一人に届いた言葉
拍手は、しばらくの間、図書室に響き続けていた。
やがて少しずつ静かになり――。
陽人先輩が演台の前へ戻ってきた。
「皆さん、今日は参加してくださって、本当にありがとうございました」
最後の朗読を終えた後も、参加者たちから温かな拍手が送られる。
そして――。
参加していた生徒たちは、ゆっくりと席から立ち上がり始めた。
気に入った物語について話す人。
部員のところへ行き、直接感想を伝える人。
さっきまで静まり返っていた図書室は、再びたくさんの会話で満たされていった。
松が大きく腕を伸ばす。
「思ってたより、ずっと面白かったな」
愛莉が尋ねる。
「どの話が一番好きだった?」
松は迷うことなく答えた。
「八神の話」
唯も笑いながら頷く。
「私も」
「複雑な話じゃなかったけど――」
「なんだか、すごく身近に感じたんだよね」
その言葉を聞いた舞夜は、ちょうど原稿をファイルへしまったところだった。
そして――。
数秒間、動きを止めた。
どう反応すればいいのか分からないようだった。
愛莉が舞夜の肩を軽く叩く。
「ほら?」
「だから、ちゃんとみんなに読んでもらったほうがいいって言ったでしょ」
舞夜は小さく笑った。
「……まだ、少し信じられません」
その表情には、嬉しさと戸惑いが混ざっていた。
その時――。
一人の女子生徒が、少し緊張した様子でこちらへ近づいてきた。
まだ一年生のようだった。
胸元には、小さなノートを抱えている。
「すみません……」
陽人先輩が最初に気づいた。
「はい?」
少女は小さく頭を下げる。
「突然、すみません」
そして――。
舞夜のほうを見る。
「八神先輩……」
舞夜が顔を上げる。
「はい?」
「先輩の物語……」
「すごく好きでした」
舞夜の目が、少しだけ大きくなる。
「……本当ですか?」
少女は力強く頷いた。
「はい!」
「私、中学生の頃から物語を書くのが好きだったんです」
「でも――」
「自分の書く話は、いつも単純すぎる気がして……」
「誰かの心を動かせるような物語なんて、私には書けないと思っていました」
少女は、少し恥ずかしそうにノートを抱き直す。
「でも今日――」
「八神先輩の話を聞いて、思ったんです」
「大きな出来事を書かなくても、人を感動させることはできるんだって」
「ただ……」
「自分の気持ちに正直に書けばいいんだって」
舞夜は、何も言わなかった。
ただ、少女の言葉を静かに聞いている。
やがて――。
一年生は、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございました」
「私も、いつか先輩みたいな物語を書いてみたいです」
そう言って、もう一度頭を下げる。
そして――。
少し照れながら、その場を離れていった。
舞夜は、その背中をずっと見つめていた。
少女が去った後も――。
舞夜は、しばらくその場から動かなかった。
誰も何も言わない。
ただ、彼女は先ほどの少女が消えていった廊下を見つめていた。
やがて――。
舞夜はゆっくりと視線を落とした。
「……信じられません」
小さな声だった。
「何が?」
俺が尋ねると、舞夜は少しだけ顔を上げる。
そして――。
目元をわずかに潤ませながら、笑った。
「私……」
「今、ずっと夢見ていたことが起きたんだと思います」
俺は黙って彼女の言葉を聞いた。
舞夜は胸元にファイルを抱える。
「前に言ったこと、覚えていますか?」
「もし、自分の本を読んだ人が一人でも――」
「『この物語に救われた』って思ってくれたら、それだけで嬉しいって」
俺は頷いた。
覚えている。
あの時の舞夜は、まだ自分の言葉が誰かに届くなんて想像していなかった。
でも――。
今日、一人の少女が、自分の物語を聞いて何かを感じた。
そして、自分も書いてみたいと言ってくれた。
舞夜は、静かに微笑む。
「私の物語で、誰かがもう一度書いてみようって思ってくれた」
「それだけで……」
一度、言葉を止める。
「書いてきてよかったって思えます」
俺は笑った。
「じゃあ――」
「今日は、舞夜にとって忘れられない日になったな」
舞夜は頷いた。
「はい」
「きっと、ずっと忘れません」
その笑顔は、朗読を終えた時よりも穏やかだった。
そして俺は思った。
舞夜がずっと目指していたのは――。
たくさんの拍手をもらうことじゃなかったのかもしれない。
たった一人でも、自分の言葉を受け取ってくれる人に出会うこと。
今日、その願いが初めて叶ったのだ。
図書室の人が少しずつ減っていく。
やがて――。
俺たちも、愛莉や唯、松と別れることになった。
「じゃあ、また明日!」
愛莉が手を振る。
唯も笑顔で続ける。
「舞夜、本当にお疲れさま」
「ありがとう」
舞夜は小さく頭を下げた。
松は俺の肩を軽く叩く。
「じゃあな、南」
「また明日」
そうして、三人が図書室を出ていく。
最後まで残っていた陽人先輩も、帰る前に俺たちのところへやって来た。
「八神さん」
舞夜が振り向く。
「今日は、本当にお疲れさまでした」
「ありがとうございます、陽人先輩」
陽人先輩は穏やかに笑う。
「でも――」
「まだ、ありがとうと言うのは早いですよ」
舞夜が少し不思議そうな顔をする。
「え?」
「今日、君は長い道のりの最初の一歩を踏み出したばかりです」
「これから、もっとたくさんの物語を書くことになるでしょう」
そして――。
陽人先輩は俺のほうを見る。
「それから、南くんも」
「え?」
突然名前を呼ばれて、俺は少し驚いた。
「今日は、ありがとう」
「俺に……ですか?」
陽人先輩は頷いた。
「作家は、いつも一人で前へ進めるわけではありません」
「自分自身が信じるより前に、その人を信じてくれる誰かが必要なこともあります」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
陽人先輩は小さく頭を下げる。
「これからも、八神さんのそばにいてあげてください」
そう言って――。
陽人先輩は図書室を後にした。
その背中を、俺たちはしばらく見送った。
陽人先輩がいなくなった後――。
俺たちは、しばらく何も言わずに歩いていた。
図書室を出ると、夕方の校舎には静かな空気が流れていた。
窓の外では、オレンジ色の光が校庭を照らしている。
しばらくして、学校の外へ出る。
そのまま並んで歩いていると――。
舞夜が口を開いた。
「ねえ、南くん」
「ん?」
「朗読していた時のことなんですけど……」
「うん」
舞夜は少し恥ずかしそうに前を向いたまま続ける。
「演台に立った時、本当に怖かったんです」
「みんなが私を見ていて……」
「途中で声が出なくなったらどうしようって、ずっと考えていました」
俺は頷いた。
「少し緊張してるようには見えたよ」
舞夜は小さく笑う。
「やっぱり、分かっていましたか」
「でも――」
舞夜は少しだけ歩く速度を落とした。
「顔を上げて、南くんが笑っているのを見た時……」
俺は舞夜を見る。
彼女は、少し照れながら微笑んでいた。
「『南くんが聞いてくれているなら……』って思ったんです」
「『最後まで読める』って」
その言葉を聞いた瞬間――。
胸が、ほんの少しだけ跳ねた。
まさか、そんなふうに思ってくれていたなんて。
俺は何と答えればいいのか分からなかった。
舞夜も、自分が何を言ったのかに気づいたらしい。
頬が少しずつ赤くなっていく。
「……すみません」
「変なことを言ってしまいました」
俺は笑った。
「いや」
「嬉しいよ」
舞夜は一瞬、目を丸くする。
そして――。
恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……よかったです」
その小さな声が、夕暮れの道に静かに響いた。
その後の帰り道は――。
いつもと変わらない会話が続いた。
次のテストのこと。
最近読んでいる本のこと。
そして、これから文学部で書いてみたい物語のこと。
けれど――。
二人とも、どこか心の中では今日の出来事を考えていた。
やがて、いつもの分かれ道に着く。
舞夜が足を止めた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」
「そんなことありません」
舞夜は小さく首を振る。
「南くんが聞いてくれたから、私は最後まで読めました」
「それに――」
少しだけ間を置いてから、微笑む。
「私の物語を、最初に読んでくれた人が南くんでよかったです」
俺は少し照れながら笑った。
「じゃあ、これからも最初の読者を続けないとな」
舞夜は嬉しそうに頷く。
「はい」
「約束です」
俺たちはそこで別れた。
舞夜が遠ざかっていく。
俺はその背中を見送りながら――。
今日のことを思い返していた。
一人の少女が、舞夜の物語に背中を押された。
そして舞夜自身も、誰かに言葉を届けることの意味を知った。
物語を書くことは――。
ただ文章を並べることじゃない。
誰かに何かを届けることなのかもしれない。
そう考えると――。
俺も、もう一度自分の書いた物語を読み返してみたくなった。
いつか俺の言葉も――。
誰かの心に残ることがあるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺も家へ向かって歩き始めた。
秋の夕暮れの中で――。
今日という一日は、静かに終わろうとしていた。
第八十七話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、朗読会を終えた後の舞夜の心情を描きました。
たくさんの拍手をもらうこと以上に、一人の読者から「自分も書いてみたい」と言ってもらえたこと。
それは、舞夜がずっと願っていた「誰かに言葉を届ける」という夢が、初めて形になった瞬間だったと思います。
そして――。
南くんとの距離も、ほんの少しだけ近づきました。
舞夜にとって、南くんはこれからも大切な最初の読者であり続けるのでしょうか。
二人の関係にも、少しずつ変化が生まれていきます。
それでは、次の話でお会いしましょう。




