開かれる日まで
月曜日は、気づかないうちにやって来た。
学校は、いつもの日常を取り戻していた。
廊下には再び生徒たちの話し声が響いている。
先生たちは相変わらず宿題を出してくる。
そして松は――。
今日もチャイムが鳴るほんの数秒前に教室へ駆け込んできた。
「いつか、俺は世界を驚かせるぞ……」
息を切らしながら、松が言う。
「早起きして?」
俺が尋ねると――。
松は首を横に振った。
「違う」
「ドアが閉まる一秒前に、必ず到着する男としてだ」
俺は呆れながら笑った。
変わらないものもある。
松の遅刻ぎりぎりの登校も――。
きっと、その一つだった。
最初の休み時間――。
いつものように図書室へ向かうと思っていた舞夜は、今日は文学部の部室へ向かっていた。
青いファイルと、クリーム色の小さなノートを抱えている。
廊下で俺とすれ違った時、舞夜が足を止めた。
「南くん」
「ん?」
「陽人先輩に、少し話があるから来てほしいと言われたんです」
「たぶん、そんなに時間はかからないと思います」
「分かった」
「じゃあ、また後で」
舞夜は小さく微笑んだ。
「はい」
「また後で」
俺は、そのまま廊下を歩いていく舞夜の背中を見送った。
なぜか――。
いつもより少しだけ、真剣な表情をしているように見えた。
舞夜が部室の扉を軽く叩く。
「失礼します」
「どうぞ」
机の上にいくつもの原稿を広げていた陽人が顔を上げる。
舞夜の姿を見ると、穏やかに微笑んだ。
「来てくれてありがとう」
舞夜は向かい側の椅子に座る。
「何かあったんですか?」
陽人は静かに首を横に振った。
「悪い話ではありません」
「もう一度、朗読会のことを褒めておきたかったんです」
「皆さんから届いた感想も、とても良いものでした」
舞夜は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「私も……陽人先輩にいろいろ教えていただいたおかげです」
陽人は机に肘をつきながら、穏やかに笑う。
「まだまだ学ぶことはたくさんあります」
「でも――」
「最初の日と比べれば、ずいぶん成長しましたね」
舞夜は少し照れたように微笑んだ。
短い沈黙が流れる。
そして――。
陽人の表情が、ほんの少しだけ真剣になった。
「八神さん」
舞夜が顔を上げる。
「はい?」
陽人はゆっくりと机の引き出しを開けた。
そこから取り出したのは――。
象牙色の封筒だった。
数日前に舞夜へ渡したものと同じ封筒。
陽人は、それを静かに机の上へ置いた。
「……まだ、開けていないんですね」
舞夜は封筒を見つめる。
そして――。
制服のスカートを握る指に、少しだけ力が入った。
「……はい」
ほとんど聞こえないほどの声だった。
陽人は、舞夜の様子をしばらく黙って見つめていた。
「……まだ、開けられないんですか?」
舞夜は封筒から目を離さず、ゆっくりと首を横に振る。
「はい……」
「開けようとするたびに――」
舞夜は一度、言葉を止めた。
そして、小さく息を吐く。
「これを読み終えたら……」
「何かが、永遠に変わってしまう気がするんです」
陽人は、すぐには答えなかった。
数秒後――。
静かな声で話し始める。
「……もしかしたら、本当にそうなのかもしれません」
舞夜が顔を上げる。
「言葉には、人を変える力があります」
「でも――」
陽人は封筒へ視線を落とす。
「避け続けることにも、代わりに失うものがあります」
舞夜は視線を落とした。
何も答えない。
ただ、その言葉を静かに受け止めている。
陽人は無理に続けようとはしなかった。
「いつ読むかは、八神さん自身が決めればいい」
「でも――」
「その日が来た時には、自分のために読んでください」
舞夜はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
舞夜は封筒を手に取った。
そして――。
ファイルの中へ、そっとしまった。
まだ開けることはできない。
それでも――。
いつか向き合わなければならない日が来ることだけは、分かっていた。
部室での話が終わると――。
舞夜はゆっくりと部屋を出た。
ファイルの中には、朗読会で読んだ原稿。
文学部でもらったクリーム色のノート。
そして――。
清流学園から届いた、あの封筒。
廊下へ出ると、俺が窓のそばで待っていた。
舞夜は俺に気づくと、小さく微笑んだ。
「……待たせましたか?」
「ううん」
「今来たところ」
俺たちは並んで歩き始めた。
しばらくして、俺は舞夜の横顔を見る。
「大丈夫?」
舞夜は少しだけ間を置いてから答えた。
「はい」
「今日は、朗読会のことを話していただけです」
嘘ではない。
でも――。
全部を話しているわけでもない。
俺には、なんとなく分かった。
それでも、俺は何も聞かなかった。
もし、まだ話せないことがあるのなら――。
無理に聞き出す必要はない。
舞夜が初めて自分の小説を読ませてくれた時も、俺は彼女が自分から話してくれるのを待った。
だから今回も――。
待てばいい。
俺たちは、そのまま校庭へ向かった。
秋の風が吹き抜ける。
舞夜の抱えているファイルの中には――。
まだ開かれていない一通の手紙が入っていた。
昼休みが終わる少し前――。
俺たちは二階の大きな窓の前で足を止めた。
窓の外では、秋の葉がゆっくりと校庭へ落ちている。
舞夜はしばらく、その景色を眺めていた。
そして――。
俺のほうを見ないまま、静かに口を開いた。
「南くん」
「ん?」
「もし、いつか……」
舞夜はそこで一度言葉を止めた。
少しだけ迷っているようだった。
「私が、南くんに話さなければならない大切なことができたら……」
俺は黙って続きを待った。
舞夜は窓の外を見つめたまま続ける。
「最後まで、聞いてくれますか?」
あまりにも突然の質問だった。
俺は数秒、言葉を失った。
けれど――。
すぐに笑った。
「もちろん」
「たぶん、俺の答えは分かってるだろ?」
舞夜は、ほんの少しだけ目を見開いた。
そして――。
小さく笑う。
「……そうですね」
「分かっています」
その笑顔には、どこか安心したような色があった。
でも――。
同時に、ほんの少しだけ不安も混ざっているように見えた。
俺は、その理由をまだ知らない。
けれど、今は聞かなくてもいいと思った。
話したくなった時に、舞夜自身が話してくれればいい。
窓の外では、また一枚の葉が静かに落ちていく。
俺はその葉を眺めながら思った。
いつか――。
舞夜が本当に自分の心を開く日が来るのだろう。
その時、俺はきっと初めて知ることになる。
彼女がこれまで書いてきた物語の中に、どんな想いが込められていたのかを。
そして――。
その日が来るまで、俺は待っていようと思った。
第八十八話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、朗読会を終えた舞夜が、再び過去と向き合うことになりました。
清流学園から届いた手紙は、まだ開かれていません。
けれど――。
南くんに「最後まで聞いてくれますか?」と尋ねたことで、舞夜の中でも少しずつ何かが変わり始めています。
彼女が手紙を開く日は、いつになるのでしょうか。
そして、その時――。
南くんは舞夜の過去を知ることになります。
それでは、次の話でお会いしましょう。




