誰かに届ける言葉
金曜日の朝は、雲一つない空から始まった。
空気は冷たく、心地よかった。
学校へ向かう道には、木々から落ちた葉がところどころに広がっている。
いつもの橋へ向かって歩いていると――。
舞夜が俺より先に見えた。
彼女は欄干にもたれながら、ゆっくりと流れる水を眺めていた。
今日は書いていない。
本も読んでいない。
ただ、静かに景色を見つめている。
「おはよう」
俺が近づいて声をかけると、舞夜はゆっくり振り返った。
俺に気づくと、微笑む。
「おはようございます、南くん」
俺は舞夜の隣に立った。
数秒間、俺たちは何も話さなかった。
川のせせらぎだけで、十分に静けさを埋めることができた。
やがて、俺は尋ねる。
「緊張してる?」
舞夜は小さく笑った。
「……そんなに分かりますか?」
「少しだけ」
舞夜は視線を落とした。
「今日は、文学部の朗読会ですから」
「昨日の夜は、ほとんど眠れませんでした」
そう言いながら、胸に抱えていたファイルをそっと撫でる。
中には、今日読む物語が入っている。
「途中で何も言えなくなったらどうしようって……」
「それに、誰にも気に入ってもらえなかったら……」
俺は舞夜をしばらく見つめた。
「俺が自分の話を書いた時、舞夜が言ってくれたこと覚えてる?」
舞夜は少し首を傾げる。
「何でしたっけ?」
「自分らしく書けばいいって」
「誰かの真似をする必要なんてないって」
舞夜の目が、少しだけ大きくなる。
俺は続けた。
「だから今日は、舞夜も同じでいいと思う」
「誰かを驚かせようとしなくていい」
「本当に聞きたいと思ってくれる、一人の人に話すつもりで読めばいい」
舞夜は何も言わなかった。
そして――。
少ししてから、穏やかに微笑んだ。
「……そうですね」
「それなら、私にもできそうです」
俺たちは一緒に学校へ向かって歩き始めた。
その時、初めて思った。
これまで何度も俺に勇気をくれた舞夜に――。
今日は俺が、同じものを返しているのかもしれない。
その日の一時間目は――。
珍しく文学の授業だった。
先生が教室へ入ってきた時、両手には何枚ものプリントが抱えられていた。
「先週、皆さんには秋の思い出を書いてもらいましたね」
「今日は、その中からいくつかの作品を読ませてもらいます」
教室のあちこちから、小さなざわめきが起こる。
松が俺のほうへ身を寄せてきた。
「頼むから、俺のは読まないでほしいな……」
「なんで?」
「俺、コロッケについて書いたから」
俺は思わず松を見る。
「……本当に?」
「大切な思い出だったんだよ」
「どんな思い出だよ……」
俺は笑いを堪えられなかった。
先生は何人かの作品を順番に読み上げていく。
家族で出かけた日の話。
雨の日の帰り道。
昔の友達との思い出。
そして――。
先生が、一枚のプリントを手に取った。
「次の作品は――」
「南大樹くんのものです」
「え……?」
一瞬で、教室中の視線が俺に集まった。
先生は何事もなかったように、文章を読み始める。
幼い頃の俺と、妹の妙子。
二人で公園へ行き、色の違う葉っぱを集めた日のこと。
妙子が葉っぱ一枚一枚に物語を作っていたこと。
そして――。
その日の最後に俺が感じたこと。
自分が書いた文章なのに、誰かの声を通して聞くと、少し不思議な感じがした。
物語の中の妙子との時間が――。
もう一度、自分の目の前に戻ってくるようだった。
やがて先生が最後の部分へ差しかかる。
教室の中が、少しずつ静かになっていった。
先生は、俺が書いた物語の最後の部分を読み上げた。
「幸せな思い出は、いつも特別な出来事から生まれるわけではない。
誰かが、何気ない一日を一緒に過ごそうとしてくれる。
そんな小さなことから始まるのだと。」
先生は静かに紙を机の上へ置いた。
そして、教室を見渡す。
「私は、この一文が特に好きです」
そう言って、もう一度最後の二行を読み上げた。
教室には、静かな空気が流れていた。
俺は自分の机に座ったまま、少しだけ俯く。
頬が熱くなっていくのが分かった。
こんなに大勢の前で、自分の文章を読まれるなんて――。
想像していなかった。
「とてもシンプルな物語です」
先生は続ける。
「しかし、正直に書かれている」
「だからこそ、この文章には力があります」
俺は何も言えなかった。
ただ、先生の言葉を聞いていた。
そして――。
ふと窓のほうへ視線を向ける。
そこには、舞夜がいた。
彼女は俺を見ながら、静かに微笑んでいる。
誇らしそうな笑顔ではない。
まるで――。
自分の大切な人が褒められたことを、心から嬉しく思っているような笑顔だった。
その表情を見た瞬間――。
不思議と、さっきまで感じていた恥ずかしさが消えていった。
先生が次の作品へ進む。
教室の空気も、少しずつ普段の授業へ戻っていく。
けれど俺の中には――。
一つの小さな変化が残っていた。
もしかしたら俺は――。
思っていた以上に、書くことが好きなのかもしれない。
昼休みが終わる頃――。
教室の前の扉が開いた。
そこに立っていたのは、陽人先輩だった。
何人かのクラスメートが、驚いたように顔を見合わせる。
三年生が二年生の教室へ来ることなんて、そう多くない。
陽人先輩は先生に軽く頭を下げる。
「失礼します」
それから、教室にいる俺たちへ視線を向けた。
「少しだけ、お知らせがあります」
「今日の放課後、文学部では図書室を使って朗読会を行います」
「興味のある生徒なら、誰でも参加できます」
教室のあちこちから、さっそく小さな声が聞こえてくる。
すると――。
愛莉が勢いよく手を上げた。
「私、行きます!」
その隣で、唯も笑う。
「私も行こうかな」
松が俺の脇腹を軽く突いた。
「今日は、あの作家さんの朗読を聞けるな」
俺は舞夜を見る。
彼女は少し恥ずかしそうに視線を落としていた。
自分に集まる視線を意識しているのだろう。
陽人先輩は、そんな舞夜を見て穏やかに微笑む。
そして、教室を出る前に一言だけ付け加えた。
「皆さんの物語を、楽しみにしています」
「なぜなら――」
少しだけ間を置いてから、静かに続ける。
「言葉は、誰かが耳を傾けた時に初めて、本当の意味を持つことがあるからです」
そう言って、陽人先輩は軽く頭を下げ、教室を出ていった。
俺は、もう一度舞夜を見る。
彼女はまだ少し緊張しているようだった。
けれど――。
その目には、逃げ出したいという気持ちだけではなく、何かに挑戦しようとする強さも見えていた。
朗読会まで――。
あと数時間。
舞夜がこれから、どんな言葉をみんなに届けるのか。
俺も、その瞬間を見届けたいと思った。
放課後――。
図書室では、すでに朗読会の準備が始まっていた。
机が並べ替えられ、前方には小さな演台が置かれている。
壁際には、文学部の部員たちが読む作品のタイトルが並べられていた。
俺が図書室へ入ると――。
愛莉と唯が先に来ていた。
「南くん!」
愛莉が手を振る。
「こっち、こっち!」
俺が近づくと、唯が小さく笑った。
「舞夜、かなり緊張してるみたい」
「さっきから何度も原稿を確認してるよ」
俺は部屋の奥を見る。
そこには――。
舞夜がいた。
手には今日読む原稿。
何度もページを確認している。
けれど、文字を読んでいるというより――。
落ち着こうとしているように見えた。
俺が近づくと、舞夜が顔を上げる。
「南くん……」
「来てくれたんですね」
「もちろん」
俺が答えると、舞夜は少し安心したように笑った。
「……よかった」
「まだ緊張してる?」
舞夜は正直に頷いた。
「はい」
「さっきから何度読んでも、心臓が落ち着かなくて……」
俺は少し考える。
そして――。
朝、橋で話したことを思い出した。
「じゃあ、もう一度だけ思い出そう」
「朝、俺が言ったこと」
舞夜が俺を見る。
「一人に話すつもりで読めばいい」
「……はい」
舞夜は小さく息を吸った。
それから、原稿を胸に抱える。
「南くんが聞いてくれていると思えば――」
「少しだけ、落ち着けそうです」
俺は笑った。
「じゃあ、俺は一番前に座るよ」
「え?」
「ちゃんと聞こえるところにいたほうがいいだろ」
舞夜は一瞬驚いた。
そして――。
とても嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その時、図書室の奥から陽人先輩の声が聞こえた。
「そろそろ始めます」
部屋にいた生徒たちが、少しずつ席へ座っていく。
舞夜は演台の前へ向かう。
その背中を見ながら――。
俺は静かに息を吐いた。
いよいよ――。
舞夜の言葉が、みんなに届く時間が始まろうとしていた。
文学部の朗読会が始まった。
最初の部員が演台に立ち、自分の書いた短編を読み始める。
図書室は静かだった。
誰も話さない。
ただ、それぞれの物語に耳を傾けている。
一人。
また一人。
順番に朗読が終わっていく。
そして――。
ついに、舞夜の名前が呼ばれた。
「次は、八神舞夜さんです」
舞夜はゆっくりと立ち上がった。
一度だけ深く息を吸う。
そして、演台の前へ歩いていく。
原稿を開く。
最初の一行を見つめる。
俺は、一番前の席から舞夜を見ていた。
舞夜と目が合う。
俺は小さく頷いた。
舞夜も――。
ほんの少しだけ頷き返した。
そして、読み始める。
最初の声は、少し震えていた。
けれど――。
一文。
また一文。
読み進めるたびに、声が落ち着いていく。
物語の中に描かれた秋の景色。
誰かから届いた言葉。
そして、その言葉によって少しずつ前へ進んでいく主人公。
舞夜は、一つ一つの言葉を丁寧に届けていた。
以前、庭で練習した時よりも――。
ずっと多くの人に向けて。
それでも、不思議なことに。
俺には、まるで一人に向かって話しているように聞こえた。
やがて――。
物語が最後の場面へ近づいていく。
舞夜は、以前俺が伝えた通り、最後の一文の前で静かに間を置いた。
図書室には、誰も言葉を発しない。
そして――。
最後の言葉が、静かに響いた。
「……まだ、ここから始まる。」
舞夜はゆっくりと原稿を閉じた。
数秒間――。
誰も動かなかった。
その直後。
小さな拍手が一つ。
それをきっかけに、次々と拍手が広がっていった。
舞夜は驚いたように目を見開く。
そして――。
嬉しそうに微笑んだ。
俺も、自然と拍手をしていた。
舞夜と目が合う。
その笑顔を見た瞬間――。
朝、橋で話したことを思い出した。
「一人に話すつもりで読めばいい」
舞夜は、本当にそうしたのだ。
でも今――。
その一人だった俺の周りには、彼女の言葉を受け取ったたくさんの人がいる。
舞夜はもう、自分の言葉を一人だけに届けているわけではなかった。
第八十五話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜にとって初めての大きな朗読会でした。
緊張しながらも、自分の言葉を最後まで届けることができました。
そして――。
南くんの言葉をきっかけに、舞夜は「誰か一人に伝える」ことの大切さを思い出しました。
その結果、彼女の物語は一人だけではなく、多くの人のもとへ届きました。
舞夜にとって、この経験はきっと忘れられないものになると思います。
それでは、次の話でお会いしましょう。




