夢を語るということ
図書室を出る頃には――。
空はすでに、夕暮れの色に染まっていた。
雲はオレンジ色や金色に輝いている。
なぜだろう。
帰り道が、いつもより静かに感じられた。
舞夜は青いノートを胸に抱えながら、俺の隣を歩いている。
俺たちは何も話さなかった。
けれど――。
今回の沈黙は、いつもとは少し違っていた。
照れくさくて言葉が出ないような沈黙ではない。
もう、すべての瞬間を言葉で埋める必要がなくなった二人の沈黙だった。
先に口を開いたのは、舞夜だった。
「……ありがとうございます」
俺は横目で舞夜を見る。
「何が?」
「ちゃんと読んでくれたことです」
俺は笑った。
「約束したからね」
「はい」
舞夜は小さく頷いた。
「でも……」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「南くんは、正直な感想を言うっていう約束もしてくれましたよね」
「うん」
「そして、本当に正直に言ってくれました」
舞夜は胸元のノートへ視線を落とす。
「……それが、嬉しいんです」
俺は少し意外に思った。
「嬉しい?」
舞夜は頷く。
「もし南くんが、私を傷つけないために『面白かった』って言ってくれていたら……」
「きっと、意味がなかったと思います」
「私は、もっと上手くなりたいんです」
「だから――」
「ちゃんと本当のことを言ってくれる人が必要なんです」
俺は思わず笑った。
「じゃあ、これからも書いたものを見せてよ」
「俺が思ったことは、いつでも正直に言うから」
舞夜が顔を上げる。
その瞳には、少し驚いたような色と――。
嬉しそうな光が浮かんでいた。
「……たとえ、気に入らない時でも?」
「むしろ、そういう時こそ」
舞夜が小さく笑った。
「南くんって、本当に変わっていますね」
「またそれ?」
「はい」
「普通は、相手を傷つけないように優しくするものです」
「でも南くんは、優しくするより正直でいようとする」
舞夜は穏やかに微笑んだ。
「それって……南くんの一番いいところの一つだと思います」
俺は少しだけ視線を逸らした。
褒められることには、どうしても慣れない。
頬が少し熱くなるのを感じながら――。
俺は何も言わずに歩き続けた。
俺たちは、そのまま数メートル歩いた。
しばらくして――。
舞夜が再び口を開いた。
「南くん」
「ん?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「南くんには……夢がありますか?」
突然の質問だった。
俺は少し考えた。
正直に言えば――。
今まで、真剣に考えたことがなかった。
俺は空を見上げる。
夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れている。
「……分からない」
舞夜は何も言わず、俺の答えを待っていた。
「たぶん……」
「いつか、本当にやりたいと思えることを見つけたい」
「毎朝、起きるのが楽しみになるような何かを」
舞夜は黙って聞いている。
「まだ、そういうものは見つかってない」
「でも――」
俺は少しだけ笑った。
「いつか見つかると思う」
舞夜は、優しく微笑んだ。
「きっと見つかりますよ」
「そうかな」
「はい」
迷いのない返事だった。
俺は少し照れくさくなり、再び前を向いた。
「じゃあ……舞夜は?」
「私?」
「うん」
舞夜は胸に抱えていた青いノートの表紙を、指先でそっと撫でた。
「私は……あります」
「夢」
「作家になること?」
俺が尋ねると、舞夜は静かに頷いた。
「はい」
「でも――」
少しだけ遠くを見る。
「有名になりたいからじゃありません」
「たくさんの本を売りたいからでもないです」
舞夜は夕暮れの空を見つめながら、続けた。
「誰かの心に、何年経っても残るような物語を書きたいんです」
「たった一人でもいいんです」
舞夜は静かに言った。
「もし、いつか誰かが私の書いた本を読んで――」
「『この本に救われた』って思ってくれたら」
「それだけで、頑張って書いた意味があったと思えるんです」
その言葉を聞いて――。
俺は、文化祭の時のことを思い出した。
『言葉の広場』に並んでいた、たくさんのカード。
そこに書かれていた言葉。
そして――。
それを読んで笑っていた人たち。
舞夜は、あの時から何も変わっていない。
いつだって、自分より先に誰かのことを考えている。
「……舞夜らしいな」
思わず口にすると――。
彼女がこちらを見る。
「そうですか?」
「うん」
「文化祭の時もそうだったし」
「自分が何かを得ることより、誰かに何かを届けることのほうが大切なんだろ?」
舞夜は少し驚いたように目を開いた。
そして――。
小さく笑った。
「南くんは、本当に私のことをよく見ていますね」
「そうかな」
「はい」
舞夜は前を向く。
夕暮れの光が、その横顔を柔らかく照らしていた。
「だから……」
「この物語も、きっと誰かに届いてほしいんです」
その声は、とても静かだった。
けれど――。
俺には、はっきり聞こえた。
「その誰かが、一人だけだったとしても?」
「はい」
舞夜は迷うことなく答えた。
「一人で十分です」
その言葉を聞いて――。
俺は、なぜか胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
しばらく歩いていると――。
前方から、聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。
「――あっ! いた!」
俺たちは同時に振り返った。
そこには、こちらへ向かって走ってくる愛莉の姿があった。
肩には鞄を掛けている。
どうやら、かなり急いでいたらしい。
「はぁ……はぁ……」
愛莉は俺たちの前で立ち止まり、息を整える。
「こんにちは、愛莉」
舞夜が声をかける。
「こんにちは!」
愛莉は笑顔で返した。
そして――。
俺と舞夜を交互に見る。
「……また一緒に帰ってるんですか?」
その口元には、明らかにいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「図書室にいただけだよ」
俺が答える。
「ふーん……」
愛莉は納得したような、していないような顔をする。
「まあ、だいたい想像はつきますけど」
「何を?」
舞夜が尋ねる。
「もちろん、あの小説のこと!」
「……」
舞夜の表情が少しだけ固まった。
「唯から聞いたんです」
「舞夜が南くんに読んでもらったって」
「唯……」
舞夜が小さくため息をつく。
「また余計なことを……」
愛莉は楽しそうに笑った。
「それで?」
俺を見る。
「どうだった?」
一瞬――。
俺は舞夜を見る。
彼女は少し緊張した様子でこちらを見ていた。
俺は笑って答える。
「いつか、舞夜の本が出たら――」
「俺、ちゃんと並んで買うと思う」
愛莉が目を大きく見開いた。
「えっ……!」
「それ、かなり大きな褒め言葉じゃないですか!」
「大げさだって」
俺は少し恥ずかしくなって、視線を逸らした。
けれど――。
舞夜は何も言わなかった。
ただ、俯いている。
その口元には――。
隠しきれないほど嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
その瞬間――。
俺は初めて気づいた。
自分が何気なく口にした言葉が――。
舞夜にとっては、思っていた以上に大きな意味を持っていたのだと。
愛莉は、そんな舞夜の様子をしばらく見つめていた。
そして――。
突然、にやりと笑う。
「なるほど……」
「何?」
俺が聞くと、愛莉は首を横に振った。
「ううん、何でもない」
「ただ――」
愛莉は舞夜の隣へ近づく。
「舞夜がそんな顔するの、久しぶりに見たなって」
舞夜は少し驚いたように瞬きをする。
「……どんな顔ですか?」
「嬉しそうな顔」
「……」
舞夜は何も言えなくなった。
頬が少しずつ赤くなる。
「愛莉……」
「はいはい」
愛莉は笑いながら両手を上げる。
「これ以上は何も言いません」
そう言いながらも――。
その顔には、明らかに何かを察しているような表情が浮かんでいた。
俺は少し気まずくなり、話題を変える。
「そういえば、愛莉は今日は何してたんだ?」
「部活です」
「今日は早く終わったので、帰ろうと思ったら二人を見つけたんです」
「なるほど」
愛莉は俺たちを見てから、少しだけ考えるような顔をした。
「でも――」
「なんだか、二人とも前より自然になりましたよね」
「自然?」
舞夜が首を傾げる。
「うん」
「前は一緒にいるだけで、ちょっと緊張してる感じがあったのに」
「今は――」
愛莉は二人を交互に見る。
「一緒にいることが当たり前みたい」
俺は返事に困った。
舞夜も同じだったらしい。
二人とも黙ってしまう。
そんな俺たちを見て――。
愛莉は楽しそうに笑った。
「やっぱり面白いなぁ」
「何が?」
「二人を見てるのが」
「愛莉……」
舞夜が少し困ったように名前を呼ぶ。
けれど――。
その声には、以前ほどの照れや戸惑いはなかった。
それを見て、俺も少しだけ笑った。
確かに――。
俺たちは、以前とは少し変わっているのかもしれない。
愛莉と別れた後――。
俺と舞夜は、再び二人で歩き始めた。
さっきまでの会話が頭に残っている。
『一緒にいることが当たり前みたい』
確かに――。
最近は、舞夜と一緒にいることに慣れてきた気がする。
それがいつからなのかは、よく分からない。
でも――。
以前なら少し緊張していたような時間も、今では自然に感じられる。
舞夜が隣にいる。
それだけで、不思議と落ち着く。
しばらく歩いたところで――。
舞夜が小さく口を開いた。
「……南くん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
「また?」
俺が笑うと、舞夜も笑った。
「はい」
「でも、今日は本当にそう言いたいんです」
舞夜は胸元の青いノートに手を添える。
「私の物語を読んでくれたこと」
「夢の話を聞いてくれたこと」
「そして――」
少しだけ言葉を止める。
「これからも読んでくれると言ってくれたこと」
「全部、嬉しかったです」
俺は少し考えてから答えた。
「じゃあ、俺も一つお願いしていい?」
舞夜がこちらを見る。
「何ですか?」
「これからも、完成するまでちゃんと書いてよ」
「途中で諦めないで」
舞夜は少し驚いたように目を開いた。
そして――。
優しく微笑んだ。
「はい」
「約束します」
夕暮れの空の下。
俺たちは並んで歩き続けた。
まだ、俺には分からない。
舞夜が本当に書こうとしている物語の結末も。
彼女が胸の奥に隠している想いも。
それでも――。
いつか彼女自身の言葉で、それを聞ける日が来る気がした。
その日まで――。
俺は、彼女の物語を読んでいこう。
一ページずつ。
焦らずに。
そして、その物語の続きを――。
舞夜と一緒に見つけていこうと思った。
第七十二話を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、舞夜が自分の夢について語りました。
大樹はまだ、自分の夢を見つけられていません。
これから二人がどんな夢を見つけ、どんな物語を紡いでいくのか――。
これからも見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、次の話でお会いしましょう。




