一枚の紙
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
舞夜は、蓮から受け取った本を大切そうに鞄の中へしまう。
その顔には――。
まだ穏やかな笑顔が浮かんでいた。
普段はあまり見せないような、静かな笑顔だった。
「……嬉しかったみたいだな」
俺がそう言うと、舞夜は小さく頷いた。
「はい」
「とても嬉しかったです」
少しだけ視線を落とす。
「手書きの手紙をもらったのは、久しぶりだったので……」
「やっぱり、書かれた言葉って特別なものがあると思います」
「ずっと心に残ることもありますから」
俺は微笑んだ。
「だから、作家になりたいのかもな」
舞夜は小さく笑う。
「そうかもしれません」
「それとも――」
少しだけ考えてから、続けた。
「自分が書いたものを読んで、誰かが笑ってくれたら嬉しいから……かもしれません」
俺は何も答えなかった。
答える必要もなかった。
彼女が書いた物語の始まりを読んだ今なら――。
その言葉が本気だということは、十分に分かっていた。
午後の授業も――。
特に大きな出来事はなく、いつも通りに終わった。
最後のチャイムが廊下に響くと、松が教室から飛び出していく。
「急がないと、妹に最後のコロッケを取られる!」
「お前、本当に食べ物のことばっかり考えてるな」
「才能だよ」
俺は笑いながら松と別れた。
そのまま昇降口へ向かって歩いていると――。
ふと、昼休みのことを思い出した。
「……そういえば」
俺は立ち止まる。
昼休みに使った中庭のベンチに、ノートを置き忘れていた。
「俺、何やってるんだ……」
小さく呟きながら、来た道を戻る。
中庭には、もうほとんど人がいなかった。
風が吹くたびに、乾いた葉が小道の上で舞っている。
そして――。
舞夜と一緒に荷物を開けた、あのベンチの近くまで来た時だった。
何か白いものが目に入った。
ベンチの下。
そこに、一枚の紙が折り畳まれて落ちていた。
俺はしゃがみ込む。
「……なんだ、これ?」
慎重に拾い上げる。
その紙には、見覚えがあった。
蓮から届いた手紙と、同じ種類の紙だった。
「もしかして……」
あの荷物から落ちたものだろうか。
俺は周囲を見回した。
誰もいない。
その紙を見つめながら、少しだけ迷った。
――勝手に読むのは、さすがにまずい。
そう思った俺は、紙を開かなかった。
「明日、舞夜に返せばいいか」
そう呟いて――。
紙が折れ曲がらないように、自分のノートの間へそっと挟んだ。
その頃――。
舞夜は、自分の部屋に戻っていた。
鞄をベッドの上に置く。
そして――。
蓮から送られてきた本を取り出した。
表紙を眺めながら、舞夜は小さく笑う。
もう一度、最初のページを開く。
そこには、蓮が書いてくれた手紙が挟まっている。
舞夜は、ゆっくりと読み返した。
けれど――。
数行読んだところで、ふと眉を寄せる。
「……あれ?」
何かがおかしい。
舞夜は本を閉じた。
そして、封筒を確認する。
中身は――。
入っていない。
次に、本のページを一枚ずつ確認する。
けれど――。
どこにも見当たらない。
舞夜は鞄の中を探し始めた。
ノート。
筆箱。
教科書。
小物入れ。
それから――。
鞄の底まで確認する。
「……ない」
小さく呟いた。
舞夜の表情が、少しずつ変わっていく。
さっきまでの穏やかな笑顔が消えていた。
「手紙が……」
もう一度、机の上を確認する。
何もない。
ベッドの周りも探す。
それでも――。
見つからなかった。
舞夜はしばらくその場に立ったまま、動かなかった。
「……どこにいったんだろう」
不安そうに呟く。
けれど――。
まだ、気づいていなかった。
その一枚の紙が――。
すでに、彼女のすぐ近くではなく。
別の誰かの手元にあることを。
その頃――。
俺も、すでに家に帰っていた。
宿題を終えた後、自分の机に向かう。
ノートを開いて、授業のノートを整理していると――。
ふと、昼休みに拾った紙のことを思い出した。
俺はノートを開く。
二つのページの間に――。
あの折り畳まれた紙が挟まっていた。
俺はしばらく、それを見つめた。
やっぱり――。
舞夜のものだろう。
紙の種類も、蓮から届いた手紙と同じだった。
でも、勝手に読むわけにはいかない。
誰かに宛てられたものなら――。
なおさらだ。
俺は紙を開かず、そのまま元の場所へ戻した。
「明日、返せばいい」
そう呟く。
それだけのことだった。
ただ、少しだけ気になった。
一体、何が書かれているのだろう。
けれど――。
それ以上考えるのはやめた。
俺には読む理由がない。
明日、舞夜に渡せば、それで終わる。
そう思っていた。
この時までは――。
その一枚の紙が、ただの落とし物ではないなんて。
俺はまだ、知らなかった。
一方――。
舞夜は、まだ自分の部屋で手紙を探していた。
机の引き出しを開ける。
本棚を確認する。
鞄の中身を、もう一度すべて取り出す。
それでも――。
見つからない。
舞夜はベッドの端に腰を下ろした。
「……どうして」
小さく呟く。
あの手紙は、ただの手紙ではなかった。
蓮が自分のために書いてくれたもの。
そして――。
今の自分にとって、とても大切な言葉が書かれている。
だからこそ、なくしたことが気になって仕方がなかった。
「学校で落としたのかな……」
舞夜は今日の行動を思い返す。
教室。
廊下。
中庭。
そして――。
昼休みに南くんと座ったベンチ。
「……あそこかもしれない」
そう思った瞬間――。
舞夜は立ち上がった。
けれど、時計を見る。
もう夜だ。
今から学校へ戻ることはできない。
「明日……」
明日、もう一度探してみよう。
そう決めるしかなかった。
舞夜はベッドの上に置いた本を手に取る。
そして、表紙をそっと撫でた。
「……見つかりますように」
小さく呟く。
その頃――。
同じ町の別の場所で。
俺は机の上に置いたノートを閉じていた。
その中には――。
まだ誰にも読まれていない、一枚の紙が眠っていた。
翌朝――。
いつも通りの時間に目を覚ました。
朝食を済ませ、学校へ向かう。
けれど――。
俺の頭の片隅には、昨日拾った一枚の紙が残っていた。
ノートを開けば、そこにある。
今日、舞夜に返そう。
それだけのことなのに――。
なぜか少し気になっていた。
学校に着くと、教室にはすでに何人かの生徒が来ていた。
舞夜の席を見る。
まだ、来ていない。
俺は自分の席に座り、鞄からノートを取り出した。
その時――。
教室のドアが開いた。
「おはようございます」
舞夜だった。
俺と目が合う。
「おはよう」
いつものように挨拶を交わす。
けれど――。
舞夜の表情には、少しだけ疲れが見えた。
「どうした?」
俺が尋ねると、舞夜は一瞬迷ってから答えた。
「……昨日、少し探し物をしていて」
「探し物?」
「はい」
「大切な手紙を一枚、なくしてしまったんです」
俺は思わずノートへ視線を落とした。
その中には――。
昨日拾った、あの紙が入っている。
「……そうなんだ」
舞夜は小さく頷いた。
「でも、きっと見つかると思います」
そう言って微笑んだ。
俺はノートに手を伸ばす。
今すぐ渡してしまえばいい。
そう思った。
けれど――。
その瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。
俺は手を止める。
「あとで返そう」
そう思って、ノートを机の中へしまった。
まだ――。
この一枚の紙が、どれほど大切なものなのか。
俺は知らなかった。
そして――。
舞夜もまた、その紙が俺の手元にあることを知らない。
二人の間にある距離は、ほんの数メートル。
それなのに――。
たった一枚の紙が、二人の知らない過去を静かにつないでいた。
あとがき
第七十四話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が大切な手紙をなくしてしまいました。
そして、その手紙は――。
まだ誰にも読まれないまま、大樹の手元にあります。
たった一枚の紙が、二人の知らない過去をつなぎ始めました。
次の話で、その手紙の中身が明らかになるのか――。
ぜひ続きをお楽しみに。
それでは、次の話でお会いしましょう。




