新しい場所、新しい出会い
翌日――。
授業が、いつもより長く感じられた。
舞夜が少し落ち着かない様子だったからかもしれない。
あるいは――。
俺自身も、彼女が招待された場所がどんなところなのか気になっていたからかもしれない。
最後の授業中、舞夜は何度も壁に掛けられた時計を見ていた。
緊張しているというより――。
楽しみにしているように見えた。
そして、ようやく終業のチャイムが鳴る。
教室にはいつものように、鞄を閉じる音や、友達同士で交わす挨拶が広がった。
そんな中――。
松が俺の机までやって来る。
「今日も一緒に帰らないのか?」
「たぶん」
「今日は舞夜に付き合うんだ」
松は、わざとらしく肩を落とした。
「なるほど……」
「じゃあ、また一人で帰るか」
俺は松の肩を軽く叩く。
「大げさだな」
「大げさ?」
「俺は親友に置いていかれたんだぞ!」
「じゃあ、また明日」
「はいはい……」
「俺のことは心配するな」
松は芝居がかった仕草をしながら教室を出ていった。
その様子を見ていた何人かのクラスメートが、思わず笑っていた。
舞夜は、すでに教室の入口で俺を待っていた。
胸にはファイルを抱えている。
まるで、それが少しだけ自分を安心させてくれるかのように。
「行きましょうか?」
「うん」
俺たちは一緒に歩き始めた。
授業中とは違い、放課後の廊下はずっと静かだった。
いくつかの部活が、ちょうど活動を始めたところらしい。
近くの教室からは、楽器の音を合わせる音が聞こえてくる。
少し先からは、バレー部の掛け声も聞こえてきた。
どの教室にも、それぞれ違った世界があるようだった。
「放課後の学校を歩くのって、初めてかもしれない」
俺がそう言うと、舞夜が微笑んだ。
「私もです」
「……なんだか、いつもと違いますね」
しばらく歩くと、文化部が活動している建物へ到着した。
廊下の一番奥。
そこに、一枚の小さな札が掛かった木製の扉があった。
――文学部。
舞夜が足を止める。
深く息を吸った。
そして、扉を見る。
それから――。
俺のほうへ視線を向けた。
「……今になって、少し緊張してきました」
俺は笑った。
「それだけ、舞夜にとって大切なことなんだろ」
舞夜は小さく頷いた。
「はい」
「……とても」
俺が声をかけるより先に――。
扉が内側から開いた。
三年生くらいの男子生徒が、何冊もの本を抱えて出てくる。
黒い髪。
四角い眼鏡。
そして、落ち着いた雰囲気。
俺たちを見ると、彼は穏やかに微笑んだ。
「八神舞夜さんですか?」
舞夜は小さく頭を下げる。
「はい」
「初めまして」
男子生徒も軽く頭を下げた。
「清水陽人です」
「文学部の部長をしています」
「待っていました」
それから、彼は俺のほうへ視線を向けた。
「それで、彼は……?」
俺が答えるより先に、舞夜が口を開いた。
「南大樹くんです」
「同じクラスの友達です」
「ここまで付き添ってくれただけです」
陽人は俺に向かって、親しみのある笑顔を見せた。
「そうですか」
「付き添ってくれてありがとうございます」
「初日は少し緊張するものですから」
俺は頷いた。
「いえ、大したことじゃありません」
陽人は再び舞夜を見る。
「よかったら、入ってください」
「もう他の部員も来ています」
舞夜は小さく頷いた。
そして――。
扉へ一歩近づく。
けれど、入る直前に振り返った。
「南くん……」
「ん?」
「今日は、一緒に来てくれてありがとうございます」
「今はもう、大丈夫です」
「ちゃんと入れそうです」
俺は笑った。
「終わるまで、ここで待ってるよ」
舞夜は少し驚いたように目を開いた。
「……本当に?」
「もちろん」
「急いで帰る必要もないから」
舞夜の瞳に、柔らかな光が浮かんだ。
「それなら……」
「少しだけ、行ってきます」
そう言って――。
舞夜は文学部の部屋へ入っていった。
扉がゆっくりと閉まる。
俺はその場に残ったまま、閉じた扉をしばらく見つめていた。
俺は廊下にあるベンチへ腰を下ろした。
鞄から本を取り出して、時間を潰すことにする。
けれど――。
思ったより集中できなかった。
文学部の部屋の中から、かすかな声が聞こえてくる。
時々、笑い声も聞こえた。
ページをめくる音。
誰かが話している声。
どうやら、かなり穏やかな雰囲気らしい。
俺は本を閉じた。
「……大丈夫かな」
別に心配する必要はない。
舞夜はもう、自分の足でそこへ入っていった。
それなのに――。
なぜか気になってしまう。
そんなことを考えていると――。
およそ三十分ほど経った頃。
文学部の扉が開いた。
出てきたのは――。
舞夜ではなかった。
さっきの三年生。
清水陽人だった。
彼は小さな段ボール箱を抱えている。
俺に気づくと、穏やかに笑った。
「まだ待っていたんですね」
「はい」
俺が答えると、陽人は俺の膝の上にある本を見る。
「仲のいい友達なんですね」
俺は少し考えてから答えた。
「……はい」
「そうだと思います」
陽人は何かを感じ取ったようだった。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、小さく頷く。
「それなら、よかったです」
「八神さんには――」
「こういう人たちとの出会いが、必要だったんだと思います」
「……え?」
俺は思わず聞き返した。
しかし陽人は、それ以上何も説明しなかった。
「では、失礼します」
そう言って、箱を抱えたまま廊下の奥へ歩いていった。
俺はその背中を見送る。
「……どういう意味なんだ?」
陽人の言葉が、頭から離れなかった。
舞夜にとって――。
俺たちとの出会いは、そんなに特別なものだったのだろうか。
考えていると――。
再び、文学部の扉が開いた。
文学部の扉が開く。
今度こそ――。
舞夜だった。
青いノートを胸に抱えながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その表情を見た瞬間――。
俺は少し驚いた。
いつもの舞夜とは違う。
嬉しそうで。
どこか安心したような――。
そんな笑顔だった。
「終わった?」
俺が立ち上がると、舞夜は頷いた。
「はい」
「すごく楽しかったです」
「それはよかった」
舞夜は部屋のほうを振り返る。
「みんな、とても優しくて……」
「書いたものについても、いろいろ話を聞いてくれました」
「それに――」
少しだけ照れたように笑う。
「私が書いている物語にも、興味を持ってくれました」
俺も嬉しくなった。
「じゃあ、入ってよかったな」
「はい」
舞夜は強く頷いた。
そして――。
少しだけ俺のほうへ近づく。
「南くんが待っていてくれたから、安心して入れたんだと思います」
「俺は何もしてないよ」
「それでもです」
舞夜は穏やかに笑った。
「一人じゃないって思えるだけで、全然違いました」
その言葉を聞いて――。
さっきの陽人の言葉を思い出した。
『こういう人たちとの出会いが、必要だったんだと思います』
俺は舞夜を見る。
彼女はもう一度、文学部の扉を振り返った。
「明日から、ここに来てもいいそうです」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、文学部に入るってこと?」
舞夜は少し考えてから――。
嬉しそうに頷いた。
「……はい」
「やってみたいです」
その笑顔を見て――。
俺も自然と笑っていた。
文学部を出ると――。
外は、すっかり夕暮れになっていた。
校舎の窓にはオレンジ色の光が差し込んでいる。
俺と舞夜は、並んで廊下を歩き始めた。
「今日は、どうだった?」
俺が尋ねると、舞夜は少し考える。
「……楽しかったです」
「最初は緊張していましたけど」
「みんなが、すごく優しくしてくれました」
舞夜は胸に抱えた青いノートを見る。
「ここなら、もっとたくさんのことを学べそうです」
「それなら、よかった」
俺が笑うと――。
舞夜も笑った。
その表情は、さっき文学部から出てきた時と同じだった。
期待に満ちた笑顔。
俺はふと、思った。
今日から、舞夜の日常に新しい場所が増えた。
新しい人たちとの出会いも増える。
そして――。
書き手としても、少しずつ変わっていくのだろう。
「南くん」
「ん?」
「明日からも……」
舞夜は少しだけ恥ずかしそうに続ける。
「もし時間があったら、また一緒に来てくれますか?」
俺は笑った。
「もちろん」
「じゃあ、明日も待ってるよ」
舞夜は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
俺たちは、そのまま並んで校舎を出た。
夕暮れの空を見上げる。
今日という一日が終わっていく。
けれど――。
舞夜にとっては、新しい一日が始まったばかりなのかもしれない。
文学部という新しい場所。
新しい仲間。
そして――。
これから書き続けていく物語。
俺は、その最初の読者として。
これからも彼女の隣にいたいと思った。
あとがき
第七十八話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が文学部という新しい場所へ踏み出しました。
新しい仲間との出会い。
そして、南くんの変わらない支え。
これから舞夜の物語が、どのように変わっていくのか――。
次の話も、ぜひ楽しみにしていてください。
それでは、次の話でお会いしましょう。




