言葉を届ける人
秋が、すっかり定着したように感じられるようになった。
朝の空気は、日に日に冷たくなっている。
学校へ向かう道の木々も少しずつ葉を落とし、色づいた葉がゆっくりと歩道へ舞い落ちていた。
いつもの橋へ向かって歩いていると――。
近くのベンチに、舞夜が座っているのが見えた。
本を読んでいるわけではない。
何かを書いている。
文学部からもらったクリーム色の小さなノートを膝の上に置き、鉛筆を素早く動かしていた。
まるで、言葉が次から次へと浮かんでくるようだった。
俺は声をかけようと、できるだけ静かに近づく。
けれど――。
俺が挨拶するより先に、舞夜が顔を上げた。
そして、微笑む。
「おはようございます、南くん」
「おはよう」
舞夜は鉛筆をケースの中へしまった。
「いつからいたんですか?」
「そんなに早くないですよ」
「忘れる前に、思いついたことを書いておきたくて」
俺は膝の上にあるノートを見る。
「もう、そんなに書いたの?」
舞夜は小さく笑った。
「自分でも思っていたより早いです」
「陽人先輩の言った通りでした」
「アイデアって、思いがけない時に出てくるんですね」
「書き留めておかないと――」
「あとになったら、消えてしまうこともあるみたいです」
俺たちは、そのまま一緒に学校へ向かって歩き始めた。
歩きながら、舞夜はとても機嫌がよさそうだった。
文学部に入ってから――。
少しだけ、何かが変わった気がする。
大きな変化ではない。
でも、確かに分かる。
以前より、自分の考えを話す時に迷わなくなった。
そして何より――。
笑っている時間が、ずっと増えていた。
文学の授業中――。
先生が黒板に、一つの課題を書いた。
『短編小説――秋の思い出』
教室のあちこちから、小さなざわめきが起こる。
「時間は四十分です」
「完璧な物語を書く必要はありません」
「大切なのは、皆さん自身の気持ちが伝わることです」
「自分にとって大切な思い出について書いてください」
生徒たちは一斉に書き始めた。
俺も鉛筆を手に取る。
けれど――。
目の前の紙は、真っ白なままだった。
何を書けばいいんだ?
俺は、こっそり舞夜の席を見る。
彼女は、すでに何行も書き始めていた。
その表情は穏やかだった。
まるで――。
言葉が自然に溢れてくるかのように。
やがて四十分が過ぎる。
先生が全員の作文を集め始めた。
そして、教室を出る前に振り返る。
「来週、いくつかの作品を選んで、皆さんの前で読んでもらいます」
「上手いかどうかは気にしなくていいですよ」
「大切なのは――」
「正直な気持ちを書いたかどうかです」
そう言って、先生は教室を出ていった。
けれど――。
舞夜はしばらくの間、何かを考えるように席に座ったままだった。
放課後――。
一日の授業が終わると、舞夜が俺の机までやって来た。
腕には、クリーム色のノートと青いファイルを抱えている。
「南くん、少し時間ありますか?」
「うん」
「どうしたの?」
俺たちは、そのまま図書室へ向かった。
ここは――。
俺たちにとって、いつの間にかお気に入りの場所になっていた。
いつもの席に向かい、向かい合って座る。
舞夜は深く息を吸った。
「文学部から、課題を出されたんです」
「どんな課題?」
舞夜はファイルを開いた。
中には、何枚もの紙が入っている。
「部員以外の人に、自分の書いた原稿を読んでもらうんです」
「そして、その人が読んで何を感じたのかを教えてもらう」
そう言って――。
舞夜はゆっくりと顔を上げた。
「それで……」
「南くんにお願いしたいんです」
俺は、少しだけ驚いた。
でも――。
どこかで、そう言われる気がしていた。
俺は笑う。
「もちろん」
「喜んで読むよ」
舞夜は安心したように微笑んだ。
そして――。
両手で大切そうに原稿を差し出してくる。
俺はそれを受け取った。
一枚目に書かれていたタイトルが目に入る。
**『落ち葉が落ちなくなる時』**
その下には――。
綺麗な文字で、小さな献辞が書かれていた。
**『私の言葉を最後まで聞いてくれる人へ』**
俺は、その一文をしばらく見つめた。
そして――。
舞夜の顔を見る。
「この献辞って……」
舞夜はすぐに視線を逸らした。
頬が、少しずつ赤くなっていく。
「そ、それは……」
「南くんが、私の最初の読者だから……」
「べ、別に他の意味はありませんからね……」
俺は小さく笑った。
「じゃあ――」
「大切に読むよ」
舞夜は小さく息を吐いた。
「……はい」
けれど――。
赤くなった頬は、しばらく元に戻らなかった。
図書室は静かだった。
窓から差し込む午後の光が、机の上をゆっくりと照らしている。
俺は受け取った原稿を、もう一度眺めた。
「これ、今日読んでもいい?」
舞夜は小さく頷く。
「はい」
「急がなくて大丈夫です」
俺は最初のページを開いた。
文章を読み進めていく。
秋の風。
落ち葉。
昔の記憶。
そして――。
誰かとの何気ない会話。
派手な出来事は何もない。
それでも、不思議と続きを読みたくなった。
舞夜は向かい側で、黙って俺の様子を見ている。
時々、少しだけ不安そうに指を動かしていた。
俺はページをめくる。
また一枚
しばらくして――。
俺は、原稿を読む手を止めた。
気づけば、かなりの時間が経っていた。
舞夜は向かい側で、静かに待っている。
「どうですか?」
少しだけ不安そうな声だった。
俺は読んでいたページを閉じる。
「まだ途中だけど……」
「すごく好きだよ」
舞夜の目が少しだけ大きくなる。
「本当ですか?」
「うん」
「大きな出来事が起こるわけじゃないのに、続きが気になる」
「それに――」
俺は少し考えてから続けた。
「登場人物の気持ちが、ちゃんと伝わってくる」
舞夜は黙って聞いていた。
「だから、読んでいると自然にその人のことを考えたくなるんだ」
舞夜の表情が、少しずつ柔らかくなっていく。
「……ありがとうございます」
「でも、まだ最後まで読んでないから」
「全部読んでから、ちゃんと感想を伝えるよ」
舞夜は小さく頷いた。
「はい」
そして――。
少しだけ嬉しそうに笑った。
「南くんに読んでもらえて、よかったです」
その言葉を聞いて――。
俺も自然と笑った。
原稿をもう一度開く。
ページをめくる。
物語は、まだ終わっていない。
そして――。
俺もまだ、この物語の最後を知らない。
けれど、不思議と焦る気持ちはなかった。
一ページずつ。
舞夜が書いた言葉を、ちゃんと受け取りたい。
そう思った。
その時――。
図書室の入口から、誰かが入ってきた。
俺たちは同時に顔を上げる。
そこにいたのは――。
陽人先輩だった。
手には何冊かの本を抱えている。
「……あ」
舞夜が小さく声を漏らす。
陽人先輩は俺たちを見ると、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
けれど、すぐに穏やかに笑う。
「ここにいたんですね」
「はい」
舞夜が答える。
「文学部の課題で、南くんに原稿を読んでもらっています」
陽人先輩は、俺の手元にある原稿へ視線を向けた。
そして――。
タイトルを確認する。
『落ち葉が落ちなくなる時』
「なるほど」
それだけ言って、先輩は微笑んだ。
「それなら、安心しました」
「え?」
舞夜が首を傾げる。
「いえ」
陽人先輩は本を棚へ戻しながら続けた。
「八神さんの文章は、一人で書いている時よりも、誰かに読んでもらった時のほうが成長すると思います」
「だから――」
一瞬だけ、俺を見る。
「あなたが読者になってくれるなら、きっといい経験になります」
俺は少し照れながら頷いた。
「できるだけ、ちゃんと読みます」
「それで十分ですよ」
陽人先輩はそう言って、図書室を出ていった。
舞夜は、その背中を見送る。
そして――。
俺のほうを振り返った。
「……やっぱり、南くんにお願いしてよかったです」
「そう?」
「はい」
舞夜は小さく笑う。
「これからも、私の言葉を聞いていてくださいね」
俺は少しだけ考えてから答えた。
「もちろん」
その言葉を聞いた舞夜は――。
嬉しそうに微笑んだ。
俺は再び原稿を開く。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
一枚の葉が、ゆっくりと地面へ落ちていく。
その光景を眺めながら――。
俺は思った。
この物語の最後に、舞夜はどんな言葉を残すのだろう。
そして、その言葉を最初に受け取るのは――。
きっと、俺なのだ。
第八十話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が新しい物語を南くんに託しました。
一枚の原稿に込められた言葉が、これから二人の間にどんな変化をもたらすのでしょうか。
そして――。
「落ち葉が落ちなくなる時」という物語には、舞夜自身のどんな想いが込められているのか。
南くんが最後のページを読み終えた時、その答えが少しずつ見えてくるかもしれません。
それでは、次の話でお会いしましょう。




