近すぎる距離
「絶対に成功します。」
朝、舞夜がそう言い切った瞬間から、
俺の頭の中には、その言葉がずっと残っていた。
成功する。
何が。
どうして。
そもそも、
なんでそんなに自信満々なんだ。
理屈は分からない。
意味も分からない。
なのに、
あいつの言葉には妙な説得力があった。
「……こっち見るな。」
小声でそう言う。
すると、
隣からすぐに返事が返ってきた。
「見ていません。」
「いや、見てるだろ。」
「見ていません。」
「見てる。」
「見ていません。」
「見てる。」
「見ていません。」
……
「……少しは見てる。」
「見ていません。」
絶対見てる。
というか、
今この瞬間も視線を感じる。
俺はゆっくりと隣を見る。
舞夜は何事もないような顔で座っていた。
近い。
とにかく近い。
「近くにいる」なんてレベルじゃない。
隣だ。
完全に隣。
同じ空間。
同じ空気。
同じ机。
そして、
俺の集中力は完全に破壊されていた。
「……お前、いつもこんな感じなのか?」
舞夜は小さく首を傾げる。
「どんな感じですか?」
「圧が強い。」
「強いですか?」
「強い。」
「そうですか。」
「そうだよ。」
舞夜は少しだけ考え込んだあと、
あっさりと言った。
「はい。」
「認めるのかよ。」
「認めます。」
「即答だな。」
「事実ですから。」
「自覚があるなら直せ。」
「嫌です。」
「なんでだよ。」
「必要だからです。」
またその言葉だ。
必要。
便利な言葉だな、本当に。
「お前、その『必要』って言葉、好きすぎないか?」
「好きではありません。」
「じゃあ何なんだ。」
「必要なんです。」
「答えになってない。」
「なっています。」
なってない。
全然なってない。
俺が頭を抱えていると、
前の席の女子たちがこちらをちらちら見ているのが分かった。
そりゃそうだ。
学校一の美少女が、
朝から男子の隣に座って、
普通に会話しているんだから。
完全に異常事態だ。
「……みんな見てるぞ。」
俺がそう言うと、
舞夜は窓の外を見ながら答えた。
「知っています。」
「気にならないのか?」
「なりません。」
「なんで。」
「南くんが隣にいるからです。」
……
「意味が分からない。」
「そのうち分かります。」
「絶対分からない。」
「分かります。」
「分からない。」
「分かります。」
……
「……少しは分かるかもしれない。」
「そうですか。」
舞夜は満足そうに頷いた。
なんで満足そうなんだ。
俺は大きくため息をついた。
すると、
舞夜は静かに俺の方を見た。
「ため息をつくと幸せが逃げますよ。」
「もう逃げてる。」
「まだ残っています。」
「残ってない。」
「残っています。」
……
「……少しだけ残ってる。」
「よかったです。」
「よくない。」
そう言った瞬間、
教室の前方から声が響いた。
「教科書四十七ページを開け。」
先生が教室に入ってきた。
助かった。
人生で初めて、
授業の開始を心から歓迎したかもしれない。
……そう思っていた。
この時の俺は、
まだ知らなかった。
この授業が、
さらに俺の精神を削っていくことを。
◇ ◇ ◇
「四十七ページを開け。」
先生の声と同時に、
教室中にページをめくる音が響く。
俺も机の上の教科書を開いた。
よし。
授業だ。
これで少しは静かになる。
そう思った。
本当に、
そう思っていた。
「……南くん。」
「何だ。」
「集中していますか?」
「してる。」
「嘘ですね。」
「してる。」
「していません。」
「してる。」
「してない。」
……
「……少しはしてない。」
「やっぱり。」
隣から満足そうな声が聞こえる。
何なんだ、こいつ。
俺は教科書に視線を戻した。
絶対に授業に集中する。
もう舞夜のペースには乗らない。
そう決意した、その時だった。
何かが、
俺の腕に触れた。
……
柔らかい感触。
一瞬、
思考が止まる。
ゆっくりと横を見る。
舞夜の腕だった。
「……おい。」
「何ですか?」
「何ですか、じゃない。」
「何でしょうか。」
「なんで触れてるんだ。」
舞夜は自分の腕を見て、
何事もないように答えた。
「近づいています。」
「これは近づくじゃなくて接触だ。」
「そうですね。」
「認めるのかよ。」
「認めます。」
「いや、認めるな。」
「では、認めません。」
「そういう問題じゃない。」
会話が成立しない。
本当に成立しない。
俺が慌てて腕を引こうとすると、
舞夜も同じ方向に動いた。
結果。
まだ触れている。
「動け。」
「南くんが動いてください。」
「俺は動いた。」
「私も動きました。」
「なんで同じ方向なんだよ。」
「偶然です。」
絶対に違う。
絶対に偶然じゃない。
「……お前、わざとだろ。」
「違います。」
「違うのか?」
「少しだけです。」
「認めるな!」
思わず声が大きくなる。
前の席の何人かが、
ちらりとこちらを見た。
最悪だ。
本当に最悪だ。
「静かにしてください。」
「原因がお前だからな?」
「知っています。」
「知ってるなら離れろ。」
「嫌です。」
「なんでだよ。」
舞夜は当たり前のように答えた。
「第二段階ですから。」
……
「は?」
思わず聞き返した。
「第二段階?」
「はい。」
「待て。」
「待ちません。」
「第一段階しか聞いてないんだが。」
「今、第二段階です。」
「そんなゲームみたいに増やすな。」
「ゲームではありません。」
「じゃあ何だ。」
「恋愛作戦です。」
意味が分からない。
いや、
最初から意味なんて分かっていなかった。
「ちなみに第一段階は?」
「距離を縮めることです。」
「第二段階は?」
舞夜は、
俺の腕をちらりと見た。
そして、
平然と言った。
「スキンシップです。」
……
終わった。
俺の高校生活は、
今、
確実に終わった。
「お前、正気か?」
「正気です。」
「俺は正気じゃなくなりそうなんだが。」
「大丈夫です。」
「何が大丈夫なんだ。」
「慣れます。」
「慣れたくない。」
「慣れてください。」
「嫌だ。」
「頑張ってください。」
「お前が頑張れ。」
「もう頑張っています。」
……
ダメだ。
勝てる気がしない。
俺は深くため息をついた。
その瞬間、
舞夜が小さく呟いた。
「でも、効果はありますね。」
「……何の話だ。」
「恋愛作戦です。」
「ない。」
「あります。」
「ない。」
「あります。」
「ない。」
「あります。」
……
「……少しだけ。」
言った瞬間、
しまった、と思った。
舞夜は嬉しそうに微笑む。
「やっぱり。」
「違う。」
「違いません。」
「違う。」
「違いません。」
……
俺は視線を教科書へ戻した。
もう考えるな。
授業に集中しろ。
そう自分に言い聞かせる。
だけど、
隣から伝わる体温のせいで、
文字がまったく頭に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
駄目だ。
全然集中できない。
教科書を開いている。
先生の話も聞こえている。
黒板の文字だって見えている。
なのに、
頭の中には何一つ入ってこない。
理由は簡単だった。
隣だ。
全部、
隣にいるこいつのせいだ。
「……南くん。」
「何。」
「授業、聞いていますか?」
「聞いてる。」
「聞いていませんね。」
「聞いてる。」
「聞いていません。」
「聞いてる。」
「聞いていません。」
……
「……少し聞いてない。」
「やっぱり。」
嬉しそうに言うな。
俺はため息をつきながら、
もう一度教科書へ視線を落とした。
落ち着け。
ただ授業を受けるだけだ。
隣に学校一の美少女が座っていて、
腕が触れていて、
意味不明な恋愛作戦を実行されているだけだ。
……全然落ち着けない。
「考えすぎです。」
「考えてない。」
「考えています。」
「考えてない。」
「考えてる。」
「考えてない。」
……
「……少し考えてる。」
「知っていました。」
「お前、エスパーか?」
「違います。」
「じゃあ何なんだ。」
「南くんを観察しているだけです。」
「怖いこと言うな。」
舞夜は小さく首を傾げた。
「怖いですか?」
「かなり。」
「そうですか。」
「そうだよ。」
俺たちがそんな会話をしている間にも、
周りの視線はどんどん増えていく。
後ろの席。
前の席。
窓際のグループ。
全員、
ちらちらとこちらを見ている。
そして、
当然のように聞こえてくる。
「ねえ、あれ本当に付き合ってるの?」
「いや、違うらしいよ。」
「でも、八神さんから話しかけてるって。」
「どういう関係なんだろう。」
知らない。
俺が一番知りたい。
「……見られてるぞ。」
俺が小声で言うと、
舞夜は平然と答えた。
「知っています。」
「気にならないのか?」
「なりません。」
「俺はなる。」
「大丈夫です。」
「何が。」
「慣れます。」
「慣れない。」
「慣れます。」
「慣れない。」
……
「……少しは慣れるかもしれない。」
「よかったです。」
全然よくない。
むしろ最悪だ。
俺の学校生活が音を立てて崩れていく。
そんな気さえしていた。
その時だった。
「南。」
……
嫌な予感がした。
ゆっくり顔を上げる。
先生が、
ものすごく冷たい目で俺を見ていた。
「はい。」
「そんなに面白い話なら、みんなにも聞かせてくれないか?」
……
終わった。
完全に終わった。
「いえ、別に……。」
「じゃあ授業に集中しろ。」
「はい……。」
教室のあちこちから、
小さな笑い声が聞こえる。
最悪だ。
本当に最悪だ。
俺が机に突っ伏したくなっていると、
隣から小さな声が聞こえた。
「怒られましたね。」
「誰のせいだと思ってる。」
「私ではありません。」
「お前だ。」
「違います。」
「お前だ。」
「違います。」
……
「……少しはお前のせいだ。」
「少しだけ認めます。」
「認めるな。」
俺は大きく息を吐いた。
すると、
舞夜は静かに言った。
「でも。」
「何だよ。」
「南くん。」
「何。」
「どうして、そんなに私を意識するんですか?」
……
心臓が、
一瞬だけ止まった気がした。
「意識なんてしてない。」
「しています。」
「してない。」
「しています。」
「してない。」
「しています。」
……
「……してない。」
「今、間がありました。」
「気のせいだ。」
「気のせいではありません。」
「気のせいだ。」
「違います。」
……
駄目だ。
何を言っても、
こいつには勝てない。
でも、
一つだけ、
分からないことがあった。
どうして、
俺はこんなにも、
こいつを無視できないんだろう。
その答えを考えようとした瞬間、
俺は思わず口を開いていた。
「……なあ。」
「何ですか?」
「どうして、俺なんだ?」
教室のざわめきの中、
舞夜だけが静かに俺を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「……なあ。」
「何ですか?」
「どうして、俺なんだ?」
気づけば、
口からそんな言葉が出ていた。
ずっと聞きたかった。
ずっと分からなかった。
どうして、
学校中に男子がいるのに、
どうして、
よりによって俺なんだ。
舞夜はしばらく黙っていた。
いつものように、
すぐには答えない。
その沈黙が、
妙に重かった。
「……前にも言いました。」
「言ってない。」
「言いました。」
「説明はされてない。」
「……そうですね。」
珍しく、
舞夜は素直に認めた。
「じゃあ教えろ。」
「できません。」
「またそれか。」
「はい。」
「それじゃ納得できない。」
「知っています。」
「知ってるなら——」
そこで、
俺は言葉を止めた。
舞夜の表情が、
少しだけ曇っていたからだ。
今までみたいな、
余裕のある顔じゃない。
どこか、
困っているような。
苦しそうな顔だった。
「……どうして、そんなことをするんだ。」
俺は小さな声で聞いた。
「俺を好きにさせるとか、隣に座るとか、意味の分からない作戦とか。」
「……。」
「お前だって、疲れるだろ。」
舞夜は何も言わなかった。
教室には先生の声が響いている。
クラスメイトたちはノートを取っている。
なのに、
俺たちの周りだけ、
時間が止まったみたいだった。
しばらくして、
舞夜がぽつりと呟いた。
「……止められないんです。」
「え?」
「止めたくても、止められません。」
その声は、
今まで聞いたことがないくらい小さかった。
「どういう意味だよ。」
舞夜は視線を教科書に落としたまま、
静かに言った。
「私が止めたら——」
そこで、
言葉が途切れる。
まただ。
昨日もそうだった。
肝心なところで、
必ず止まる。
「止めたら、どうなるんだ?」
数秒。
いや、
もっと長く感じた。
そして、
舞夜はゆっくりと口を開いた。
「……何もいいことは起きません。」
「それ、答えになってない。」
「分かっています。」
「じゃあ——」
「でも、本当なんです。」
……
俺は何も言えなかった。
答えになっていない。
なのに、
嘘をついているようにも見えなかった。
むしろ、
本当に困っているように見えた。
「……お前、変なやつだな。」
思わずそう呟く。
舞夜は小さく笑った。
「よく言われます。」
「問題児だし。」
「知っています。」
「面倒くさいし。」
「知っています。」
「俺の平穏な学校生活を壊してるし。」
「……それも知っています。」
いつもなら、
ここで終わるはずだった。
いつもなら、
またくだらない言い合いになるはずだった。
でも、
今日は違った。
俺は、
舞夜の横顔を見ながら、
思わず言っていた。
「……でも。」
「?」
「お前、本当は問題を起こしたいわけじゃないんだろ。」
……
舞夜の目が、
少しだけ見開かれる。
そして、
長い沈黙のあと、
彼女は小さく答えた。
「……起こしたくありません。」
「じゃあ、なんで。」
「……。」
「なんで、そんな顔をするんだよ。」
舞夜は答えない。
答えられない。
そんなふうに見えた。
そして、
俺は初めて思った。
こいつは、
ただ俺を困らせたいわけじゃない。
何か理由がある。
何か、
どうしても逃げられない事情がある。
その時だった。
「舞夜。」
突然、
後ろから声が聞こえた。
女子の声。
俺たち二人は同時に振り返る。
そこには、
腕を組み、
呆れたような表情を浮かべる瑞子が立っていた。
「……さすがに、やりすぎよ。」
教室の空気が、
また少しだけ変わった。
◇ ◇ ◇
「……さすがに、やりすぎよ。」
その一言で、
俺と舞夜は同時に後ろを振り返った。
そこには、
腕を組んだ瑞子が立っていた。
いつもの冷静な表情。
だけど、
今日は少しだけ険しい。
「鬼束。」
俺が名前を呼ぶと、
瑞子はため息をついた。
「朝から何をやってるの、あなたたち。」
「俺に聞くな。」
「じゃあ舞夜に聞くわ。」
そう言って、
瑞子は舞夜へ視線を向けた。
「舞夜、さすがに男子の隣に座って授業中ずっと話すのはどうかと思うけど。」
「作戦です。」
「その作戦をやめなさい。」
「嫌です。」
「即答なのね。」
「必要なので。」
「その『必要』って言葉、便利すぎない?」
「便利ではありません。」
「便利よ。」
珍しく、
瑞子が呆れた顔をしている。
というか、
たぶんクラス全員が同じ顔をしている。
「南も南よ。」
突然、
話が俺に飛んできた。
「なんで普通に会話してるの?」
「知らない。」
「逃げればいいじゃない。」
「逃げられないんだよ。」
「どうして?」
……
それは、
俺が一番知りたい。
「知らない。」
「知らないの?」
「知らない。」
「本当に?」
「本当に。」
瑞子はしばらく俺の顔を見つめたあと、
小さくため息をついた。
「重症ね。」
「何が?」
「自覚がないところ。」
「何の自覚だよ。」
「自分で考えなさい。」
意味が分からない。
本当に分からない。
すると、
舞夜が静かに口を開いた。
「南くんは悪くありません。」
「いや、俺もそう思う。」
「あなたは黙って。」
「ひどくない?」
瑞子は完全に無視した。
「舞夜。」
「何ですか?」
「少し落ち着きなさい。」
「落ち着いています。」
「全然落ち着いてない。」
「落ち着いています。」
「落ち着いてない。」
……
「……少しだけ落ち着いていません。」
「でしょうね。」
その瞬間、
教室のあちこちから笑い声が漏れた。
俺は机に突っ伏したくなった。
もう無理だ。
限界だ。
精神力が残っていない。
すると、
瑞子は俺の机の横に立ち、
小さな声で言った。
「南。」
「何だよ。」
「舞夜、最近少し変なのよ。」
「……最近?」
「ええ。」
瑞子は一瞬だけ舞夜を見た。
「だから、あんまり一人で抱え込まないで。」
「は?」
「別に、助けろって言ってるわけじゃない。」
「いや、意味が分からないんだけど。」
「分からなくていいわ。」
「いや、よくないだろ。」
瑞子はそれ以上何も言わなかった。
ただ、
どこか心配そうな顔で舞夜を見ていた。
その表情を見て、
俺は改めて思う。
やっぱり、
何かがおかしい。
俺の知らない何かが、
舞夜の周りで起きている。
そして、
その中心に、
なぜか俺がいる。
「……面倒なことになったな。」
思わず呟く。
すると、
隣から即座に返事が返ってきた。
「知っています。」
「お前に言ったんじゃない。」
「でも、事実です。」
「認めるな。」
「認めます。」
「認めるな。」
「認めます。」
……
もう駄目だ。
俺は天井を見上げた。
その瞬間、
キーンコーンカーンコーン――。
休み時間を告げるチャイムが鳴り響く。
クラス中が一斉に立ち上がる。
そして、
俺は気づいてしまった。
あと数時間で、
昼休みが来る。
そして、
その昼休みを、
舞夜は楽しみにしている。
……終わった。
俺の平和な一日は、
まだ半分も終わっていなかった。
第八話『近すぎる距離』を読んでいただき、ありがとうございます。
舞夜の「恋愛作戦」は、少しずつ進み続けています。
しかし、大樹は気づき始めていました。
舞夜が隠しているものは、ただの秘密ではないということに。
彼女は、一体何を抱えているのか。
そして、なぜ大樹を選んだのか。
その答えは、まだ誰にも分かりません。
それでは、また第九話でお会いしましょう。




