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物語を聴く人

その後、数日間は――。


驚くほど穏やかに過ぎていった。


朝は、いつもの橋で舞夜と会う。


授業は、いつもと変わらないペースで進んでいく。


そして放課後になると――。


舞夜は文学部の活動へ向かう。


俺は松と一緒に帰る日もあった。


けれど、舞夜を待って、一緒に帰る日も増えていった。


いつの間にか――。


そんな毎日が、俺の生活の一部になっていた。


特別な出来事があるわけじゃない。



それでも――。


その時間が、俺にとって当たり前になりつつあった。

ある日の放課後――。


文学部の活動を終えた舞夜が、ファイルを抱えて教室から出てきた。


少し考え込んでいるような表情をしている。


「何かあった?」


俺が尋ねると、舞夜は首を横に振った。


「そういうわけではないんです」


「ただ……」


少しだけ間を置いてから、続ける。


「陽人先輩が、朗読会の前に声に出して読む練習をしておいたほうがいいって」


俺たちは、そのまま廊下を歩き始めた。


「それで、気になってるの?」


舞夜は少し恥ずかしそうに笑う。


「……少しだけ」


「自分の書いたものを、誰かの前で読むのは初めてなんです」


そして――。


「唯や愛莉の前でも、まだ読んだことがありません」


舞夜は少し黙った。


それから、俺を見る。


「一度だけ……」


「南くんに聞いてもらえませんか?」


俺は足を止めた。


「今?」


舞夜は小さく頷く。


「もし、迷惑じゃなければ……」


俺は窓の外を見る。


校庭には、もうほとんど人がいない。


遠くから運動部の声が聞こえてくるだけだった。


「じゃあ――」


「庭に行こうか」


「そこなら、ゆっくり聞けると思う」


舞夜は安心したように微笑んだ。


「はい」

俺たちは、校庭の奥にある庭へ向かった。


そこには、大きな木が一本立っていた。


秋の風に揺られるたび――。


黄金色の葉が、ゆっくりと地面へ落ちていく。


俺たちは、その木の下に並んで座った。


舞夜は深く息を吸う。


そして、ファイルを開いた。


けれど――。


両手が、ほんの少し震えている。


「……緊張します」


舞夜が小さな声で呟いた。


俺は笑った。


「俺と話してると思えばいいよ」


「完璧に読む必要なんてない」


「ただ、自分の物語を話せばいいんだ」


舞夜は目を閉じた。


数秒間、そのまま呼吸を整える。


そして――。


ゆっくりと目を開いた。


「……はい」


最初の声は、とても小さかった。


ほとんど囁きに近い。


けれど――。


物語が進むにつれて、少しずつ声に力が戻っていく。


一つ一つの言葉を、丁寧に選ぶように。


感情を大げさに表現することもない。


声を無理に大きくすることもない。


ただ――。


自分が書いた物語を、まっすぐに伝えていた。


俺は何も言わずに聞き続けた。


やがて――。


最後の一文が静かに読み上げられる。


舞夜が、ゆっくりと原稿を下ろした。


庭には再び静寂が戻った。


その瞬間――。


風が吹く。


俺たちの間に、二枚の葉が静かに舞い落ちた。

「……どうでしたか?」


舞夜が少し不安そうに尋ねる。


俺はすぐには答えなかった。


数秒だけ考えてから――。


「最後を、もう少しゆっくり読んだほうがいいと思う」


舞夜が首を傾げる。


「最後を……ですか?」


「うん」


「最後の数行は、すごく良かった」


「でも、少しだけ読むのが早かった」


俺は、自分でもう一度その場面を思い出す。


「最後の一文の前に、少しだけ間を作ってみたらどうかな」


「そうすれば、聞いている人が直前の言葉を感じる時間ができると思う」


舞夜は、何も言わずに俺を見つめていた。


そして――。


少しだけ目を見開く。


「それ……」


「陽人先輩にも、まったく同じことを言われました」


俺は思わず笑った。


「じゃあ、俺も少しは勉強できてるってことだな」


舞夜も嬉しそうに笑う。


「違います」


「え?」


「南くんは――」


「ただ、物語をちゃんと聞いているんだと思います」


その言葉に、俺は少し驚いた。


舞夜は原稿を見ながら続ける。


「自分では気づかなかったことを、南くんはいつも見つけてくれます」


「だから……」


「もう一度、練習してみます」


舞夜は原稿を開き直した。


そして――。


最後の部分を、今度は少しゆっくりと読み始めた。

舞夜が最後の一文を読み終える。


今度は――。


すぐには原稿を閉じなかった。


静かに息を吐いてから、俺を見る。


「……どうですか?」


「うん」


俺は頷いた。


「さっきよりずっといいと思う」


「最後の言葉が、ちゃんと残った」


舞夜は安心したように微笑む。


「よかった……」


二人でしばらく、その場に座っていた。


秋の風が木々を揺らしている。


その時――。


遠くから、小さな拍手が聞こえた。


俺と舞夜は同時に振り向く。


そこには――。


少し離れた場所に立っている陽人先輩の姿があった。


「すみません」


「最後のところだけ、聞こえてしまいました」


舞夜が慌てて立ち上がる。


「陽人先輩!」


陽人先輩は穏やかに笑った。


「気にしなくていいですよ」


「昨日より、ずっと良くなっています」


それから、俺を見る。


「南くんも、いいところに気づきましたね」


「多くの書き手は、言葉に集中するあまり――」


「沈黙の意味を忘れてしまいます」


俺は少し照れながら答えた。


「俺は、聞いていてそう感じただけです」


陽人先輩は静かに頷く。


「それこそが、作家に必要なものなんです」


「正直な読者ですよ」


舞夜は、俺のほうを見る。


そして――。


柔らかな笑顔を浮かべた。


「……はい」


「だから、私は南くんを信頼しています」


その言葉を聞いて――。


俺は何も言えなくなった。

その言葉を聞いて――。


俺は、少しだけ照れくさくなった。


けれど、舞夜の表情を見ると、不思議と嬉しい気持ちになった。


「……ありがとう」


それだけ答えるのが精一杯だった。


舞夜は小さく笑う。


「こちらこそ」


陽人先輩は、そんな俺たちを見ながら穏やかに頷いた。


「これからも、そのままでいてください」


「作家にとって、自分の作品を本当に読んでくれる人は、とても大切です」


「そして――」


陽人先輩は舞夜を見る。


「自分の言葉を信じることも忘れないでください」


舞夜は真剣な表情で頷いた。


「はい」


「頑張ります」


陽人先輩は微笑んだ。


「それなら、朗読会もきっと大丈夫ですよ」


そう言って、先輩は俺たちに軽く頭を下げる。


「それでは、私は先に戻ります」


「失礼します」


先輩が庭を離れていく。


俺たちは、その背中をしばらく見送った。


やがて舞夜が、ぽつりと呟く。


「……少しだけ、自信が持てた気がします」


「それならよかった」


俺は笑った。


「本番も、今日みたいに読めばいいよ」


「……はい」


舞夜は原稿を胸に抱える。


「南くんが聞いてくれるなら――」


「きっと大丈夫です」


俺たちは庭を出て、並んで校舎へ戻っていった。


夕暮れの空から、また一枚の葉が静かに落ちてくる。


その小さな音さえも――。


これから始まる朗読会への、一歩のように感じられた。

第八十三話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、舞夜が初めて南くんの前で自分の物語を声に出して読みました。


最初は緊張していた舞夜も、少しずつ自分の言葉に自信を持てるようになっています。


そして――。


いよいよ朗読会の日が近づいてきました。


舞夜は大勢の前でも、今日のように自分の物語を届けられるのでしょうか。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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