遠くから届いた言葉
愛莉は、駅まで俺たちと一緒に歩いてくれた。
いつものように――。
一番よく話していたのは、やっぱり愛莉だった。
「知ってる?」
「唯って、歴史の授業中に寝そうになってたんだよ」
「愛莉!」
舞夜が笑いながら抗議する。
「寝てないよ」
「ただ……」
「目を閉じてたけど」
「そう、それ!」
その三人のやり取りに――。
俺たちは結局、みんなで笑ってしまった。
愛莉が近くにいると、退屈することなんてない。
駅に着くと、愛莉が手を上げて別れを告げる。
「じゃあ、私はこっちだから」
「また明日」
俺たちは、ほとんど同時に答えた。
愛莉は数メートル歩いたところで、もう一度振り返る。
「舞夜!」
「ん?」
「ちゃんと書き続けてね」
「舞夜が有名な作家になったら、その小説を読ませてよ」
舞夜は少し恥ずかしそうに笑った。
「まだまだ先の話ですよ」
「そんなの関係ないよ」
「私は待てるから」
そう言って、愛莉はもう一度手を振る。
そして、人混みの中へ消えていった。
愛莉と別れた後――。
俺と舞夜は、そのまま二人で歩き続けた。
駅の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
「愛莉って、いつも場の雰囲気を明るくしてくれるよな」
俺が言うと、舞夜も頷いた。
「はい」
「すごく素直な人ですよね」
「自分の気持ちを隠さないというか」
「確かに」
しばらくの間、二人とも黙って歩いた。
そして――。
舞夜が、ぽつりと口を開いた。
「……時々、少し羨ましくなるんです」
俺は驚いて舞夜を見る。
「本当に?」
「はい」
「私も、愛莉みたいに自分の気持ちを簡単に伝えられたらいいのにって思います」
舞夜は前を向いたまま続ける。
「私はいつも、考えすぎてしまうんです」
「間違ったことを言ったらどうしようとか……」
「誰かを傷つけてしまったらどうしようとか……」
「それに――」
舞夜は少しだけ言葉を止める。
「自分の気持ちを表す言葉が見つからなかったらって」
俺はそんな舞夜を見て、静かに笑った。
「じゃあ――」
「もう、ちゃんと方法を見つけてるじゃん」
舞夜が少しだけ首を傾げる。
「……どうしてですか?」
「だって、舞夜は書いてるだろ」
「文章なら、自分が感じたことを整理してから伝えられる」
舞夜は何も言わなかった。
数秒後――。
小さな笑い声が聞こえた。
「……そんなふうに考えたこと、ありませんでした」
夕暮れの道を歩きながら――。
舞夜は青いノートを、そっと胸元へ抱き直した。
翌朝――。
いつもと変わらない朝が始まった。
松は相変わらず、ギリギリの時間に教室へ駆け込んでくる。
先生たちは、いつも通り宿題を出してくる。
そして――。
食堂では、今日もいつものパンが並んでいた。
何も変わらない。
そんな一日だった。
休み時間になると――。
先生が小さな荷物を手に、教室へ入ってきた。
「八神さん」
舞夜が顔を上げる。
「はい?」
「あなた宛てに、これが届いています」
先生が差し出した。
「私に?」
舞夜は少し驚いたように目を瞬かせる。
先生は頷いた。
「清竜学園から送られてきたものですよ」
その瞬間――。
教室が静かになった。
松が俺のほうへ身を寄せる。
「交換留学生の誰かからかな?」
「かもしれないな」
舞夜が受け取った荷物は、それほど大きくなかった。
茶色の包装紙で丁寧に包まれている。
そして、その隅には――。
清竜学園の印が押されていた。
舞夜は荷物を数秒見つめた。
けれど――。
みんなの前で開けるつもりはないらしい。
先生が微笑む。
「休み時間に開けてもいいですよ」
「はい」
「ありがとうございます」
舞夜は小さく頭を下げた。
そして、その荷物を鞄の中へしまった。
しかし――。
その後の授業中。
舞夜は一度も、その荷物から目を離さなかった。
昼休みのチャイムが鳴ると――。
舞夜が俺の机のところまでやって来た。
「南くん」
「ん?」
「少し、来てもらえますか?」
俺は頷いた。
「分かった」
俺たちは教室を出て、校庭にあるベンチへ向かった。
舞夜はベンチに座ると、鞄から先ほどの荷物を取り出した。
膝の上にそっと置く。
そして――。
一度、深く息を吸った。
ゆっくりと包装紙を破る。
中から出てきたのは――。
一冊のハードカバーの本だった。
短編小説を集めた作品集らしい。
舞夜は表紙をしばらく眺めた。
そして、ゆっくりと最初のページを開く。
そこには――。
手書きのメッセージが添えられていた。
舞夜は黙って読み始める。
ページを追うにつれて――。
その表情が少しずつ変わっていった。
最初は驚き。
その次に――。
どこか懐かしそうな表情。
そして最後には――。
穏やかな笑顔になった。
「……蓮から?」
俺が尋ねる。
舞夜は顔を上げた。
そして、小さく頷く。
「はい」
「この本が、蓮が書き始めたいと思ったきっかけになった本なんですって」
「私にも読んでほしいって」
舞夜はもう一度、メッセージへ視線を落とす。
「それと……」
少しだけ間を置いてから、続けた。
「自分の言葉を信じることを、絶対にやめないでほしいって」
その言葉を聞いて――。
俺の胸にも、温かいものが広がった。
いかにも、蓮らしいメッセージだった。
舞夜は本の表紙を、そっと撫でる。
「遠くにいても……」
「やっぱり、誰かを応援してるんですね」
俺は笑った。
「それ、すごく蓮らしいな」
舞夜も小さく笑う。
「……はい」
「本当に、蓮らしいです」
けれど――。
俺たちは、まだ気づいていなかった。
舞夜がメッセージを本のページの間に戻した時――。
小さく折り畳まれた一枚の紙が、足元へ落ちたことに。
風に押されて、その紙はベンチの下へと滑り込んでいった。
そして――。
俺たちは、その存在に気づかなかった。
その日の午後――。
授業が終わる頃には、舞夜の表情もいつもの穏やかなものに戻っていた。
けれど――。
俺には、朝から何度も本のことを考えているように見えた。
放課後。
教室を出る前に、舞夜が鞄の中からあの本を取り出した。
「これ……」
「今日から少しずつ読んでみようと思います」
「蓮さんが大切にしていた本なんだろうな」
俺が言うと、舞夜は小さく頷いた。
「はい」
「だから、ちゃんと読んでみたいんです」
舞夜は本を胸に抱える。
「それに――」
少しだけ笑って続けた。
「私も、自分の言葉をもっと信じられるようになりたいです」
その言葉を聞いて――。
俺は昨日の会話を思い出した。
舞夜が話してくれた夢。
誰かの心に残る物語を書きたいという願い。
そして今――。
遠くにいる蓮から届いた言葉。
それらが、一本の線で繋がっているような気がした。
「きっと大丈夫だよ」
俺が言うと、舞夜がこちらを見る。
「どうして?」
「だって――」
俺は少し考えてから答えた。
「もう、ちゃんと自分の言葉で書き始めてるから」
舞夜は一瞬、驚いたような顔をした。
そして――。
静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見ながら――。
俺も少しだけ嬉しくなった。
けれど、その時の俺はまだ知らなかった。
ベンチの下に残された一枚の紙が――。
この先、俺たちの知らないところで動き始めることを。
その日の帰り道――。
俺は、朝に届いた荷物のことを考えていた。
蓮が舞夜に送った本。
そこに書かれていた言葉。
『自分の言葉を信じることを、絶対にやめないでほしい』
短い文章だった。
それなのに――。
なぜか、ずっと心に残っている。
舞夜にとっても、きっと同じなのだろう。
彼女は今日、何度もその本を眺めていた。
そして――。
自分の夢について話してくれた時と同じような表情をしていた。
迷っている。
でも、前へ進もうとしている。
そんな顔だった。
俺は空を見上げる。
夕方の雲が、ゆっくりと流れている。
「……俺も、何か見つけないとな」
小さく呟いた。
舞夜は作家になるという夢を見つけている。
だったら俺も――。
いつか、自分が本当にやりたいと思えるものを見つけたい。
そんなことを考えながら歩いていると――。
突然、風が強く吹いた。
学校の中庭にあるベンチの下で――。
一枚の小さな紙が、風に押されてゆっくりと外へ転がっていく。
誰にも気づかれないまま――。
紙は地面を滑り、校舎の壁際まで移動した。
そして、その紙に書かれていた文字が――。
一瞬だけ夕日の光に照らされた。
けれど――。
まだ、誰にも読まれることはなかった。
俺たちは何も知らない。
舞夜も知らない。
そして――。
遠くにいる蓮でさえ、この先何が起こるのか知らない。
ただ一つ確かなことがある。
その小さな紙は――。
これから始まる出来事へ繋がる、最初の一歩になろうとしていた。
第七十三話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、遠くにいる蓮から舞夜へ、一冊の本と言葉が届きました。
そして――。
誰にも気づかれなかった一枚の紙が残されました。
あの紙には、一体何が書かれているのでしょうか。
次の話では、少しずつその秘密に近づいていきます。
それでは、次の話でお会いしましょう。




