過去を開く勇気
その日の最後の授業も、いつも通り穏やかに終わった。
生徒たちが次々と校舎を出ていく中、舞夜はゆっくりとノートを鞄へしまっていた。
俺も少し遅れて、自分のノートを整理する。
「帰る?」
俺が声をかけると、舞夜が顔を上げて微笑んだ。
「はい」
俺たちは、他のクラスメートたちと一緒に教室を出た。
その途中――。
松が鍵を指先で回しながら、俺たちの横を通り過ぎる。
「今日は二人で帰ってくれ」
「妹にスーパーへ行けって言われたんだ」
「……強制?」
俺が尋ねると、松は真剣な顔で頷いた。
「買い物を忘れて帰ったら――」
「俺は生きて明日を迎えられない」
愛莉が思わず笑う。
「じゃあ、急いだほうがいいね」
「そのつもり!」
松は片手を上げて別れを告げると、そのまま廊下を走っていった。
唯が笑いながら首を振る。
「本当に、いつまで経っても変わらないね」
「うん」
愛莉も笑う。
「でも――」
「変わらないでほしいな」
俺たちは四人で話しながら、ゆっくりと階段を下りていった。
校門に着くと、愛莉と唯は別の道へ向かう。
「また明日」
「また明日」
俺と舞夜は、ほとんど同時に答えた。
舞夜と俺は、ゆっくりと歩き始めた。
急ぐ必要はなかった。
夕方の道には、秋の風が静かに吹いている。
しばらく歩いたところで――。
俺たちは、以前舞夜が朗読の練習をした庭へ続く道を通りかかった。
そこには、大きな木が立っている。
地面には、色とりどりの葉が広がっていた。
舞夜が足を止める。
「……少し、座りませんか?」
俺は頷いた。
「うん」
俺たちは、あの日と同じベンチに腰を下ろした。
枝の間を風が通り抜ける。
葉が擦れる音だけが、静かに響いていた。
数分間――。
俺たちは何も話さなかった。
でも、不思議と気まずくはない。
もう、そんな沈黙にも慣れていた。
やがて舞夜が鞄を開く。
中から、クリーム色の小さなノートを取り出した。
そして――。
まだ何も書かれていないページを開く。
舞夜は、そこへ数行だけ何かを書いた。
書き終えると、ゆっくりとノートを閉じる。
「新しいアイデア?」
俺が尋ねると、舞夜は微笑んだ。
「はい」
「でも、今回は小説じゃありません」
俺は少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、何を書くの?」
舞夜は少し視線を落とした。
そして――。
静かな声で答える。
「リストです」
「リスト?」
舞夜は頷いた。
「卒業するまでに、やっておきたいことのリストです」
舞夜は、ノートを膝の上に置いたまま、少し恥ずかしそうに笑った。
「大きな夢じゃないんです」
「ただ……」
そう言いながら、指を一本立てる。
「一冊、小説を書き終えたいです」
もう一本、指を立てる。
「いつか、清流学園をもう一度訪れてみたいです」
さらに一本。
「自分の書いた短編を、どこかで発表してみたいです」
そして――。
「これからも、文学部のみんなと一緒に活動したいです」
舞夜はそこで一度、言葉を止めた。
そして、少しだけ視線を落とす。
「それから……」
俺は黙って待った。
舞夜は頬をわずかに赤くしながら、最後の一つを口にする。
「南くんと、これからも一緒に学校まで歩きたいです」
一瞬――。
時間が止まったように感じた。
俺は舞夜を見る。
彼女は慌てて目を逸らすわけでもなく、ただ自然な表情でこちらを見ていた。
恋愛的な意味で言ったわけではない。
それが分かるからこそ――。
その言葉が、余計に嬉しかった。
俺は小さく笑う。
「じゃあ、俺も寝坊しないようにしないとな」
舞夜は、くすっと笑った。
「私もです」
二人の間を、秋の風が静かに通り抜けていく。
地面に落ちた葉が、一枚だけ俺たちの足元を転がった。
卒業までにやりたいこと。
その中に、俺との時間が入っている。
その事実が――。
なんとなく嬉しかった。
やがて――。
太陽が少しずつ沈み始めた。
俺たちはベンチから立ち上がり、いつもの帰り道へ戻った。
校門を出てしばらく歩いたところで、舞夜がふと足を止める。
「南くん」
「ん?」
「今日は……ありがとうございました」
「何が?」
舞夜は少し考えてから、微笑んだ。
「一緒に歩いてくれたことです」
「それだけ?」
俺が笑うと、舞夜も小さく笑った。
「はい」
「それだけで、嬉しいんです」
その言葉に、俺は少しだけ照れくさくなった。
「じゃあ、これからも一緒に歩けばいい」
「……本当に?」
「うん」
「卒業するまで、まだ時間はあるんだから」
舞夜は嬉しそうに頷いた。
「約束ですよ」
「約束」
俺たちは、いつもの角で別れた。
「また明日」
「また明日、南くん」
舞夜が歩いていく背中を見送りながら――。
俺は、今日の会話を思い返していた。
卒業までにやりたいこと。
その中に、俺と一緒に歩くことが入っていた。
それが、なぜだか嬉しかった。
その日の夕方――。
舞夜は一人で家へ帰っていた。
空は、夕焼けに染まっている。
朝とは違う静かな風が吹いていた。
家に着くと、舞夜は自分の部屋へ向かう。
鞄をベッドの上へ置き――。
机の引き出しを開けた。
中には、あの封筒が入っている。
清流学園から届いた、象牙色の封筒。
舞夜はそれを取り出した。
両手で持ったまま、しばらく見つめる。
これまで何度も――。
開けようと思った。
でも、そのたびに手が止まった。
けれど今日は――。
少し違った。
ベンチで話したことを思い出す。
卒業までにやりたいこと。
書きたい物語。
文学部で過ごしたい時間。
そして――。
南くんと一緒に歩き続けたいという、小さな願い。
舞夜は封筒を胸元に抱えた。
「……もう、逃げたくない」
小さく呟く。
ゆっくりと息を吸う。
そして――。
封筒の端に指をかけた。
今度こそ、開けようとした。
けれど、その瞬間――。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「舞夜」
廊下から母親の声が聞こえる。
「夕食、できたわよ」
舞夜は目を開いた。
手元の封筒を見る。
数秒間、迷ったあと――。
そっと手を離した。
「……今行く、お母さん」
舞夜は封筒をもう一度、引き出しの中へ戻した。
そして――。
静かに引き出しを閉じた。
まだ、開けることはできなかった。
それでも――。
今日までとは違う。
初めて、自分から開こうとした。
そのことだけは、確かだった。
その頃――。
遠く離れた別の街では、蓮が一人で窓の外を眺めていた。
夕暮れの空は、舞夜のいる街と同じように赤く染まっている。
机の上には、黒い表紙のノートが置かれていた。
蓮はゆっくりとノートを開く。
最後のページには、以前書いた一文が残っている。
『次の章は、彼女次第だ。』
蓮はその文章をしばらく見つめていた。
そして――。
その下に、新しい一行を書き加える。
『手紙を読んだ時、過去は再び現在と共に歩き始める。』
ペンを置く。
蓮は椅子の背もたれに身体を預けた。
「……もうすぐだな」
小さく呟く。
一方――。
舞夜の部屋では、机の引き出しの中に一通の手紙が眠っていた。
まだ開かれてはいない。
けれど、舞夜の気持ちは確実に変わり始めていた。
これまで避け続けてきた過去。
それを、自分の意思で見つめようとしている。
いつか、この手紙を開く日が来る。
その時――。
舞夜は、何を知ることになるのだろう。
そして、その過去を知った時。
彼女は誰に、最初に話すのだろうか。
秋の夜が、静かに街を包んでいく。
まだ誰も知らない物語の続きが――。
少しずつ、その姿を見せ始めていた。
第八十九話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が少しずつ過去と向き合う覚悟を持ち始めました。
まだ手紙を開くことはできませんでしたが――。
その日は、もう遠くないのかもしれません。
そして、蓮もまた何かを待っています。
次の話では、物語が少しずつ過去へ近づいていきます。
それでは、次の話でお会いしましょう。




