一番の読者
朝の最初の授業は、穏やかに進んでいた。
先生が文学の授業をしている間、何人かのクラスメートはノートを取り続けている。
いつものように――。
松は先生の話を聞くか、そのまま眠ってしまうかで迷っているようだった。
結局――。
そのどちらもしなかった。
授業中ずっと、ノートの端に小さな絵を描いていた。
「それ、あまり勉強になってないんじゃないか?」
俺が小声で言う。
松は慌ててノートを隠した。
「見るなよ!」
「何を描いてるんだ?」
「大したものじゃない」
数秒黙ってから――。
「ただの漫画だよ」
「授業中に?」
「インスピレーションは、いつやって来るか分からないからな」
俺は苦笑した。
やっぱり――。
こいつを変えるのは無理そうだ。
休み時間になると――。
愛莉が、いつものように元気いっぱいの様子で教室へ入ってきた。
「舞夜!」
教室の入口から、舞夜を呼ぶ。
舞夜は読んでいた本から顔を上げた。
「はい?」
愛莉は笑顔で舞夜のところまで歩いてくる。
そして――。
ちらりと俺のほうを見る。
それから、もう一度舞夜を見る。
「今朝の散歩、どうだった?」
舞夜は首を傾げた。
「散歩?」
「そう」
「橋を渡って、一緒に歩いて、それから二人で学校に来たこと」
俺は二階の窓際にいた。
二人が一緒に歩いているところを見ていたのだろう。
舞夜が少しだけ目を見開く。
「あ……」
「それですか」
愛莉は腕を組みながら、いたずらっぽく笑った。
「最近、二人が一緒になること増えたよね」
「もしかして、どっちかがわざと少し早く家を出てたりして?」
舞夜は慌てて首を横に振った。
「ち、違います!」
「本当に偶然です」
「そうですかぁ……」
愛莉はわざとらしく語尾を伸ばす。
そこへ、ちょうど唯がやって来た。
「今度は何の話?」
「大したことじゃないよ」
愛莉が答える。
「ただ、この二人って最近どんどんカップルみたいになってきたなって」
舞夜はすぐに俯いた。
頬がほんのり赤くなる。
「愛莉……」
「そんな大きな声で言わないでください」
「どうして?」
「もし二人が付き合い始めたら、私が最初に気づいたって言えるじゃん」
唯が小さく笑った。
「それ、ちょっと遅いんじゃない?」
愛莉が瞬きをする。
「え?」
「私はもっと前から気づいてたよ」
二人は顔を見合わせる。
そして――。
楽しそうに笑い始めた。
舞夜は本で顔を隠してしまった。
俺は自分の席から、その様子を眺める。
そして――。
あの会話より、目の前の数学の問題に集中することにした。
どう考えても、こっちのほうが簡単だった。
休み時間が終わる頃――。
先生が教室に戻ってきた。
「文学コンクールへの参加を希望する人は、金曜日までに申込書を提出してください」
そう告げると、先生は教卓へ戻った。
舞夜は、その言葉を聞いて顔を上げた。
そして――。
数秒間、何かを考えるように黙っていた。
やがてチャイムが鳴り、昼休みが始まる。
その直後――。
舞夜が俺の机のところまでやって来た。
「南くん」
「ん?」
舞夜は両手で一枚の申込書を持っている。
「……参加することにしました」
俺は思わず笑顔になった。
「本当に?」
舞夜は小さく頷く。
「はい」
「この前、南くんが言ってくれた言葉が……」
「私に足りなかった勇気をくれました」
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「そっか」
「それなら……よかった」
舞夜は微笑んだ。
けれど――。
すぐに少し真剣な表情になる。
「それで……」
「もう一つ、お願いしたいことがあります」
「何?」
舞夜は一度、深く息を吸った。
「これから書き上げるたびに……」
「各章を読んで、直すところを一緒に考えてもらえませんか?」
「ただ面白かったかどうかだけじゃなくて――」
「分かりにくいところや、退屈に感じるところがあったら、ちゃんと教えてほしいんです」
俺は数秒間、言葉を失った。
それは――。
思っていたよりも大きな責任だった。
でも同時に――。
舞夜が俺を信頼してくれている証でもある。
俺は笑った。
「分かった」
「俺でよければ、手伝うよ」
「専門家じゃないけど」
舞夜は静かに首を横に振った。
「専門家じゃなくていいんです」
「私が必要としているのは――」
「正直な読者です」
そして――。
少しだけ照れながら、舞夜は微笑んだ。
「それに……」
「もう、最高の読者を見つけたと思っています」
俺は――。
何も言えなくなった。
こんなことを言われたら、返す言葉なんて思いつかない。
舞夜は俺の表情を見て、小さく笑った。
「ふふっ」
「今回は、私のほうが南くんを言葉に詰まらせちゃいましたね」
俺も思わず笑った。
「そうだな……」
「今回は、舞夜の勝ちだ」
二人で顔を見合わせて――。
自然と笑った。
その日の午後――。
授業中、俺は何度か舞夜のほうを見ていた。
彼女は真剣な表情でノートを書いている。
いつもと同じように見える。
でも――。
今日は少しだけ違った。
机の上には、文学コンクールの申込書。
そして、その隣には青いノート。
時々、舞夜は何かを考えるようにペンを止める。
それから、また文章を書き始める。
俺はそんな様子を見ながら思った。
本当に、参加するんだな。
少し前まで、自分の文章に自信を持てずにいたのに。
今は――。
自分から一歩を踏み出している。
やがて放課後のチャイムが鳴った。
生徒たちが次々と帰り支度を始める。
俺も鞄をまとめていると――。
舞夜がこちらへやって来た。
「南くん」
「ん?」
「今日は、少しだけ書いて帰ろうと思います」
「図書室?」
「はい」
舞夜は青いノートを抱えている。
「よかったら……」
そこで少しだけ言葉を止める。
「一緒に来ませんか?」
俺は笑った。
「もちろん」
舞夜も嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは並んで教室を出る。
その後ろ姿を――。
誰かがじっと見ていた。
けれど、俺たちはまだ気づいていなかった。
二人が教室を出ていった後――。
松は、しばらくその方向を眺めていた。
そして、腕を組む。
「……なるほど」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
「これは、かなり進んでるな」
その顔は、なぜか妙に真剣だった。
けれど――。
すぐに、いつものような笑みを浮かべる。
「まあ……」
「本人たちが気づいてないなら、まだ黙っておくか」
そう言って、松は自分の鞄を肩に掛けた。
一方――。
俺と舞夜は、図書室へ向かう廊下を歩いていた。
「そういえば――」
俺は舞夜を見る。
「次の章って、もう書き始めてるの?」
舞夜は青いノートを胸に抱えながら頷いた。
「少しだけです」
「でも、まだ全然まとまっていなくて……」
「だったら、焦らなくてもいいんじゃない?」
俺が言うと、舞夜は少し考える。
「……そうですね」
「前は、早く完成させなきゃって思っていました」
「でも今は――」
舞夜は穏やかに笑った。
「ちゃんと、自分が納得できるものを書きたいと思っています」
「それが一番だと思う」
俺も笑った。
そして――。
二人で図書室へ向かって歩き続けた。
その距離は、以前よりも自然に近くなっていた。
図書室へ向かう途中――。
俺は、ふと舞夜の青いノートに目を向けた。
「そういえば、今度の話はどんな内容になるんだ?」
舞夜は少しだけ考えるように、ノートを胸元へ抱き直した。
「まだ秘密です」
「秘密?」
「はい」
舞夜は楽しそうに笑う。
「最初に読んでもらう人には、完成するまで何も教えないほうが面白いと思いませんか?」
「確かに」
俺も笑った。
「じゃあ、楽しみにしてるよ」
「期待しすぎないでくださいね」
「それは無理かも」
「どうして?」
「もう一度、あの物語の続きを読みたいから」
舞夜は一瞬だけ目を見開いた。
そして――。
少し照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
俺たちは、そのまま図書室へ入っていった。
窓から差し込む夕方の光が、静かな机を照らしている。
舞夜はいつもの席に座り、青いノートを開いた。
俺は少し離れた席で、自分の本を取り出す。
会話をする必要はなかった。
彼女は物語を書く。
俺はそれを読む。
それだけで――。
なぜか心地よかった。
そして、ふと思う。
これから舞夜が書いていく物語の中には――。
きっと、今まで知らなかった彼女の一面が、少しずつ現れていく。
そのすべてを知る必要があるのかは、まだ分からない。
でも――。
彼女が書き続ける限り。
俺は、その最初の読者でいたいと思った。
まだ始まったばかりの物語。
そのページが一枚ずつ増えていくことを――。
俺は静かに楽しみにしていた。
あとがき
第七十六話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が正式に文学コンクールへ参加することを決めました。
そして南くんは、彼女の物語を支える「最初の読者」になりました。
二人の距離も、少しずつ近づいています。
これから舞夜がどんな物語を書いていくのか――。
次の話も、ぜひ楽しみにしていてください。
それでは、次の話でお会いしましょう。




