恋愛作戦開始
◇ ◇ ◇
眠れなかった。
「少し寝不足だった」とか、
「途中で一回起きた」とか、
そんなレベルじゃない。
本当に最悪だった。
三回も目が覚めた。
無駄に考えすぎた。
馬鹿みたいにベッドの上を転がり続けた。
全部、
たった一言のせいだ。
『私には、選択肢がないから。』
「……どういう意味なんだよ。」
天井を見上げる。
時計を見ると、
朝の六時十二分。
早すぎる。
というか、
早すぎて逆に腹が立つ。
「最悪だ……。」
枕を顔に押しつける。
もちろん、
何の解決にもならなかった。
考えないようにすればするほど、
余計に考えてしまう。
舞夜のことを。
あいつの態度を。
あいつの言葉を。
そして、
あの寂しそうな笑顔を。
「……面倒くさい。」
小さく呟き、
俺はベッドから起き上がった。
◇ ◇ ◇
リビングへ向かうと、
キッチンから母さんの声が聞こえてきた。
「おはよう、大樹。」
「おはよう。」
椅子に座ると、
母さんは俺の顔を見るなり眉をひそめた。
「すごい顔してるわね。」
「ありがとう。」
「褒めてない。」
「知ってる。」
朝食が目の前に置かれる。
「学校で何かあったの?」
「別に。」
「本当に?」
「本当。」
少しの沈黙。
そして、
母さんはじっと俺を見つめながら言った。
「……女の子?」
……
「違う。」
「返事が早すぎる。」
「違う。」
「絶対、女の子ね。」
「違うって。」
「好きなの?」
「違う。」
「じゃあ好きなんだ。」
「違う。」
「好きなんだ。」
「違う。」
……
「……少しだけ。」
「やっぱり!」
「違うって言ってるだろ。」
母さんは楽しそうに笑った。
「で、誰なの?」
「誰でもない。」
「名前。」
「嫌だ。」
「名前。」
「嫌だ。」
「名前。」
「嫌だ。」
……
「……八神舞夜。」
一瞬、
空気が止まった。
「……あの八神舞夜?」
「そう。」
「学校で有名な?」
「そう。」
「完璧超人の?」
「そう。」
「その八神舞夜?」
「そう。」
……
母さんは腕を組み、
真剣な顔で俺を見た。
「……何をしたの?」
「何もしてない。」
「信じられない。」
「俺も信じられない。」
「告白された?」
「違う。」
「デートに誘われた?」
「違う。」
「じゃあ何?」
……
俺はため息をついた。
「……俺を好きにさせるって言われた。」
……
沈黙。
母さんは数秒固まったあと、
真顔で言った。
「結婚しなさい。」
「しない。」
「なんで?」
「そういう問題じゃない。」
「問題ないわ。」
「ある。」
「ない。」
「ある。」
「ない。」
……
「……少しはある。」
「ないわ。」
「あるって。」
母さんは笑いながら、
楽しそうに言った。
「今度、家に連れてきなさい。」
「絶対に嫌だ。」
「えー。」
「絶対に嫌だ。」
そんなくだらない会話をしながら、
俺は朝食を口に運んだ。
だけど、
頭の中にあるのは、
やっぱり昨日の言葉だった。
『私には、選択肢がないから。』
その意味が、
何度考えても分からない。
そして、
嫌になるくらい、
俺はもう、
八神舞夜のことばかり考えていた。
◇ ◇ ◇
家を出ると、
朝の冷たい空気が頬を撫でた。
いつもより少し早い時間。
空はまだ完全には明るくなっていない。
俺は制服のポケットに手を突っ込みながら、
学校への道を歩いていた。
別に急いでいるわけじゃない。
ただ、
家にいても落ち着かなかっただけだ。
昨夜はほとんど眠れなかった。
原因は分かっている。
考える必要もない。
全部、
あいつのせいだ。
『私には、選択肢がないから。』
「……だから、その意味は何なんだよ。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
もちろん、
返事なんて返ってこない。
その時だった。
「おはよう、主人公。」
後ろから聞き慣れた声がした。
「……その呼び方やめろ。」
振り返ると、
いつものように笑っている松の姿があった。
「無理だな。」
「なんでだよ。」
「だって、お前、今一番学校で注目されてる男だぞ?」
「嬉しくない。」
「俺は嬉しい。」
「お前の話はしてない。」
松は俺の隣に並ぶと、
面白そうに俺の顔を覗き込んだ。
「で、寝られたか?」
「全然。」
「いいね。」
「何がいいんだよ。」
「それだけ八神さんのことを考えてるってことだろ?」
「違う。」
「違わない。」
「違う。」
「違わない。」
「違う。」
「違わない。」
……
「……少しだけ。」
「やっぱりな!」
朝っぱらから大声を出すな。
「うるさい。」
「認めたじゃないか。」
「認めてない。」
「認めた。」
「認めてない。」
「認めた。」
……
面倒くさい。
俺は大きくため息をついた。
すると、
松はニヤニヤしながら続ける。
「それで? 今日はどうするんだ?」
「何が。」
「八神さん対策。」
「そんなものない。」
「絶対必要だろ。」
「必要ない。」
「必要だ。」
「必要ない。」
「必要だ。」
……
「……あるかもしれない。」
「ほら!」
「嬉しそうにするな。」
松は肩を震わせながら笑っている。
本当に楽しそうだな、こいつ。
「でもさ。」
急に松の声の調子が変わった。
「今日も何かしてくると思うぞ。」
「……やめろ。」
「昨日の昼休みを思い出してみろよ。」
思い出したくない。
むしろ忘れたい。
「お前に『好きにさせる』って宣言したんだぞ?」
「そうだけど。」
「何もしないわけがない。」
……
確かに、
言われてみればそうだった。
あいつは、
冗談であんなことを言うタイプじゃない。
つまり、
今日も何かが起こる。
絶対に。
嫌な予感しかしない。
「なあ、大樹。」
「何だよ。」
松は満面の笑みで言った。
「今日はもっと面白くなりそうだな。」
「俺は全然面白くない。」
「でも、主人公ってそういうものだろ?」
「誰が主人公だ。」
「お前。」
「違う。」
「いや、お前だ。」
「違う。」
「主人公だ。」
……
「……最悪だ。」
松は声を上げて笑った。
その笑い声を聞きながら、
俺は確信していた。
今日、
絶対に何かが起こる。
そして、
その予感は、
たぶん外れない。
◇ ◇ ◇
教室の扉を開けた瞬間、
嫌な予感がした。
いや、
予感じゃない。
確信だった。
「……うわ。」
中に入った途端、
視線が集まる。
右から。
左から。
前から。
後ろから。
完全に包囲されていた。
昨日よりひどい。
確実に悪化している。
「もう終わりだ……。」
小さく呟きながら、
自分の席へ向かう。
すると、
周囲からひそひそ声が聞こえてきた。
「来た。」
「本当に八神さんと付き合ってるのかな?」
「いや、告白されたらしいぞ。」
「違う違う、八神さんからアプローチしてるって。」
「嘘でしょ?」
全部嘘だ。
というか、
俺が一番説明してほしい。
「人気者は大変だな。」
隣で松が笑っている。
「人気者じゃない。」
「学校中がお前の話をしてるぞ。」
「やめてくれ。」
「無理だ。」
「なんでだよ。」
「面白いから。」
最低だ。
ようやく席に座り、
大きく息を吐く。
落ち着け。
今日は何も起こらない。
きっと大丈夫だ。
そう、
今日は普通の日になる。
絶対に。
「おはよう、南くん。」
……
終わった。
ゆっくり顔を上げる。
そこには、
いつも通りの完璧な笑顔を浮かべた舞夜が立っていた。
「……おはよう。」
ものすごく嫌そうな声が出た。
「元気がありませんね。」
「誰のせいだと思ってるんだ。」
「知りません。」
「絶対知ってるだろ。」
「知りません。」
「知ってる。」
「知りません。」
……
「……少しは知ってるだろ。」
「いいえ。」
全然話にならない。
舞夜は俺の机を軽く指で叩きながら言った。
「今日は始めます。」
「何を?」
「作戦を。」
……
嫌な予感しかしない。
「待て。」
「待ちません。」
「聞け。」
「聞いています。」
「嫌なんだが。」
「知っています。」
「じゃあやめろ。」
「やめません。」
……
「何なんだ、お前。」
「八神舞夜です。」
そういう意味じゃない。
「で、何を始めるんだよ。」
舞夜は少しだけ胸を張った。
そして、
まるで重大発表をするかのように言った。
「第一段階です。」
「第一段階?」
「はい。」
嫌な単語が聞こえた。
というか、
第二段階以降もあるのか?
「内容を聞いても?」
「もちろんです。」
舞夜は俺の隣の席を見た。
そして、
何の迷いもなく、
その椅子を引いた。
「第一段階、『距離を縮める』です。」
……
いや、
待て待て待て。
「そこ、お前の席じゃないだろ。」
「今は違います。」
「今も違う。」
「違いません。」
「違う。」
「違いません。」
……
そして、
俺の反論など存在しないかのように、
舞夜は隣に座った。
「おい。」
「何ですか?」
「近い。」
「近くなる作戦ですから。」
「意味が分からない。」
「分かります。」
「分からない。」
「分かります。」
……
本当に分からない。
周囲がざわつき始める。
そりゃそうだ。
学校一の美少女が、
朝から男子の隣に座っているんだから。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
「お前、周り見えてるか?」
「見えています。」
「みんな見てるぞ。」
「問題ありません。」
「大問題だ。」
「問題ありません。」
「大問題だ。」
「問題ありません。」
……
こいつ、
絶対に話を聞いてない。
すると、
舞夜は俺の机に肘をつき、
少しだけ顔を近づけてきた。
近い。
近すぎる。
「な、何してるんだ。」
「距離を縮めています。」
「縮めすぎだ。」
「そんなことありません。」
「ある。」
「ありません。」
「ある。」
「ありません。」
……
「……少しはある。」
「ありません。」
ダメだ。
会話にならない。
俺が頭を抱えていると、
舞夜は静かに微笑んだ。
「大丈夫です。」
「何が。」
「ちゃんと成功します。」
「何がだよ。」
舞夜は、
まっすぐ俺を見つめながら言った。
「南くんを、私に恋させる作戦です。」
……
もう帰りたい。
今すぐ帰りたい。
でも、
舞夜はそんな俺を見て、
不思議そうに首をかしげた。
「どうしましたか?」
「全部だよ。」
「全部?」
「全部だ。」
「大丈夫です。」
「大丈夫じゃない。」
「大丈夫です。」
……
本当に、
こいつは何を考えているんだ。
そう思った、
次の瞬間だった。
舞夜が、
小さく笑いながら言った。
「もう始まっていますから。」
「……何が?」
俺が聞き返すと、
舞夜は迷いなく答えた。
「南くんが、私のことを考える時間です。」
……
「は?」
「昨日から、ずっと考えているでしょう?」
心臓が、
一瞬だけ止まりそうになった。
「違う。」
「違いません。」
「違う。」
「違いません。」
「違う。」
「違いません。」
……
「……少しだけ。」
舞夜は、
勝ち誇ったように微笑んだ。
「やっぱり。」
そして、
俺は確信した。
これは、
ただの悪夢じゃない。
もっと厄介で、
もっと危険な何かだ。
そして、
俺はもう、
その中心に立たされているのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
「もう始まっていますから。」
そう言って笑う舞夜を見て、
俺は大きくため息をついた。
「……何なんだよ、その自信。」
「自信ではありません。」
「じゃあ何だ。」
「事実です。」
「事実じゃない。」
「事実です。」
「違う。」
「違いません。」
……
朝からこの会話を何回繰り返しているんだ。
というか、
まだ一時間目も始まっていないんだぞ。
普通の高校生は、
朝からこんな精神攻撃を受けない。
絶対に受けない。
「そもそもさ。」
俺は舞夜を見ながら言った。
「なんで俺なんだよ。」
「南くんだからです。」
「答えになってない。」
「答えです。」
「なってない。」
「なっています。」
……
会話が成立しない。
本当に成立しない。
俺が頭を抱えていると、
後ろの席の男子たちがひそひそ話し始めた。
「見ろよ、またやってる。」
「昨日より距離近くない?」
「何なんだ、あの二人。」
「南、人生勝ち組すぎるだろ。」
違う。
断じて違う。
勝っている要素なんて一つもない。
むしろ毎日負け続けている。
精神的に。
「……聞こえてるぞ。」
俺が小声で言うと、
舞夜は平然と答えた。
「聞こえています。」
「気にならないのか?」
「なりません。」
「なんでだよ。」
「気にする必要がありませんから。」
「俺は気にするんだよ。」
「大丈夫です。」
「大丈夫じゃない。」
「大丈夫です。」
……
その根拠のない自信はどこから来るんだ。
すると、
舞夜は少しだけ首を傾げた。
「南くんは、どうしてそんなに嫌がるんですか?」
「嫌がる理由なんて山ほどあるだろ。」
「例えば?」
「まず、目立つ。」
「はい。」
「噂になる。」
「はい。」
「精神的に疲れる。」
「はい。」
「だから嫌なんだ。」
舞夜は数秒考え込んだあと、
真顔で言った。
「つまり、慣れれば問題ありませんね。」
「問題しかない。」
「ありません。」
「ある。」
「ありません。」
……
「……少しはある。」
「ありません。」
全然譲らない。
俺が机に突っ伏そうとした、
その時だった。
キーンコーンカーンコーン――。
始業のチャイムが鳴った。
助かった。
人生で初めて、
授業開始のチャイムに感謝した。
「ほら、戻れ。」
俺がそう言うと、
舞夜は静かに立ち上がった。
「分かりました。」
「最初からそうしてくれ。」
「でも、第一段階は順調です。」
「順調じゃない。」
「順調です。」
「違う。」
「違いません。」
……
そして、
自分の席へ戻ろうとした舞夜は、
途中で立ち止まった。
振り返る。
そして、
いつもの完璧な笑顔を浮かべて言った。
「昼休み、楽しみにしています。」
……
「行かない。」
「来ます。」
「行かない。」
「来ます。」
「行かない。」
「来ます。」
……
「……絶対に行かない。」
舞夜は少しだけ笑った。
「楽しみにしています。」
そう言い残して、
自分の席へ戻っていった。
俺は椅子にもたれかかり、
天井を見上げる。
終わった。
まだ朝だぞ。
一日が始まって三十分も経ってないんだぞ。
なのに、
もう一週間分くらい疲れている。
隣を見る。
窓の外では、
いつも通りの平和な朝が広がっていた。
……どうして俺だけ、
こんなことになっているんだ。
そして、
嫌な予感がした。
昼休み。
絶対に、
何かが起こる。
俺の平穏な高校生活は、
今日もまた、
静かに崩れていこうとしていた。
◇あとがき◇
第七話『恋愛作戦開始』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
ついに舞夜の「恋愛作戦」が正式に始まりました。
しかし、大樹にとっては恋愛どころか、平穏な高校生活そのものが崩れ始めています。
果たして舞夜の作戦は成功するのか。
そして、大樹は本当に舞夜に恋をしてしまうのか。
それとも――。
舞夜が隠している秘密とは何なのか。
少しずつ、二人の距離は縮まっていきます。
ですが、その先に待っているものは、まだ誰も知りません。
もし楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をしていただけると、とても励みになります。
それでは、また次回の第八話でお会いしましょう。




