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まだ開かない手紙

朗読会の日まで、あと一週間。


それでも――。


文学部では、すでに本格的な準備が始まっていた。


放課後になると、舞夜は今日も部員たちと一緒に活動するため、教室を出ていった。


俺は、今日は松と一緒に帰ることにした。


校門を出て、大通りを歩いていると――。


松が両手を頭の後ろで組みながら、ふと思い出したように口を開いた。


「前から聞きたかったんだけどさ」


「何?」


「南って、部活に入ろうと思ったことないのか?」


俺は数秒考えた。


「そうだな……」


「特に考えたことないな」


松が笑う。


「俺も」


俺たちは顔を見合わせて笑った。


「でも最近、お前って文学部の近くにいること多くないか?」


「まあ……そうだな」


「入ってみたいと思ったことはないのか?」


俺は空を見上げた。


しばらく考えてから――。


「……あの場所は、舞夜にとって大切なんだと思う」


「俺にとっても同じかどうかは、まだ分からないけど」


松はゆっくりと頷いた。


「なるほどな」


それ以上、何も聞いてこなかった。


まるで――。


俺が言いたかったことを、そのまま理解してくれたようだった。

家に帰ると――。


自分の机の上に、小さな封筒が置かれていた。


差出人の名前はない。


ただ、俺の名前だけが丁寧な文字で書かれている。


「……何だ、これ?」


少し不思議に思いながら、封筒を慎重に開けた。


中に入っていたのは、一枚の紙だった。


文学の先生からだった。


どうやら、来週の授業で行われる朗読に備えて、俺たちの作品を予定より早く読んでくれたらしい。


そこには、いくつかの感想とアドバイスが書かれていた。


俺は自分の文章を読み返しながら、先生のコメントを一つずつ確認していく。


そして――。


作品の余白に書かれていた、一文に目が止まった。


『あなたの思い出が本物らしく感じられるのは、言葉より先に、人のことを考えて書いているからでしょう。これからも書き続けてください。』


俺は、その文章をしばらく見つめていた。


こんなことを言われるなんて、思ってもいなかった。


そもそも――。


俺は、自分が書くことをこんなに意識したことさえなかった。


でも、初めてだった。


自分の書いたものを、もう少し続けてみてもいいのかもしれない。


そんなふうに思えたのは。

その頃――。


文学部の部室では、陽人がいくつかの原稿を確認していた。


その向かい側では、舞夜が静かに待っている。


陽人は最後のページを読み終えると、ファイルを閉じた。


「八神さん」


「はい」


陽人は穏やかに微笑む。


「君の朗読用の原稿は、これで大丈夫です」


舞夜はほっとしたように息を吐いた。


「ありがとうございます」


けれど――。


陽人はそこで話を終えなかった。


「もう一つ、渡したいものがあります」


そう言って、机の引き出しを開ける。


中から取り出したのは――。


古びた、象牙色の封筒だった。


陽人は、それをしばらく手の中で見つめる。


「これが昨日、届きました」


「八神さん宛てです」


舞夜は目を見開いた。


封筒に押されている印章を見た瞬間――。


その表情が変わった。


それは、以前受け取った荷物にも押されていたものだった。


――清流学園。


舞夜は、ゆっくりと封筒を受け取る。


両手で大切そうに持ったまま――。


しばらく何も言わなかった。

陽人は、舞夜の様子を静かに見つめていた。


「……開けないんですか?」


舞夜は封筒を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振る。


「まだ……」


「今は、読めません」


陽人は何も言わなかった。


ただ、静かに頷く。


舞夜は封筒を胸元に抱えた。


その表情には、少しだけ寂しさが浮かんでいる。


「いつか……」


「ちゃんと読める時が来たら、開きます」


陽人は優しく微笑んだ。


「それでいいと思います」


「無理に過去と向き合う必要はありません」


舞夜は小さく頭を下げる。


「……ありがとうございます」


しばらくして――。


舞夜は封筒をファイルの中へ丁寧にしまった。


そして、立ち上がる。


「今日は、もう帰ります」


「はい」


陽人も頷く。


「気をつけて帰ってください」


「はい」


部室を出る直前――。


舞夜は一度だけ振り返った。


陽人は何も言わず、彼女を見送っていた。


扉が閉まる。


その向こうで――。


舞夜は小さく息を吐いた。


まだ、この封筒を開く勇気はなかった。

部室を出た舞夜は――。


しばらく、一人で廊下を歩いていた。


ファイルの中には、朗読会で読む原稿。


そして、その隣には――。


清流学園から届いた古い封筒が入っている。


その存在を意識するたびに、胸の奥が少しだけ重くなった。


やがて、いつもの小さな橋へ向かう道に差しかかる。


朝になると、南くんと待ち合わせる場所。


舞夜は足を止めた。


橋の欄干に手を置く。


夕暮れの光が、水面に揺れていた。


「……まだ、開けられない」


小さく呟く。


封筒を取り出して、もう一度眺める。


中に何が書かれているのか――。


本当は、知っているような気がしていた。


清流学園。


あの場所で過ごした時間。


そして――。


忘れようとしていた出来事。


思い出すだけで、胸の奥が苦しくなる。


舞夜は目を閉じた。


けれど、その直後――。


南くんの顔が頭に浮かんだ。


図書室で、自分の物語を最後まで読んでくれたこと。


庭で、朗読を聞いてくれたこと。


そして――。


「いつでも聞くよ」


そう言ってくれたこと。


舞夜は、ほんの少しだけ笑った。


「……いつか」


「ちゃんと読めるようになったら……」


封筒をファイルへ戻す。


「その時は、南くんにも話したい」


そう呟いて――。


舞夜は再び歩き始めた。

その夜――。


舞夜は自分の部屋に戻ると、机の上にファイルを置いた。


朗読会で読む原稿。


文学部でもらった小さなノート。


そして――。


清流学園から届いた封筒。


三つを並べて見つめる。


一つは、これからのための言葉。


もう一つは、今の自分が書いている物語。


そして最後の一つは――。


まだ向き合うことのできない過去。


舞夜は、ゆっくりと封筒に手を伸ばす。


けれど、触れる直前で止めた。


「……まだ、いいよね」


誰に聞くでもなく呟く。


そして、封筒をファイルの奥へしまった。


代わりに、クリーム色のノートを開く。


最初のページには、文学部でもらった言葉が書かれている。


『言葉は、耳を傾ける人のもとへ、自分の道を見つけていく。』


舞夜は、その文章をしばらく見つめた。


それから――。


新しいページを開く。


鉛筆を手に取った。


まだ何も書かれていない真っ白なページ。


そこへ、ゆっくりと一行だけ書いた。


『いつか、過去も自分の言葉で語れるように。』


舞夜はその一文を見つめる。


そして――。


小さく笑った。


今はまだ、話せない。


でも、いつか。


自分自身の言葉で向き合える日が来るかもしれない。


そのためにも――。


まずは、目の前にある朗読会へ向き合おう。


舞夜はノートを閉じた。


窓の外では、秋の風が静かに吹いている。


同じ頃――。


別の場所では、一人の人物が黒い表紙のノートを開いていた。


最後のページには、短い一文だけが残されている。


『次の章は、彼女次第だ。』


その人物はしばらくその文字を眺めた後――。


静かにノートを閉じた。

第八十四話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、南くんが自分の書いた文章に少しだけ自信を持ち始めました。


そして舞夜のもとには、再び清流学園から一通の手紙が届きます。


まだ開くことのできない過去。


それでも舞夜は、自分の言葉で向き合う未来へ少しずつ進み始めています。


次はいよいよ、朗読会が近づいてきます。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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