残る言葉
図書室は、完全な静けさに包まれていた。
聞こえてくるのは――。
ページをめくる小さな音と、遠くから響く壁時計の秒針の音だけだった。
俺は、受け取った原稿を大切に持っていた。
向かいに座る舞夜は、両手でティーカップを包みながら、ずっと俺を見ている。
「今、読んでもいい?」
俺が尋ねると――。
舞夜はゆっくりと頷いた。
「はい……」
「南くんがよければ」
俺は一度、深く息を吸った。
そして――。
最初のページを開いた。
そこには、タイトルが書かれていた。
**『落ち葉が落ちなくなる時』**
その下に並ぶ文字を、俺は静かに読み始めた。
『落ち葉が落ちなくなる時』
「秋は、別れの季節だと言う。
木々の葉は、何も言わずに枝を離れていく。
不満を口にすることもない。
戻ろうとすることもない。
ただ、風に身を任せる時が来たのだと受け入れている。
私は長い間、人も同じなのだと思っていた。
誰かが自分の人生からいなくなった時――。
その人を手放すことが、正しいことなのだと。
でも、ある日気づいた。
別れた後も、心に残り続ける出会いがある。
それは、私たちが言えなかった言葉の中に、ひっそりと残っている。」
俺は、そこで一度読むのを止めた。
最初の数行だけでも――。
何とも言えない穏やかな空気が伝わってくる。
そして、再びページをめくった。
物語の主人公は、放課後になると古い木の下に座る少女だった。
彼女は毎日、その場所で一枚の葉を見つける。
最初は、ただの偶然だと思っていた。
けれど――。
ある時から、その葉の裏側に小さな文字が書かれていることに気づく。
「笑っていて」
「まだ、知らないことがたくさんある」
「怖がらなくていい」
誰が書いたのかは、最後まで明かされない。
大切なのは、誰が書いたのかではなかった。
その言葉が――。
主人公の心にどんな変化を与えたのか。
一つ一つのメッセージが、彼女の背中をそっと押していた。
そして――。
彼女は少しずつ、前へ進み始めていく。
読了した。
俺はゆっくりと原稿を閉じた。
しばらくの間――。
何も言葉が出てこなかった。
舞夜は向かい側で、静かに俺を見ている。
急かすこともなく。
ただ、俺が何を感じたのかを待っている。
「……どうでしたか?」
ようやく、舞夜が小さな声で尋ねた。
俺は少し考えてから答える。
「前の物語とは、全然違うと思う」
舞夜が少しだけ首を傾げた。
「違う……?」
「うん」
「前の話は、過去の記憶について書かれていた」
「でも、今回は――」
俺は閉じた原稿を見る。
「希望の話だと思う」
舞夜の口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「……そう感じましたか?」
「すごく」
「葉っぱが物語の中心じゃない」
「言葉そのものが中心でもない」
俺は続ける。
「誰かが、見返りを求めずに、別の誰かを支えようとしたこと」
「そこが、一番大切なんだと思う」
舞夜は視線を落とした。
両手で持っていたカップを、少しだけ強く握る。
「……やっぱり」
「南くんには、分かってしまうんですね」
しばらく、静かな時間が流れた。
それから俺は、ふと思ったことを口にする。
「一つだけ、気になったところがある」
舞夜がすぐに顔を上げた。
「どこですか?」
「最後まで、誰がメッセージを書いたのか分からないところ」
「これは、わざと?」
舞夜は小さく頷いた。
「はい」
「だって……」
少し間を置いてから、静かに続ける。
「誰が助けてくれたのかは、時には重要じゃないと思うんです」
「大切なのは――」
「自分が一番苦しかった時に、誰かがそばにいてくれたことを覚えていることだから」
その言葉が、静かな図書室に残った。
なぜか俺には――。
舞夜が話しているのは、物語の主人公だけではないように感じられた。
その時――。
本棚の向こうから、落ち着いた声が聞こえてきた。
「その解釈は、とても面白いですね」
俺と舞夜は、同時にそちらを振り向いた。
そこにいたのは――。
陽人先輩だった。
腕には三冊の本を抱えている。
「すみません」
「話を聞くつもりはなかったんですが……」
「ちょうど隣の棚で本を整理していたので」
舞夜は小さく頭を下げる。
「陽人先輩」
陽人先輩は、俺たちのところまで歩いてくる。
そして、持っていた本を机の上に置いた。
「南くん、でしたよね?」
俺は頷く。
「はい」
「八神さんから聞いています」
「いつも、正直な感想を言ってくれるそうですね」
舞夜が少し恥ずかしそうにする。
「先輩……」
陽人先輩は穏やかに笑った。
それから、机の上に置かれた原稿へ視線を向ける。
「さっき言っていた、最後の部分についてですが――」
「とても大切なところだと思います」
「良い作家は、自分が何を伝えたいのかだけを考えるんじゃありません」
「読者に、どんな問いを残したいのかも考えるんです」
俺は、その言葉について考えた。
陽人先輩は続ける。
「読者が本を閉じた後も、その物語について考えているなら――」
「その物語は、まだその人の中で生き続けているということです」
舞夜は真剣な表情で、その言葉を聞いていた。
先輩への信頼が、その表情から伝わってくる。
陽人先輩は本を手に取った。
「二人とも、そのまま続けてください」
「きっと、良い方向へ進んでいますよ」
そう言って、軽く頭を下げる。
そして――。
本棚の向こうへ歩いていった。
俺は、その背中をしばらく見送った。
陽人先輩が去った後――。
図書室には、再び静かな空気が戻った。
舞夜はしばらく原稿を見つめていた。
そして――。
小さく息を吐く。
「……先輩の言葉って、不思議ですね」
「どういう意味?」
「聞くたびに、自分が何を書きたいのかを考えたくなるんです」
舞夜は原稿をそっと手に取った。
「この物語を書いている時も、最初はただ秋の風景を書きたかっただけでした」
「でも、書いているうちに――」
「誰かの言葉が、別の誰かを救うこともあるんだって思うようになって」
俺は舞夜を見る。
「それって、今の舞夜自身にも似てるんじゃない?」
舞夜が少し驚いたように目を開く。
「私に……?」
「うん」
「舞夜が書いた物語を読んで、何かを感じる人がいるかもしれない」
「その人にとっては、舞夜の言葉が支えになることだってあると思う」
舞夜は何も言わなかった。
ただ――。
原稿を胸元へ抱える。
「……そうだったら、嬉しいです」
その声は、とても小さかった。
でも――。
その表情には、確かな喜びが浮かんでいた。
「だから、もっと書きたいです」
「自分の言葉で」
俺は笑った。
「じゃあ、これからも最初に読ませてよ」
舞夜は少しだけ驚いた後――。
嬉しそうに頷いた。
「はい」
「約束です」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
今度は――。
どちらも、その沈黙を埋めようとはしなかった。
しばらくして――。
俺はもう一度、原稿の表紙を見た。
『落ち葉が落ちなくなる時』
不思議なタイトルだった。
でも、今なら少しだけ、その意味が分かる気がする。
落ち葉は、木から離れてしまえば終わりだと思っていた。
けれど――。
そこに残された言葉は、誰かの心の中で生き続ける。
そして、その言葉を受け取った人が前へ進めば――。
その想いも、また次の誰かへ繋がっていく。
俺は原稿を舞夜へ返した。
「ありがとう」
「読ませてもらえてよかった」
舞夜は両手で原稿を受け取る。
「こちらこそ……」
「最後まで読んでくれて、ありがとうございました」
少し照れながら、舞夜は微笑んだ。
その笑顔を見ていると――。
この物語を書いた理由が、少しだけ分かったような気がした。
舞夜はきっと、誰かに言葉を届けたかったのだ。
まだ、自分でも気づいていない何かを。
図書室の窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。
一枚の葉が、静かに舞い落ちた。
俺はその葉を見ながら思った。
言葉は、消えてしまうものだと思っていた。
でも――。
本当に大切な言葉は、誰かの心に残る。
そして、いつか別の誰かを支えることだってある。
舞夜がこれから書いていく物語も――。
そんな言葉の一つになっていくのかもしれない。
俺は、そんな未来を少しだけ楽しみにしていた。
第八十一話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が書いた物語を通して、彼女が大切にしている想いが少しずつ見えてきました。
誰かから受け取った言葉は、時が経っても心の中に残ることがあります。
そして、その言葉がいつか別の誰かを支えることもあるのかもしれません。
舞夜の物語は、まだ始まったばかりです。
これから彼女がどんな言葉を綴っていくのか――。
次の話も、ぜひ楽しみにしていてください。
それでは、次の話でお会いしましょう。




