新しい一歩
昼休みの残り時間は、いつも通りに過ぎていった。
舞夜は自分の席に戻り、唯と愛莉と一緒に昼食を食べ終えた。
俺は松と一緒に中庭へ向かった。
いつものベンチに座った直後――。
松が弁当箱の上に箸を置き、俺をじっと見つめてきた。
「一つ聞きたいんだけど」
「何?」
「南って、八神と付き合ってるのか?」
危うく、持っていたお茶のボトルを落としかけた。
「えっ!?」
松は数秒間、真剣な顔をしていた。
そして――。
突然、大笑いし始めた。
「その顔!」
「そういうこと言うなよ!」
「じゃあ、答えは違うんだな」
俺はため息をつく。
「当たり前だろ」
「ふーん……」
松は腕を組む。
「でも、そんなに当たり前には見えないけどな」
俺は眉をひそめた。
「なんでみんな同じこと言うんだよ」
松は机に肘をつきながら笑った。
「だって、お前、変わったから」
「俺が?」
「そう」
「前はチャイムが鳴ったら、誰より先に教室を出てただろ」
「今は、いつも誰かを待ってる」
「前は一人で図書室に行ってた」
「今は、ほとんどいつも八神が一緒だ」
「それに――」
松は少し考えるようにしてから続けた。
「前はゲームの話ばっかりしてたのに、最近は小説の話が増えた」
俺は何も言えなくなった。
そんなこと――。
今まで考えたこともなかった。
「別に、悪いことだとは言ってない」
松は少しだけ笑った。
「たださ……」
「お前が誰かのことを知りたいって、こんなに興味を持ってるのを見るのは久しぶりだなって」
俺は弁当へ視線を落とした。
もしかしたら――。
松の言う通りなのかもしれない。
でも……。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
午後の授業は、すぐに始まった。
最後の授業が終わると――。
先生は教室を出る前に、舞夜へ声をかけた。
「八神さん」
舞夜が顔を上げる。
「はい?」
「文学部の顧問の先生が、あなたと話したいそうです」
舞夜は少し驚いたように目を開いた。
「私と……ですか?」
「そうです」
「コンクールの申込書を見たそうですよ」
舞夜は小さく頭を下げた。
「分かりました」
授業道具をゆっくりと鞄へしまう。
そして教室を出る前に――。
俺の机までやって来た。
「南くん」
「ん?」
「少し待っていてもらってもいいですか?」
「たぶん、そんなに時間はかからないと思います」
俺は頷いた。
「もちろん」
「大丈夫だよ」
舞夜は安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
そう言って――。
舞夜は教室を出ていった。
時間は、ゆっくりと過ぎていった。
松はすでに帰っている。
教室には、黒板を掃除している何人かの生徒しか残っていなかった。
俺は窓際まで歩いていく。
外を見ると――。
太陽が、校舎の向こう側へゆっくりと沈み始めていた。
夕暮れの光が、校庭を暖かなオレンジ色に染めている。
「まだいたんだ?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると――。
愛莉が立っていた。
「舞夜を待ってるんだ」
俺が答えると、愛莉はまるで予想していたかのように笑った。
「やっぱりね」
愛莉は俺の隣まで歩いてきて、窓枠に寄りかかる。
「ねえ、知ってる?」
「何?」
愛莉は校庭を眺めながら話し始めた。
「数か月前まで――」
「舞夜って、ほとんど誰とも話さなかったんだよ」
俺は少し驚いた。
「人と仲良くなるのが、すごく苦手だったの」
「いつも本を読んでるか、何かを書いてるかで……」
「でも、南くんと一緒に過ごすようになってから――」
愛莉は小さく笑った。
「変わったよ」
「前よりずっと笑うようになったし」
「話すことも増えた」
「唯も同じこと言ってたよ」
俺は何も言わずに聞いていた。
「俺は……別に何もしてないけど」
そう答えると、愛莉はゆっくり首を横に振った。
「それが、一番すごいんだよ」
「南くんは、舞夜を変えようとしなかった」
「ただ、ずっと隣にいただけ」
愛莉は少しだけ笑う。
「時には――」
「それだけで十分なんだよ」
その時――。
教室のドアが、もう一度開いた。
舞夜が入ってきた。
両手でファイルを胸に抱えている。
少し緊張しているように見えた。
「……お待たせしました」
「大丈夫」
「そんなに待ってないよ」
俺が笑うと、舞夜はほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
舞夜は俺の隣まで歩いてくる。
「文学部の先生と話してきました」
「どうだった?」
舞夜は少しだけ間を置いてから答えた。
「文学部に入らないかって誘われました」
「本当に?」
俺は思わず声を上げた。
舞夜は頷く。
「去年、私が提出した文章も読んでくださったみたいです」
「それで――」
「もっと書き手として成長できると思うから、一度クラブの活動を見に来てほしいと言われました」
舞夜はファイルを抱え直した。
「明日の放課後に、他の部員の人たちにも会うことになりました」
俺は笑った。
「それなら、すごくいい機会じゃないか」
けれど――。
舞夜はすぐには答えなかった。
数秒間、視線を落とす。
そして――。
少しだけ恥ずかしそうに、俺を見る。
「……それで、一つお願いがあるんです」
「何?」
舞夜は小さく息を吸った。
「明日……」
「文学部のところまで、一緒に来てもらえませんか?」
「中に入らなくてもいいんです」
「ただ……」
少しだけ声が小さくなる。
「南くんが一緒にいてくれたら、少し安心できると思って」
俺は、すぐに笑った。
「もちろん」
「一緒に行くよ」
その瞬間――。
舞夜の表情から、緊張がすっと消えた。
「……ありがとうございます」
「本当に、嬉しいです」
俺たちは並んで教室を出た。
まだ知らなかった。
この時――。
二階の廊下から、誰かが俺たちを見ていたことを。
俺たちが教室を出ていった後――。
二階の廊下に、一人の生徒が立っていた。
その生徒は、しばらく俺たちの後ろ姿を見つめていた。
舞夜が俺と並んで歩いている。
その表情には、先ほどまでの緊張が残っていない。
むしろ――。
少し安心したように見える。
生徒は何も言わなかった。
ただ、静かに二人の姿を目で追っている。
やがて――。
俺たちが階段を下り、姿が見えなくなる。
その瞬間。
生徒は小さく息を吐いた。
そして――。
何事もなかったかのように、その場を離れていった。
一方、そんなことを知らない俺たちは――。
いつものように並んで歩いていた。
「明日、ちょっと緊張するな」
舞夜が小さく呟く。
「大丈夫だよ」
俺は笑った。
「見学するだけなんだろ?」
「はい……」
舞夜も少し笑う。
「それでも、初めての場所って緊張しますから」
「じゃあ、明日は入口まで一緒に行くよ」
「それだけでも十分安心できると思う」
舞夜は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます、南くん」
その声は――。
いつもより少しだけ明るかった。
帰り道――。
俺は、今日の出来事を思い返していた。
松に言われたこと。
愛莉に聞かされた舞夜の過去。
そして――。
明日から始まる、文学部での新しい一歩。
気づけば、舞夜と過ごす時間は少しずつ増えている。
最初は、ただ同じクラスの女の子だった。
それが――。
一緒に図書室へ行って。
彼女の物語を読んで。
夢について話して。
今では、何かあれば頼ってもらえるようになった。
不思議な気分だった。
「……俺も、変わったのかな」
小さく呟く。
松が言っていたことを思い出す。
誰かに興味を持つようになった。
確かに――。
最近は、舞夜のことを考える時間が増えた。
でも、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ――。
彼女が自分の夢に向かって進んでいく姿を、これからも見ていたい。
そう思った。
夕暮れの空を見上げる。
明日は、舞夜にとって新しい一日になる。
そして――。
もしかすると、俺にとっても。
そんなことを考えながら――。
俺は静かに家へ向かって歩き始めた。
あとがき
第七十七話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が文学部へ誘われることになりました。
そして南くんも、少しずつ自分の気持ちの変化に気づき始めています。
明日、舞夜にとって新しい一歩が始まります。
そして――。
二人を見つめていた、あの生徒は一体誰なのでしょうか。
次の話も、ぜひ楽しみにしていてください。
それでは、次の話でお会いしましょう。




