答えのない問い
「舞夜。」
静かな声だった。
大声じゃない。
怒鳴っているわけでもない。
なのに、
教室の空気が一瞬で変わった。
「……さすがに、やりすぎよ。」
鬼束瑞子。
腕を組みながら、
まっすぐ舞夜を見つめていた。
冷たい視線。
迷いのない声。
そして、
妙な迫力。
「やりすぎではありません。」
舞夜はいつも通り、
落ち着いた声で答える。
「やりすぎよ。」
「違います。」
「違うわけないでしょう。」
「違います。」
「違う。」
「違います。」
……
「……少しだけです。」
「少しじゃない。」
瑞子は即答した。
「かなりよ。」
……
嫌な予感しかしない。
というか、
絶対に面倒なことになる。
俺は小さくため息をついた。
「……ここでやる必要あるか?」
誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
もちろん、
誰も聞いていなかった。
当たり前だ。
「舞夜、あなた、目立ちすぎ。」
瑞子が続ける。
「問題ありません。」
「大問題よ。」
「問題ありません。」
「ある。」
「ありません。」
「ある。」
「ありません。」
……
「……少しだけ。」
「全然少しじゃない。」
教室中の視線が、
完全にこっちへ向いている。
前の席。
後ろの席。
窓際のグループ。
全員、
露骨なくらい見ていた。
隠す気すらない。
最悪だ。
「それに。」
瑞子は俺をちらりと見た。
「南も、どう見ても困ってるじゃない。」
……
反射的に口が動いた。
「いや、別に困ってない。」
静寂。
まずい。
教室全体が静まり返る。
瑞子が俺を見る。
舞夜も俺を見る。
なぜかクラスメイトまで俺を見ている。
……何だ、この状況。
「嘘ね。」
瑞子が言った。
「違う。」
「嘘。」
「違う。」
「嘘。」
……
「……少しだけ困ってる。」
「少し?」
「かなり。」
「……。」
自分で言ってしまった。
終わった。
俺の高校生活は終わった。
「ありがとう。」
俺が恨めしそうに言うと、
瑞子は無表情のまま答えた。
「どういたしまして。」
感謝なんてしてない。
全然してない。
「舞夜。」
瑞子は再び舞夜の方を向いた。
「あなた、本当に最近変よ。」
「変ではありません。」
「変よ。」
「変ではありません。」
「昔のあなたは、こんなことしなかった。」
……
その瞬間、
舞夜は黙り込んだ。
教室が静まり返る。
さっきまで聞こえていた笑い声も、
ひそひそ話も、
全部消えていた。
「私は変わっていません。」
舞夜は静かに言った。
「変わったわ。」
瑞子は即座に返す。
「変わってない。」
「変わった。」
「変わってない。」
「変わった。」
……
「……少しだけ。」
「かなりよ。」
その言葉に、
舞夜は何も返さなかった。
俺は思わず、
隣に座る舞夜の横顔を見る。
無表情。
いつも通り。
……のはずなのに。
なぜか、
少しだけ苦しそうに見えた。
そして、
俺は初めて思った。
この二人は、
俺が知らない何かを共有しているんじゃないか、と。
だけど、
その答えを聞く前に、
瑞子はさらに一歩踏み込んだ。
「ねえ、舞夜。」
「何ですか?」
「どうして、そんなに必死なの?」
……
教室の空気が、
さらに重くなった。
◇ ◇ ◇
「ねえ、舞夜。」
「何ですか?」
「どうして、そんなに必死なの?」
……
瑞子の言葉が、
教室に重く響いた。
舞夜は何も答えない。
いつものように、
「必要だからです」とも言わない。
ただ、
静かに机を見つめていた。
「答えられないの?」
瑞子が尋ねる。
「……答えられません。」
「答えたくないんじゃなくて?」
「違います。」
「じゃあ、何?」
「言えません。」
「同じじゃない。」
「違います。」
「違わない。」
「違います。」
……
「……少しだけ同じです。」
「正直ね。」
瑞子は小さくため息をついた。
教室の空気は、
さっきよりもさらに重くなっていた。
俺はただ、
二人の会話を聞いていることしかできない。
というか、
入っていけない。
明らかに、
俺の知らない何かがある。
「舞夜。」
瑞子は腕を組んだまま続ける。
「あなた、昔はこんなことしなかった。」
「……。」
「男子と話すことだってほとんどなかった。」
「……そうですね。」
「なのに、どうして今さら南なの?」
……
俺も知りたい。
むしろ、
俺が一番知りたい。
舞夜は数秒間黙ったあと、
静かに答えた。
「必要だからです。」
「またそれ。」
瑞子は呆れたように額を押さえた。
「便利な言葉ね。」
「便利ではありません。」
「便利よ。」
「違います。」
「違わない。」
……
「……少しだけ便利かもしれません。」
「認めるんだ。」
珍しく、
瑞子が苦笑した。
その時だった。
「おお~。」
突然、
場違いなくらい明るい声が教室に響いた。
嫌な予感しかしない。
俺はゆっくりと振り返る。
そして、
予想通りの人物が立っていた。
「ちょっとトイレに行ってただけなのに、何この修羅場?」
田中結衣。
満面の笑み。
楽しそうな顔。
完全に面白がっている。
「……帰ってくれ。」
「嫌です。」
「なんでだよ。」
「面白そうだから。」
最悪だ。
本当に最悪だ。
結衣は俺の机の横まで来ると、
興味津々といった様子で俺たちを見回した。
「で、何があったの?」
「何もない。」
俺は即答した。
「全部あるわ。」
瑞子が即答した。
「意見が割れてるね~。」
「割れてない。」
「割れてる。」
「割れてない。」
「割れてる。」
……
「……少し割れてる。」
「でしょ?」
結衣は満足そうに頷いた。
いや、
満足するな。
「それで?」
結衣は俺の机に身を乗り出した。
「まだ続いてるの?」
「続いてない。」
「続いています。」
……
「ほら。」
「ほらじゃない。」
「私は舞夜ちゃんの意見を支持するよ。」
「聞いてない。」
「今、聞いた。」
「聞いてない。」
「聞いた。」
……
駄目だ。
味方が一人もいない。
そして、
結衣はニヤニヤしながら、
舞夜の顔を覗き込んだ。
「ねえ、舞夜ちゃん。」
「何ですか?」
「どうして急にこんなことしてるの?」
……
さっき、
瑞子が聞いたばかりの質問。
教室の空気が、
再び静まり返る。
舞夜は少しだけ目を伏せ、
いつものように答えた。
「必要だからです。」
「またそれ?」
結衣は大げさに肩を落とした。
「さすがに飽きたよ、その答え。」
「飽きません。」
「私は飽きた。」
「そうですか。」
「もっと別の答えないの?」
「ありません。」
「本当に?」
「ありません。」
……
結衣は数秒間、
舞夜をじっと見つめていた。
そして、
突然、
とんでもないことを言った。
「もしかして、舞夜ちゃん、南くんのこと好きなの?」
……
教室の空気が、
完全に止まった。
◇ ◇ ◇
「もしかして、舞夜ちゃん、南くんのこと好きなの?」
……
教室が静まり返った。
本当に、
冗談みたいなくらい静かだった。
誰も動かない。
誰も話さない。
時間まで止まったような気がした。
「……は?」
最初に声を出したのは、
当然、俺だった。
「何言ってるんだ、お前。」
「え?」
結衣は不思議そうに首を傾げる。
「だって、そうとしか思えないじゃん。」
「思えない。」
「思える。」
「思えない。」
「思える。」
……
「……少しは思えるかもしれないけど、違う。」
「ほら、少しは思ってるんじゃん。」
「そういう意味じゃない。」
最悪だ。
本当に最悪だ。
俺が頭を抱えている横で、
瑞子もため息をついた。
「結衣、話をややこしくしないで。」
「えー、でも気にならない?」
「ならないわけないでしょ。」
「でしょ?」
いや、
二人とも盛り上がらないでほしい。
被害者は俺なんだ。
「それで?」
結衣は再び舞夜の方を向いた。
「実際のところ、どうなの?」
……
舞夜は黙っていた。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、
静かに結衣を見つめている。
「おーい、舞夜ちゃーん?」
「聞こえています。」
「じゃあ答えて。」
「答えられません。」
「え?」
結衣が目を丸くする。
「答えられない?」
「はい。」
「好きじゃないなら、『違う』って言えば終わる話だよ?」
……
その言葉に、
舞夜は一瞬だけ視線を落とした。
教室の空気が、
また重くなる。
「……違います。」
舞夜は静かに言った。
「恋愛感情ではありません。」
……
なぜか、
胸の奥が少しだけざわついた。
いや、
待て。
何を期待してたんだ、俺は。
「ほら。」
俺はすぐに口を開いた。
「違うって言ってるだろ。」
「うーん。」
結衣は納得していない顔をしている。
「でも、恋愛感情じゃないなら、なんでそんなに必死なの?」
……
まただ。
その質問。
今日だけで何回目だ。
瑞子も、
結衣も、
そして俺も、
みんな同じことを聞いている。
「どうして南くんなの?」
「どうしてそこまで必死なの?」
「どうして今なの?」
誰も答えを知らない。
いや、
一人だけ知っている。
でも、
その一人は答えてくれない。
「……言えません。」
舞夜は小さな声でそう言った。
結衣が困ったように笑う。
「またそれ?」
「……はい。」
「秘密主義すぎるでしょ。」
「秘密ではありません。」
「じゃあ何?」
……
数秒の沈黙。
そして、
舞夜はぽつりと呟いた。
「私のためじゃないんです。」
……
「え?」
結衣が聞き返す。
俺も、
瑞子も、
言葉の意味を理解できなかった。
「自分のためじゃない?」
結衣が首を傾げる。
「じゃあ、誰のためなの?」
教室が静まり返る。
舞夜は唇を噛み、
しばらく黙っていた。
そして、
ゆっくりと口を開く。
「……言えません。」
「また!?」
結衣が思わず叫ぶ。
「いや、そこが一番大事なところでしょ!」
「大事です。」
「じゃあ言って!」
「言えません。」
「なんで!?」
「……大切だからです。」
……
その瞬間、
俺は初めて思った。
舞夜は、
何かを隠しているんじゃない。
何かを守ろうとしている。
そんな気がした。
だけど、
その「何か」が何なのか、
俺にはまったく分からなかった。
◇ ◇ ◇
「私のためじゃないんです。」
その言葉が、
教室の空気を変えた。
さっきまで騒がしかったはずなのに、
今は誰も何も言わない。
結衣も。
瑞子も。
そして、
俺も。
「……え?」
最初に口を開いたのは結衣だった。
「自分のためじゃないって、どういうこと?」
舞夜は何も答えない。
ただ、
静かに机を見つめていた。
「いや、待って。」
結衣は困ったように頭をかく。
「恋愛感情じゃなくて、自分のためでもないなら、何のためにこんなことしてるの?」
……
沈黙。
いつもの沈黙。
だけど、
今日は少し違った。
舞夜は答えたくないんじゃない。
本当に、
答えられないように見えた。
「舞夜。」
瑞子が静かに声をかける。
「もういいわ。」
「……。」
「無理に話さなくてもいい。」
「……違う。」
舞夜が小さく呟いた。
瑞子が眉をひそめる。
「何が違うの?」
「無理だから話せないわけじゃありません。」
「じゃあ、どうして?」
……
舞夜はゆっくりと顔を上げた。
そして、
少しだけ寂しそうに笑った。
「話したら、困る人がいるからです。」
……
その場にいた全員が、
言葉を失った。
困る人。
その言葉が、
妙に引っかかった。
「それって……。」
結衣が何かを言いかける。
だけど、
舞夜は小さく首を横に振った。
「これ以上は言えません。」
「またそれか。」
結衣がため息をつく。
「でも、本当に分からないんだよ。」
「……そうですね。」
「南くんだって、混乱してるでしょ?」
突然、
話を振られた。
「え?」
「いや、どう見ても混乱してるじゃん。」
「まあ……そうだけど。」
「でしょ?」
そりゃそうだ。
昨日から、
意味の分からないことばかり起きている。
学校一の美少女が、
急に俺を好きにさせると言い始めて、
理由を聞けば、
「必要だから」の一点張り。
そして今度は、
「自分のためじゃない」。
意味が分からない。
本当に、
何一つ分からない。
「……なあ。」
気づけば、
俺は舞夜を見ていた。
「何ですか?」
「お前さ。」
「はい。」
「本当に、それしか方法がないのか?」
……
舞夜の表情が止まる。
教室も静まり返る。
誰も口を開かない。
数秒後、
舞夜は静かに答えた。
「……分かりません。」
「分からない?」
「はい。」
「試したことは?」
「ありません。」
「なんで。」
……
舞夜は少しだけ目を伏せた。
そして、
今にも消えそうな声で言った。
「怖かったからです。」
……
その瞬間、
俺の胸が、
妙にざわついた。
怖い。
今、
こいつは確かにそう言った。
いつも自信満々で、
何を言われても平然としている舞夜が、
初めて弱さを見せた。
そして、
俺が何かを言おうとした、
その時だった。
「おーい、お前ら。」
教室の前のドアが開く。
先生だった。
「次の授業を始めるぞ。全員、席に着け。」
その一言で、
張り詰めていた空気が、
少しだけ動き始めた。
だけど、
俺の中に残った違和感だけは、
消えることがなかった。
舞夜は、
いったい何を恐れているんだろう。
その答えは、
まだ見えなかった。
◇ ◇ ◇
「怖かったからです。」
その言葉が、
授業が始まった後も、
ずっと頭の中に残っていた。
怖い。
八神舞夜が。
あの、何を言われても平然としているはずの彼女が。
怖い。
そんな言葉を口にするなんて、
想像したこともなかった。
「南。」
突然、
小さな声が聞こえた。
隣を見る。
舞夜だった。
先生は黒板に何かを書いている。
教室中の視線も、
今は前を向いていた。
だからこそ、
舞夜は小さな声で言った。
「さっきの話ですが。」
「……何だよ。」
「少し、言い過ぎました。」
思わず、
彼女の顔を見る。
「お前が謝るのか?」
「謝っていません。」
「いや、どう考えても謝ってるだろ。」
「違います。」
「違わない。」
「違います。」
……
「……少しだけです。」
「認めるんだな。」
舞夜は小さく視線を逸らした。
それだけなのに、
さっきまでとは違って見えた。
「別に、気にしてない。」
俺がそう言うと、
舞夜は静かに俺を見た。
「本当ですか?」
「本当だ。」
「嘘ですね。」
「なんでそうなる。」
「顔に書いてあります。」
「書いてない。」
「書いてあります。」
「書いてない。」
「書いてあります。」
……
「……少しだけ書いてるかもしれない。」
「やっぱり。」
こいつ、
絶対楽しんでるだろ。
そう思った瞬間、
舞夜が小さく呟いた。
「でも、よかったです。」
「……何が?」
「南が怒っていなくて。」
……
一瞬、
言葉が出なかった。
その言い方が、
あまりにも弱々しかったからだ。
「怒ってないよ。」
「そうですか。」
「そもそも、怒る理由もないし。」
「あります。」
「ない。」
「あります。」
「ない。」
「あります。」
……
「……少しだけ。」
「ない。」
舞夜は小さく笑った。
本当に、
ほんの少しだけ。
だけど、
その笑顔は、
いつもの完璧な笑顔とは違った。
どこか、
無理をしているように見えた。
「南。」
「何だ。」
「もし。」
舞夜は前を向いたまま言った。
「もし、全部終わったら。」
「……終わったら?」
「その時は、ちゃんと話します。」
……
「何を?」
「全部です。」
「だから、その全部って何なんだよ。」
「秘密です。」
「結局それか。」
「はい。」
「はあ……。」
俺は小さくため息をついた。
結局、
何も分からない。
だけど、
一つだけ、
分かったことがある。
八神舞夜は、
俺が思っているより、
ずっと無理をしている。
そして、
一人で何かを抱え込んでいる。
理由は分からない。
目的も分からない。
でも、
さっきの「怖かった」という言葉だけは、
嘘には聞こえなかった。
授業のチャイムが鳴る。
先生が教科書を閉じた。
「じゃあ、十分休みだ。」
教室が一気に騒がしくなる。
その瞬間、
舞夜は立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
俺が尋ねると、
舞夜は振り返り、
いつもの無表情のまま答えた。
「少し、考え事をしに。」
そう言って、
彼女は教室を出ていった。
残された俺は、
静かに閉まるドアを見つめる。
そして、
気づけば、
こんなことを考えていた。
――俺は、本当に何も知らない。
八神舞夜のことを。
そして、
知らないままでいていいのかも、
分からなかった。
◇第九話『答えのない問い』・完◇
第九話『答えのない問い』を読んでいただき、ありがとうございました。
これまで大樹に強く迫り続けてきた舞夜ですが、今回の話では、彼女の内側にある迷いや不安が少しだけ見え始めました。
なぜ舞夜はここまで必死なのか。
なぜ「自分のためではない」と言ったのか。
そして、彼女が本当に守ろうとしているものとは何なのか。
まだ答えは明かされていません。
しかし、大樹は少しずつ、舞夜の本当の姿に近づき始めています。
二人の関係は、この先どのように変わっていくのでしょうか。
次回の第十話も、ぜひ楽しみにしていただければ嬉しいです。
ブックマークや評価、感想をいただけると、とても励みになります。
それでは、また次回お会いしましょう。




