物語の向こう側
数秒間――。
俺は青いノートを両手で持ったまま、動かなかった。
重くはない。
それなのに――。
なぜか、数枚の紙以上のものを抱えているような気がした。
向かい側では、舞夜が静かに座っている。
何も言わない。
ただ、俺を待っていた。
俺はゆっくりと息を吸った。
「それじゃあ……」
「始めるよ」
舞夜は黙って頷いた。
俺は青いノートを開く。
最初のページ。
そこに書かれていた文字は、とても綺麗だった。
整っていて――。
読みやすい。
ページの一番上には、タイトルが書かれていた。
『まだ言えない言葉』
その下から――。
物語が始まっていた。
――――――
『出会いが運命を変えると考える人がいる。
私は、ずっと逆だと思っていた。
本当に人を変えるのは――。
別れなのだと。
なぜなら。
毎日のように会っていた人に、もう会えなくなって初めて――。
その人が自分にとってどれほど大切だったのかに気づくから。』
――――――
俺は、その最初の数行を二度読んだ。
意味が分からなかったからではない。
ただ――。
言葉では説明しにくい何かを感じたからだ。
難しい文章ではない。
誰かを驚かせようとしているわけでもない。
それでも――。
何かが伝わってくる。
俺は、次のページをめくった。
俺は、そのまま次のページをめくった。
そこには、少しだけ文字の間隔が広くなった文章が続いていた。
『子どもの頃、私は言葉は永遠に残るものだと思っていた。
約束をすれば、その約束はずっと生き続ける。
そう信じていた。
でも、ある日――。
私は知った。
約束でさえ、失われることがあるのだと。
誰かが破ろうとしたからではない。
時間というものもまた――。
人の記憶を消してしまうことがあるから。』
俺はそこで、一度ページをめくる手を止めた。
最後の一文が、頭から離れなかった。
『時間もまた、人の記憶を消してしまう。』
不思議な表現だった。
少し寂しい。
それなのに――。
どこか綺麗だった。
俺はもう一度、その一文を読み返す。
舞夜は何も言わない。
ただ、静かに俺の様子を見ていた。
その表情からは、何を考えているのか分からない。
けれど――。
さっきまでの穏やかな笑顔は消えていた。
俺は再び視線をノートへ戻した。
物語の主人公には、まだ名前がなかった。
ただ一人の少女として描かれている。
その少女には、一つの習慣があった。
大切な人たちへ手紙を書くこと。
けれど――。
その手紙を、決して送らない。
誰かに伝えたい言葉。
謝りたい言葉。
ありがとうと伝えたい言葉。
そして――。
もう一度会いたいと願う言葉。
少女は、それらすべてを手紙に書いていた。
それでも、宛先を書くことはなかった。
だから、その手紙が誰に向けられたものなのか――。
読んでいる俺には分からない。
名前は一つも書かれていない。
それなのに――。
なぜか、その少女が誰かをとても大切にしていることだけは伝わってきた。
俺は、さらにページをめくった。
もっと続きを読みたい。
そんな気持ちが、自然と強くなっていた。
物語を読み進めるうちに――。
俺は、少しずつ不思議な感覚を覚え始めていた。
この物語は、確かに架空の話だ。
登場人物の名前もない。
具体的な場所も描かれていない。
それなのに――。
なぜか、どこかで聞いたことがあるような気がする。
まるで――。
誰かが、自分の記憶を少しずつ文章に変えているような。
俺は一度、顔を上げた。
舞夜は相変わらず、静かにこちらを見ている。
その瞳には、緊張よりも期待が浮かんでいた。
俺は再びページへ視線を戻す。
物語の少女は、ある日、一通の手紙を書いていた。
その手紙には、たった一つの願いだけが綴られていた。
『もし、いつか私のことを忘れてしまったとしても――。
一度だけでいい。
私があなたのそばにいたことを、思い出してほしい。』
俺は、その文章を読んだ瞬間――。
胸の奥が、ほんの少しだけ締めつけられるような感覚を覚えた。
どうしてだろう。
ただの小説の一文なのに。
まるで、誰かが本当に伝えようとしている言葉のように感じた。
俺は無意識に、舞夜の顔を見た。
彼女は何も言わなかった。
ただ――。
ほんの少しだけ、目を伏せていた。
その表情を見ていると、ある考えが頭をよぎった。
もしかして――。
この物語は、舞夜自身のことを書いているんじゃないだろうか。
けれど、俺は何も尋ねなかった。
まだ、この物語は途中だ。
そして舞夜自身も――。
まだ話す準備ができていないのかもしれない。
俺は再びページをめくった。
もっと知りたい。
この少女が、誰に向けて手紙を書いているのか。
そして――。
なぜ、その手紙を送れないのか。
気づけば俺は、物語の続きを知ることに夢中になっていた。
気づけば――。
俺は、かなりのページを読み進めていた。
図書室の静けさは変わらない。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れている。
それでも――。
俺は、ページを閉じる気になれなかった。
物語の少女は、相変わらず手紙を書き続けている。
けれど、ある日を境に――。
その内容が少しずつ変わっていった。
最初は、楽しかった思い出。
一緒に過ごした時間。
何気ない会話。
小さな約束。
そんなものが書かれていた。
しかし、ページを進めるにつれて――。
少女は、ある一つの出来事について書き始める。
『あの日、私は何も言えなかった。
本当は、伝えたいことがあった。
何度も口にしようとした。
でも――。
怖かった。
もし言葉にしてしまったら、今までのすべてが変わってしまう気がしたから。』
俺は、そこでまた手を止めた。
この少女は、一体何を恐れているのだろう。
そして――。
何を伝えようとしているのだろう。
ページの下には、短い一文が続いていた。
『だから私は、言葉を紙の中に隠した。』
その一文を読んだ瞬間――。
俺は、青いノートの表紙を見つめた。
この物語を書いたのは、舞夜だ。
当然のことなのに――。
今になって、その事実が妙に重く感じられた。
俺はゆっくりと舞夜を見る。
舞夜は視線を逸らさなかった。
ただ、静かに俺を見つめている。
「……どう?」
小さな声だった。
俺は少し考えてから答える。
「面白い」
舞夜の目が、ほんの少しだけ大きくなる。
「でも――」
俺はノートへ視線を戻した。
「面白いだけじゃない気がする」
舞夜は何も言わなかった。
けれど、その表情には――。
ほんの少しだけ、安心したような色が浮かんでいた。
俺は、もう一度ノートへ視線を戻した。
物語は、少しずつ終わりへ近づいていた。
少女が書く手紙の数も、次第に少なくなっている。
けれど――。
最後の一通だけは、今までとは少し違っていた。
『これが最後の手紙になるかもしれない。
だから、今度こそ書いておきたい。
ありがとう。
一緒にいてくれて。
笑ってくれて。
私のことを覚えていてくれて。
もし、いつか私のことを忘れてしまっても――。
私は、あなたと過ごした時間を忘れない。』
俺は、その文章をゆっくり読み進めた。
胸の奥に、何とも言えない感情が広がっていく。
悲しい。
けれど、それだけではない。
どこか温かくて――。
優しい。
そして最後のページには、短い文章だけが残されていた。
『いつか、もう一度会えたなら。
今度こそ、言葉にしたい。
ずっと伝えられなかったことを。』
俺は、その一文をしばらく見つめていた。
そして――。
ゆっくりとノートを閉じた。
気づけば、図書室の外はすっかり夕方になっていた。
「……読み終わった」
小さく呟く。
舞夜は何も言わない。
ただ、俺の顔をじっと見ている。
その表情には、期待と不安が入り混じっていた。
俺はノートを両手で持ったまま、少しだけ考える。
この物語は――。
ただの恋愛小説ではない。
誰かを大切に思う気持ち。
失うことへの恐怖。
そして、もう一度伝えたいという願い。
そんなものが、たくさん詰まっている。
俺は舞夜を見る。
「舞夜」
「はい」
「この話――」
そこで一度、言葉を止めた。
どう伝えればいいのか分からない。
でも――。
一つだけ、確かなことがあった。
「すごく、心に残った」
舞夜は目を伏せる。
そして、小さく息を吐いた。
まるで――。
ずっと待っていた言葉を聞いたように。
しばらくの間――。
舞夜は何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた手を静かに握っている。
やがて――。
ゆっくりと顔を上げた。
「……よかった」
その声は、とても小さかった。
「そう言ってもらえて……本当によかったです」
俺は少し驚いた。
「そんなに心配してたの?」
舞夜は少しだけ笑う。
「はい」
「南くんがどう感じるのか……ずっと気になっていました」
「でも――」
彼女は青いノートを見つめる。
「最後まで読んでもらえて、それだけで嬉しいです」
俺はノートを机の上に置いた。
そして、少し考えてから口を開く。
「一つだけ聞いてもいい?」
舞夜は頷いた。
「どうして、この話を書こうと思ったの?」
一瞬――。
舞夜の表情が止まった。
けれど、すぐに小さく微笑む。
「……いつか、ちゃんと伝えたいことがあるからです」
「誰かに?」
「はい」
それ以上は、何も言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
今はまだ――。
彼女が自分から話すのを待つべきだと思ったからだ。
舞夜はノートを大切そうに鞄へしまう。
「続きを書きます」
「うん」
「完成したら、また読んでください」
俺は笑った。
「もちろん」
舞夜も微笑む。
その笑顔を見ながら――。
俺は思った。
今日読んだ物語は、まだ始まったばかりだ。
そしてきっと――。
その続きを読んでいけば、いつか舞夜が言葉にできないものの正体にも辿り着ける。
それが何なのかは、まだ分からない。
でも――。
急ぐ必要はない。
彼女が自分の言葉で話せるようになるまで、俺は待とう。
夕暮れの光が、図書室の窓から差し込んでいた。
俺たちはノートを手にして、静かに席を立った。
そして――。
まだ誰にも語られていない物語の続きを、二人で歩き始めた。
第七十一話『物語の向こう側』を読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、南くんが初めて舞夜の書いた物語を読むことになりました。
一見すると、ただの小説に見える物語。
けれど、その言葉の一つ一つには、舞夜自身の想いが込められているのかもしれません。
「いつか、ちゃんと伝えたいことがある」
舞夜がそう言った相手は、一体誰なのでしょうか。
そして、彼女がずっと胸の奥にしまっているものとは――。
南くんは、少しずつその答えへ近づき始めています。
物語の続きとともに、二人の関係もまた少しずつ変わっていきます。
それでは、次の話でお会いしましょう。




