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初めて届いた物語

午後の授業は、いつもより早く終わったように感じた。


少なくとも――。


俺には、そう思えた。


最後のチャイムが鳴ると、何人もの生徒が図書室へ向かい始めた。


興味があるから来た人もいる。


文学部の部員を知っているから来た人もいる。


松はポケットに両手を入れながら、俺の隣を歩いていた。


「この部活のイベントに来るの、初めてだな」


「俺も」


「面白いのかな?」


「さあ」


「行ってみれば分かるだろ」


図書室へ着くと――。


俺たちは、その光景に少し驚いた。


いつもの机は壁際へ移動されている。


その代わり、部屋の中央には何列もの椅子が並べられていた。


そして、その前には小さな木製の演台が一つ。


それだけだった。


でも――。


舞台なんて必要ないのかもしれない。


今日の主役は、物語そのものなのだから。


愛莉と唯は、すでに二列目の席に座っていた。


俺たちを見つけると、すぐに手を振る。


「こっち、こっち!」


俺たちは二人の隣に座った。


朗読会が始まるのを待ちながら、俺は部屋を見回す。


陽人先輩は、顧問の先生と話していた。


他の部員たちは、それぞれ自分の原稿を確認している。


そして――。


舞夜は少し離れた場所にいた。


ファイルを両手で抱えている。


深く息を吸っては、ゆっくり吐く。


何度も繰り返していた。


緊張を落ち着かせようとしているのが、遠くからでも分かった。

朗読会が始まった。


陽人先輩が演台の前に立つ。


そして、会場のざわめきが収まるのを静かに待った。


やがて図書室が静まり返る。


陽人先輩は軽く頭を下げた。


「今日は、来てくださってありがとうございます」


「文学というものは、普段は静かな場所で楽しむものだと思います」


「ですが、今日はその静けさを、皆さんと一緒に共有したいと思います」


「家に帰った後も、心の中に残る物語を一つでも見つけてもらえたら嬉しいです」


その言葉が終わると――。


温かな拍手が起こった。


そして、最初の部員が演台へ向かった。


最初に読まれたのは、少しコミカルな短編だった。


読み始めてすぐに、会場から笑い声が聞こえてくる。


その次は、三年生の女子生徒だった。


彼女が書いたのは、飼っていたペットとの別れを描いた物語。


読み終わる頃には、目元をそっと拭っている人もいた。


その後も、一人ずつ物語を読み上げていく。


恋愛。


家族。


友情。


別れ。


それぞれの物語は、まったく違っていた。


それでも――。


どの作品にも、一つだけ共通しているものがあった。


自分の言葉で書いていること。


そして――。


自分の気持ちを、誠実に伝えようとしていることだった。

そして――。


ついに、舞夜の番が来た。


陽人先輩が演台の前へ戻る。


手元のリストを確認してから、顔を上げた。


「次の参加者は――」


「八神舞夜さんです」


その瞬間――。


時間が止まったように感じた。


舞夜は深く息を吸った。


そして、ゆっくりと立ち上がる。


演台へ向かう前に――。


彼女は何かを探すように、会場を見渡した。


いや。


正確には――。


誰かを探していた。


俺と目が合う。


俺は何も言わなかった。


ただ、静かに笑った。


舞夜も、小さく微笑み返す。


そして――。


演台へ向かって歩き始めた。


演台の前に立つ。


原稿を丁寧に整える。


手は、ほんの少し震えていた。


舞夜は会場を見渡した。


そして、一度だけ目を閉じる。


再び目を開いた時――。


静かに読み始めた。


「秋は、別れの季節だと言う……」


聞き覚えのある最初の一文だった。


数日前、図書室で俺が読んだ原稿。


けれど――。


舞夜自身の声で聞くと、まったく違って感じられた。


一つ一つの言葉。


小さな間。


呼吸のタイミング。


そのすべてに、意味があるように聞こえる。


舞夜は、無理に感情を込めようとはしなかった。


大げさな演技もしない。


ただ――。


自分の言葉を、まっすぐに届けていた。


やがて、物語は最後の場面へ近づいていく。


俺は、あの日の庭での練習を思い出した。


「最後を、急がないほうがいい」


あの時、俺が伝えた言葉。


舞夜は――。


ちゃんと覚えていた。


最後の一文の前で、静かに間を置く。


図書室には、誰一人として声を発する者はいなかった。

そして――。


最後の言葉が、静かな図書室に響いた。


「……まだ、ここから始まる。」


舞夜はゆっくりと原稿を閉じた。


それでも――。


誰もすぐには拍手をしなかった。


数秒間。


図書室は完全な静寂に包まれていた。


誰も話さない。


誰も動かない。


まるで、物語の余韻から戻ってくる時間を必要としているようだった。


俺も、息をするのを忘れそうになっていた。


やがて――。


最後列から、小さな拍手が一つ聞こえた。


それに続くように、もう一つ。


そして、また一つ。


次第に拍手は大きくなっていく。


気づけば――。


図書室いっぱいに拍手が響いていた。


舞夜は驚いたように目を見開いた。


そして――。


ゆっくりと頭を下げる。


頬は少し赤くなっていた。


けれど、その表情には緊張ではなく――。


安堵の笑顔が浮かんでいた。


俺も自然と拍手をしていた。


顔を上げた舞夜と、目が合う。


彼女は何も言わない。


俺も何も言わない。


それでも――。


ちゃんと伝わっている気がした。


「よかった」


その一言だけで十分だった。


舞夜は、もう一度小さく微笑んだ。

朗読を終えた舞夜が席へ戻ってくると――。


愛莉が真っ先に彼女へ駆け寄った。


「すごかったよ、舞夜!」


「本当に。まるで、本当に葉っぱが落ちているところを見ているみたいだった」


唯も嬉しそうに頷く。


舞夜は少し照れたように視線を落とした。


「ありがとう……」


普段なら、ここで何か冗談を言いそうな松も――。


今日は珍しく、真剣な表情をしていた。


「なるほどな」


「だから南が、いつも舞夜の話をしてるわけか」


「……え?」


舞夜が驚いたように顔を上げる。


俺は慌てて松を見る。


「おい、余計なこと言うなよ」


松は楽しそうに笑った。


「別に変なこと言ってないだろ」


舞夜は少し恥ずかしそうに笑う。


「……ありがとうございます」


それから――。


彼女は俺のほうを見る。


何も言わない。


ただ、その目が問いかけていた。


――どうでしたか?


俺は小さく頷いて、微笑む。


それだけで十分だった。


舞夜も、すぐにその意味を理解したようだった。


そして――。


嬉しそうに微笑み返した。


その様子を、少し離れた場所から陽人先輩が見ていた。


顧問の先生が隣に立つ。


「とても良かったですね」


陽人先輩は静かに頷いた。


「ああ」


そして、舞夜を見つめながら続ける。


「今日、彼女は初めて――」


「自分の気持ちを隠すためだけに、物語を書いたんじゃない」


「誰かに届けるために、言葉を選んだんだ」


先生は微笑む。


「それが、作家としての最初の一歩ということですか?」


陽人先輩は少しだけ笑った。


「ええ」


「ここからが、本当の始まりです」

朗読会が終わると――。


参加した部員たちが、それぞれ感想を聞きながら片付けを始めた。


図書室には、まだ先ほどの拍手の余韻が残っているようだった。


舞夜も自分の席で原稿を丁寧にファイルへ戻していた。


俺が近づくと――。


舞夜は顔を上げる。


「……終わりました」


「うん」


「ちゃんと、最後まで読めました」


俺は笑った。


「すごく良かったよ」


舞夜は少し照れながら、原稿を胸に抱える。


「ありがとうございます」


「でも――」


少しだけ考えてから、続けた。


「俺が一番嬉しかったのは、最後のところかな」


舞夜が首を傾げる。


「最後……ですか?」


「うん」


「あの沈黙があったから、最後の言葉がちゃんと残った」


舞夜は少し驚いたように目を開く。


そして――。


「南くんが教えてくれたからです」


「私一人だったら、きっとあんなふうに読めませんでした」


俺は首を横に振った。


「違うよ」


「最後まで読んだのは舞夜自身だ」


舞夜はしばらく俺を見つめていた。


やがて――。


小さく微笑む。


「……はい」


その笑顔は、今まで見てきたものとは少し違っていた。


不安や緊張が残っていない。


自分の言葉を、自分自身で届けられたことへの――。


確かな自信がそこにはあった。


図書室の窓から、秋の夕日が差し込んでくる。


床に落ちた葉の影が、ゆっくりと伸びていた。


俺たちは並んで図書室を出る。


その途中で、舞夜がふと足を止めた。


「南くん」


「ん?」


「これからも――」


「私の最初の読者でいてくれますか?」


俺は少しだけ驚いた。


でも、答えは決まっていた。


「もちろん」


「舞夜が書き続ける限り、何度でも読むよ」


舞夜は嬉しそうに笑った。


「……約束ですよ」


俺も笑う。


「約束」


二人は再び歩き始めた。


今日、舞夜の物語は多くの人に届いた。


でも――。


その物語を最初に受け取った一人として。


俺は、これからも彼女の言葉を聞いていきたいと思った。

第八十六話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、舞夜にとって大きな一歩となる朗読会でした。


初めは緊張していた彼女も、自分の言葉を最後まで届けることができました。


そして――。


舞夜の物語は、南くんだけではなく、多くの人の心にも届きました。


これから彼女がどんな物語を書いていくのか。


そして、南くんとの関係がどのように変わっていくのか。


まだまだ二人の物語は続きます。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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