もう戻れない
残りの授業は、散々だった。
授業の内容が難しかったわけじゃない。
先生の話がつまらなかったわけでもない。
ただ――教室の空気が、おかしかった。
静かだった。
嫌な静けさ。
何か大きなことが起きた後の、あの妙な沈黙。
誰も何も言わない。
でも、全員が同じことを考えている。
そんな空気だった。
もちろん、昼休みの出来事について誰かが直接話すことはなかった。
だけど、時々聞こえてくる小さな声。
「さっきの、やばくなかった?」
「絶対なんかあるよね」
「いや、でも八神さんがあんな感じになるなんて……」
聞こえないふりをした。
聞きたくなかった。
だけど、一番そのことを考えていたのは――たぶん俺自身だった。
結局、舞夜の言葉の意味は分からないままだった。
『私のためじゃない』。
『怖かった』。
『話したら困る人がいる』。
何一つ理解できない。
なのに、その言葉だけが頭の中に残り続けていた。
そして。
気づけば、最後の授業の終了を告げるチャイムが鳴っていた。
放課後だ。
「ふぁぁ……」
隣の席で、松が大きく伸びをする。
「今日は疲れたな」
「お前は何もしてないだろ」
「精神的に疲れたんだよ。お前たちを見てるだけで胃が痛い」
「知らないよ」
「でも、昨日より面白かったな」
「お前にとってはな」
「もちろん」
こいつは本当にぶれない。
俺が呆れて鞄を持ち上げると、松がニヤニヤしながらこっちを見てきた。
「帰るのか?」
「ああ」
「一人で?」
「そうだけど」
「本当に?」
「本当だよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「絶対嘘だ」
「だから違うって――」
「南大樹。」
後ろから聞こえた声に、俺は言葉を止めた。
聞き慣れた声。
というか、今日一日で嫌というほど聞いた声。
ゆっくり振り返る。
そこには、当然のように八神舞夜が立っていた。
松が満足そうに頷く。
「ほらな」
「……ちょっと行ってくる」
「知ってた」
「知るな」
「無理だな」
本当に嫌になる。
俺は小さくため息をつきながら教室を出た。
舞夜も何も言わず、その後をついてくる。
廊下に出ると、放課後のざわめきが聞こえてきた。
部活へ向かう生徒。
友達同士で話しながら帰る生徒。
いつもの放課後の風景。
だけど、俺の隣には、学校一の美少女がいる。
全然いつも通りじゃない。
「……で?」
俺は歩きながら聞いた。
「何だよ」
「呼びました。」
「それは知ってる」
「はい。」
「だから、何の用だよ」
舞夜は数秒考えるように黙り込んだ後、静かに答えた。
「待っていました。」
「何を?」
「南を。」
「いや、それは見れば分かる」
「そうですか。」
「そうだよ」
相変わらず会話になっているようで、なっていない。
俺は足を止め、舞夜を見た。
「……お前さ、毎回こうやって現れるの、やめろ」
「現れていません。」
「現れてるだろ」
「違います。」
「違わない」
「違います。」
「違う。」
「違います。」
数秒の沈黙。
そして。
「……少しだけです。」
「やっぱり認めるんじゃねえか」
「認めていません。」
「いや、今認めただろ」
「認めていません。」
「認めてる。」
「認めていません。」
駄目だ。
この会話、終わる気がしない。
そう思った瞬間、舞夜が俺を見上げながら言った。
「南。」
「何だよ」
「少しだけ、付き合ってください。」
「断る。」
「はい。」
「いや、『はい』じゃなくて」
「五分です。」
「人の話を聞け」
「五分だけです。」
「聞いてないな?」
「聞いています。」
「絶対聞いてない」
舞夜は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「では、十分。」
「増やすな。」
「七分。」
「細かいな」
「六分。」
「交渉するな」
「五分。」
「最初に戻っただけだろ」
「そうですね。」
こいつ、絶対楽しんでる。
俺が深いため息をつくと、舞夜は静かに言った。
「五分だけです。」
「……本当に五分か?」
「たぶん。」
「急に信用できなくなったんだけど」
「大丈夫です。」
「その言葉が一番信用できない」
すると、舞夜は小さくうなずいた。
「では、保証します。」
「何を?」
「五分で終わります。」
「……分かったよ」
「ありがとうございます。」
「勘違いするなよ。五分だけだからな」
「はい。」
そう答えた舞夜は、いつもの無表情のまま、静かに歩き始めた。
そして俺は、結局その後ろを追いかけることになった。
学校を出る。
夕方の風が、昼間より少しだけ涼しくなっていた。
グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてくる。
校門の前を通り過ぎる生徒たちの笑い声。
いつもの放課後。
だけど、隣を歩いている相手だけは、全然いつも通りじゃなかった。
俺と舞夜は、並んで歩いていた。
特に会話はない。
なのに、不思議と気まずくはなかった。
むしろ――妙に落ち着いていた。
「……なあ。」
沈黙に耐えられなくなったのは、俺の方だった。
「何ですか?」
「お前って、いつもそんな感じなのか?」
舞夜は首を傾げる。
「そんな感じ、とは?」
「その……しつこいところ。」
「はい。」
即答だった。
「迷いがないな。」
「ありません。」
「自覚はあるんだな。」
「あります。」
「じゃあ、直そうとは思わないのか?」
「思いません。」
「なんで。」
「必要だからです。」
「またそれか。」
「またです。」
思わずため息が漏れる。
「お前、本当にその答え好きだな。」
「好きです。」
「そこは認めるのかよ。」
「認めます。」
……駄目だ。
会話のペースが完全に向こうに持っていかれている。
しばらく歩く。
住宅街に入ると、周りの人影も少なくなってきた。
さっきまで聞こえていた部活の声も、もう遠い。
「でも。」
突然、舞夜が口を開いた。
「何だよ。」
「南の言うことも、分かります。」
「……え?」
思わず足を止めそうになる。
「私が変なのは、知っています。」
「いや、自分で言うのかよ。」
「事実ですから。」
「否定はできない。」
「でしょうね。」
「そこで傷ついたりしないのか?」
「少しだけ。」
「傷つくんだ。」
「人間なので。」
「そうだったのか。」
「失礼ですね。」
「いや、今までの行動を見てると、たまに疑う。」
「ひどいです。」
そう言いながらも、舞夜の表情はほとんど変わらない。
だけど――。
なんとなく。
本当になんとなくだけど。
いつもより、少しだけ柔らかい気がした。
「……今日のこと。」
俺が言う。
「昼休みのことか?」
「はい。」
「正直、かなり大変だった。」
「そうでしょうね。」
「だったら、なんであんなことしたんだよ。」
舞夜は少しだけ前を向いた。
夕日が横顔を照らしている。
「必要だからです。」
「その答えは禁止。」
「……。」
初めて、舞夜が黙った。
数秒後、小さな声で聞き返してくる。
「では、何と言えばいいんですか?」
「知らない。でも、本当のことを言ってくれ。」
舞夜の足が止まった。
俺も立ち止まる。
さっきまで吹いていた風だけが、静かに通り過ぎていった。
「……これが、本当なんです。」
その声は、いつもより少しだけ弱かった。
だけど。
俺には、どうしてもそうは思えなかった。
「本当に?」
「はい。」
「それだけじゃ、足りない。」
舞夜は何も言わない。
ただ、静かに視線を落とした。
「……分かっています。」
その言葉だけが、静かな住宅街に溶けていった。
「……分かっています。」
舞夜は小さな声でそう言った。
夕方の住宅街。
周囲には、遠くを走る車の音しか聞こえない。
俺はため息をついた。
「分かってるなら、少しくらい説明してくれてもいいだろ。」
「できません。」
「即答かよ。」
「事実なので。」
「便利な言葉だな、それ。」
「便利ではありません。」
「十分便利だ。」
「違います。」
「違わない。」
「違います。」
数秒の沈黙。
「……少しだけ便利かもしれません。」
「認めるんだな。」
「認めていません。」
「いや、今認めただろ。」
「少しだけです。」
「その『少しだけ』、万能すぎないか?」
「便利なので。」
「完全に認めてるじゃねえか。」
舞夜は何も答えなかった。
ただ、少しだけ視線をそらした。
「なあ。」
「何ですか?」
「今日、お前が言ったこと。」
「どれですか?」
「『自分のためじゃない』ってやつ。」
舞夜の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……はい。」
「結局、あれってどういう意味なんだ?」
「言えません。」
「またそれか。」
「またです。」
「お前、本当に秘密が好きだな。」
「好きではありません。」
「じゃあ何なんだよ。」
「必要だから隠しています。」
「だから、その必要って何なんだ。」
返事はなかった。
ただ、夕日を見つめているだけだった。
「……もしさ。」
気づけば、俺はそんなことを口にしていた。
「もし、お前が何かを抱えてるとして。」
「……。」
「それを、一人で何とかしようとしてるなら。」
舞夜がゆっくりとこちらを見る。
「それ、絶対無理だろ。」
沈黙。
長い沈黙。
数秒後、舞夜は静かに言った。
「無理でも、やるしかありません。」
「なんで。」
「やらなければいけないからです。」
「だから、誰に?」
「……。」
「誰に言われたんだ?」
舞夜は答えない。
ただ、小さく首を横に振った。
「誰にも言われていません。」
「じゃあ、なんでそこまでするんだよ。」
その瞬間。
舞夜は立ち止まり、静かに呟いた。
「もし、私がやらなかったら——」
また、その言葉だった。
「何か悪いことが起こります。」
俺は思わず顔をしかめた。
「だから、その『何か』って何なんだよ。」
「言えません。」
「いつもそれだな。」
「知っています。」
「じゃあ、どうやって俺に信じろって言うんだ?」
舞夜は、少しだけ驚いたような顔をした。
そして、ゆっくりと首を振る。
「別に、信じてほしいわけじゃありません。」
「……は?」
「南に信じてもらおうとは思っていません。」
「じゃあ、何なんだよ。」
舞夜は、一歩だけこちらへ近づいた。
さっきまであった距離が、少しだけ縮まる。
「必要なのは——」
その声は、静かだった。
でも、はっきりと聞こえた。
「南が、私を好きになることです。」
俺は思わず固まった。
「……いや、それ、答えになってないだろ。」
「私にとっては、唯一の答えです。」
夕日が、静かに二人の影を伸ばしていた。
「南が、私を好きになることです。」
……本当に。
こいつは、毎回とんでもないことを平然と言ってくる。
「いや、だから、それは答えになってないって言ってるだろ。」
「答えになっています。」
「なってない。」
「なっています。」
「なってない。」
「なっています。」
数秒の沈黙。
「……少しだけ。」
「少しでもない。」
思わず頭を抱える。
何なんだ、この会話。
意味が分からない。
本当に分からない。
なのに——。
なぜか、俺は帰ろうとは思わなかった。
夕日が住宅街を赤く染めていく。
周りには誰もいない。
部活帰りの生徒の声も、もう聞こえなかった。
俺たち二人だけ。
ただ、それだけだった。
「……普通じゃないよな。」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「何がですか?」
「全部だよ。」
舞夜は静かに瞬きをする。
「急に好きになれって言われて。」
「はい。」
「理由を聞いても教えてくれなくて。」
「はい。」
「そのくせ、毎日俺の前に現れて。」
「少しだけです。」
「毎日だ。」
「……毎日です。」
「認めるんだな。」
「事実なので。」
俺は小さくため息をついた。
「こんなの、普通じゃない。」
「知っています。」
「普通なら、絶対にうまくいかない。」
「知っています。」
「じゃあ、なんで続けるんだよ。」
舞夜は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……やめられないからです。」
「やめられない?」
「はい。」
「やめたくない、じゃなくて?」
「違います。」
「じゃあ、何なんだ。」
舞夜は答えなかった。
代わりに、一歩だけ俺の方へ近づく。
「お、おい。」
「何ですか?」
「近い。」
「そうですね。」
「分かってるなら下がれ。」
「嫌です。」
「なんでだよ。」
「必要だからです。」
「またそれか。」
「またです。」
……駄目だ。
本当に会話にならない。
だけど。
今までと違うことが一つだけあった。
周りには誰もいない。
教室じゃない。
クラスメイトもいない。
瑞子も、結衣も、松もいない。
言い訳できる相手がいない。
なのに。
なぜか、俺は舞夜から目を逸らせなかった。
「……おかしい。」
「何がですか?」
「俺だよ。」
「南が?」
「ああ。」
舞夜は不思議そうに首を傾げる。
「どこがおかしいんですか?」
「普通なら、とっくに逃げてる。」
「逃げていませんね。」
「そうなんだよ。」
「なぜでしょう。」
「知らない。」
本当に分からない。
面倒だと思っている。
困っている。
振り回されている。
なのに——。
俺はまだ、ここにいる。
「……なあ。」
「何ですか?」
「お前、俺のこと嫌いじゃないのか?」
舞夜は一瞬だけ黙った。
そして、静かに答える。
「嫌いではありません。」
「即答だな。」
「当たり前です。」
「いや、俺は毎日文句言ってるんだけど。」
「知っています。」
「それでも嫌いじゃないのか?」
「はい。」
「変わってるな。」
「南ほどではありません。」
「なんで俺なんだよ。」
「秘密です。」
「結局それか。」
「はい。」
俺は空を見上げた。
夕焼けが、少しずつ夜の色に変わっていく。
その時だった。
「……私のこと、迷惑ですか?」
突然。
舞夜が、そんなことを聞いてきた。
俺は思わず固まった。
今まで、一度も聞かれたことのない質問だった。
「……何だよ、急に。」
「答えてください。」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
少しだけ。
本当に、少しだけ。
不安そうに聞こえた。
「……私のこと、迷惑ですか?」
突然の質問だった。
あまりにも突然で、
俺は言葉を失った。
「……急に何だよ。」
「答えてください。」
舞夜は俺を見つめたまま、静かにそう言った。
いつもと同じ無表情。
だけど、その声だけは少し違った。
少しだけ弱くて、
少しだけ不安そうだった。
「迷惑かどうかって……。」
「はい。」
「そりゃ、振り回されてるとは思う。」
「そうですか。」
「でも。」
舞夜が小さく瞬きをする。
「正直、よく分からない。」
「分からない?」
「ああ。」
俺は頭をかきながら続けた。
「面倒だとは思う。」
「はい。」
「意味も分からない。」
「はい。」
「何を考えてるのかも分からない。」
「はい。」
「でも。」
そこで言葉が止まる。
自分でも、
何を言おうとしているのか分からなかった。
「……でも、嫌じゃない。」
口にした瞬間、
自分でも驚いた。
舞夜も、少しだけ目を見開く。
「嫌じゃない?」
「ああ。」
「どうしてですか?」
「知らない。」
「適当ですね。」
「適当じゃない。本当に分からないんだよ。」
舞夜は黙った。
数秒後、小さく呟く。
「……そうですか。」
「何だよ、その反応。」
「少し安心しました。」
「安心?」
「はい。」
「なんで。」
「秘密です。」
「また秘密か。」
「また秘密です。」
本当に、どこまでも秘密ばかりだ。
だけど。
さっきの「安心しました」という言葉だけは、
嘘じゃないように聞こえた。
「……お前さ。」
「何ですか?」
「俺、お前のことを理解したいとは思ってる。」
舞夜が黙る。
「別に、好きになったわけじゃない。」
「はい。」
「でも、このまま何も知らないのは嫌だ。」
「……。」
「だから、理解したい。」
その瞬間。
舞夜は、初めて俺から目を逸らした。
夕日を見つめながら、
静かに言う。
「……やめた方がいいです。」
「なんで。」
「理解したら。」
そこで、舞夜は言葉を切った。
何かを迷うように。
何かを飲み込むように。
そして、
小さな声で続けた。
「理解したら、もう戻れなくなります。」
俺は眉をひそめた。
「戻れない?」
「はい。」
「どこに。」
舞夜は答えない。
数秒の沈黙。
風だけが、静かに吹き抜けていく。
「……何から戻れないんだ?」
返事はなかった。
代わりに、
舞夜はゆっくりと俺から離れた。
「五分、終わりました。」
「本当に五分だったのか?」
「たぶん。」
「また『たぶん』かよ。」
「たぶんです。」
俺はため息をついた。
「もう帰る。」
「はい。」
「お前も気をつけて帰れよ。」
「ありがとうございます。」
そう言って、俺は後ろを向いた。
そのまま歩き出そうとした時――。
「南大樹。」
後ろから、舞夜の声が聞こえた。
俺は足を止める。
「……何だよ。」
少しの沈黙。
そして。
「もう始まっています。」
「は?」
「全部です。」
「全部って何だよ。」
返事はない。
振り返ろうとした、その瞬間。
「今は、まだ言えません。」
静かな声だった。
俺は結局、振り返ることができなかった。
何が始まっているのか。
何が終わろうとしているのか。
俺には何も分からない。
だけど、一つだけ確かなことがあった。
八神舞夜という存在は、
もう俺の日常の外にはいない。
そして――。
俺自身も、もう後戻りできない場所まで来てしまっているのかもしれなかった。
◇第十話『もう戻れない』・完◇
第十話『もう戻れない』を読んでいただき、ありがとうございました。
放課後の静かな帰り道。
いつものような言い合いを続けながらも、大樹と舞夜の距離は少しずつ変わり始めています。
しかし、舞夜が抱えている秘密は、まだ何一つ明かされていません。
彼女はなぜここまで必死なのか。
なぜ「もう始まっている」と言ったのか。
そして、「理解したら、もう戻れない」という言葉の本当の意味とは何なのか。
大樹は少しずつ舞夜を知ろうとしています。
けれど、その先に待っているものが幸せなのか、それとも別の何かなのか、まだ誰にも分かりません。
二人の物語は、ゆっくりと、しかし確実に前へ進み始めています。
もし楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると、とても励みになります。
それでは、また第十一話でお会いしましょう。




