関係があるんですか?」
俺は小さく首を振る。
「いや、少し違うかな」
そう言いながら、橋のほうを見た。
そして、舞夜に視線を向ける。
「一人で歩いている時、この橋はただの橋なんだ」
「でも――」
「君と一緒に歩いている時は、なんだか一日の一部みたいに感じる」
舞夜は何も言わなかった。
風が吹き、髪が優しく揺れる。
しばらくして、小さく笑った。
「たぶん……」
「南くんの言いたいこと、よく分かります」
それから、俺たちは再び静かに歩き始めた。
不思議なことに、その沈黙はとても心地よかった。
言葉を交わさなくても、隣に誰かがいるだけで十分だと思える朝だった。
学校に着くと――。
校舎の入り口に、一人の先輩の姿があった。
陽人だった。
俺たちに気づくと、軽く会釈をする。
「おはようございます」
「おはようございます、陽人先輩」
舞夜と俺は、ほとんど同時に挨拶を返した。
陽人は穏やかに微笑む。
「ちょうど二人を探していたんです」
舞夜が少し首を傾げた。
「何かあったんですか?」
「悪い知らせではありませんよ」
そう言ってから、陽人は話を続けた。
「二週間後に、秋祭りが開催されます」
「文学部も参加することになりました」
舞夜は真剣な表情で耳を傾けている。
「展示会を開く予定なんです」
「来場した人たちが、部員の短編作品を自由に読めるような企画を考えています」
舞夜の表情が少し明るくなった。
「素敵ですね」
陽人は頷いた。
「そう思ってもらえると嬉しいです」
そして――。
今度は俺のほうを見た。
その視線に、少しだけ嫌な予感がした。
陽人先輩は穏やかな表情を崩さないまま、俺を見つめていた。
「南くん」
「はい?」
「以前、授業で書いた作品を読ませてもらいました」
思わず目を瞬かせる。
「え?」
舞夜が驚いたように俺を見る。
陽人先輩は小さく笑った。
「八神さんから見せてもらったんです」
俺は思わず舞夜に視線を向けた。
彼女は少し申し訳なさそうに肩をすくめる。
「ごめんなさい」
「どうしても読んでもらいたくて……」
責める気にはなれなかった。
むしろ、少しだけ恥ずかしかった。
陽人先輩は話を続ける。
「秋祭りでは、部員たちの短編作品を展示する予定です」
「そこで思ったんです」
「南くんの作品も、一緒に展示できないでしょうか」
「えっ?」
思わず声が出た。
「俺の作品ですか?」
「はい」
俺はすぐに首を横に振った。
「無理です」
「そんなに立派なものじゃありません」
陽人先輩は否定しなかった。
ただ、落ち着いた口調で言う。
「完璧な文章を書く必要はありません」
「大切なのは、自分の言葉で書くことです」
舞夜が隣で静かに微笑んでいた。
「南くん……」
「きっと素敵な作品になると思います」
二人の視線を受けながら、俺は言葉を失っていた。
まさか、自分が文学部の展示に参加することになるなんて、想像したこともなかった。
俺は二人の顔を交互に見つめた。
陽人先輩は穏やかに微笑んでいる。
舞夜の表情には、期待がはっきりと表れていた。
しばらく考えたあと、俺は小さく息を吐いた。
「分かりました」
「やってみます」
その瞬間、舞夜の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「うん」
「でも、あまり期待しないでくれよ」
舞夜は嬉しそうに首を横に振る。
「期待します」
「すごく期待しています」
俺は思わず苦笑した。
陽人先輩も満足そうに頷く。
「それでは、決まりですね」
そう言って、先輩は校舎の中へと歩き始めた。
俺たちも後に続く。
昇降口へ向かう途中、俺は窓の外を見た。
校庭には、秋の風に揺れる木々が並んでいる。
気がつけば、俺の周りには以前よりもずっと多くの言葉があった。
舞夜と出会う前なら、小説を書くなんて考えもしなかっただろう。
けれど今は違う。
物語を書く楽しさを少しだけ知っている。
誰かに読んでもらう喜びも知っている。
そして――。
そのきっかけをくれたのは、いつも隣を歩いている少女だった。
教室へ入る直前、舞夜が小さな声で言った。
「南くん」
「頑張りましょうね」
俺は笑いながら答えた。
「ああ」
もしかしたら――。
俺自身も、まだ気づいていない何かを見つけられるのかもしれない。
そんな予感がした。
第九十話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、南くんの周りで少しずつ変化していく日常を描きました。
何気ない会話や、一緒に過ごす時間。
そんな小さな出来事が、いつの間にか新しい物語を生み出していきます。
次回は、秋祭りに向けた準備が本格的に始まります。
それでは、次の話でお会いしましょう。




