表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/140

最初の読者

午前の授業は、特に大きな出来事もなく終わった。


数学。


歴史。


英語。


いつも通りの授業だ。


それでも――。


正直に言えば、俺の頭にはまだ一つのことが残っていた。


文学コンクール。


正確には――。


「自分は、そんなに上手くないかもしれない」


そう言った時の舞夜の表情だ。


俺が知っている彼女とは、どこか違っていた。


何百人もの生徒に、自分の心から出てきた言葉を書かせた女の子。


それが、どうしてあんなにも自分のことを信じられないのだろう。


そんな疑問が頭から離れなかった。


昼休みのチャイムが鳴り、俺の思考は中断された。


数秒もしないうちに、教室は再び話し声でいっぱいになる。


松がすぐに立ち上がった。


「昼飯の時間だ!」


「切り替えるの早すぎないか?」


「食べ物には、そういう力があるんだよ」


……。


それについては、反論できなかった。

俺が弁当を取り出していると――。


聞き覚えのある声がした。


「南くん」


顔を上げる。


舞夜が俺の机の横に立っていた。


手には、水色のハンカチに包まれた弁当箱を持っている。


「よかったら……一緒にお昼を食べませんか?」


俺は思わず瞬きをした。


「……一緒に?」


舞夜は小さく頷く。


そして、窓際へ視線を向けた。


そこでは、唯がすでに椅子を何脚か並べている。


その隣では、愛莉が手を上げていた。


「おいでよ!」


笑顔でそう呼んでいる。


俺が返事をするより先に――。


松が俺の脇腹を軽く肘で突いた。


「行けよ」


「俺は一人で食べるから」


「本当に?」


「もちろん」


「それに……」


松は少しだけ笑う。


「俺が行ったら、雰囲気を壊しそうだからな」


思わず笑ってしまった。


「……それは、かなりありそうだな」


「おい!」


松が抗議する。


俺はもう一度、舞夜を見る。


彼女は少し楽しそうに笑っていた。


「じゃあ……」


「お邪魔させてもらおうかな」


「はい」


舞夜は嬉しそうに頷いた。

俺たちは窓際の席に集まった。


舞夜の向かいには唯。


俺の向かいには愛莉が座っている。


窓から差し込む日差しが、教室を暖かな光で照らしていた。


しばらくの間――。


俺たちは、特に意味のない話をしていた。


数学のテストが難しかったこと。


購買のパンのこと。


次の体育祭の準備について。


本当に、何でもない会話だった。


でも――。


だからこそ、心地よかった。


愛莉がふと、俺に尋ねる。


「南くんって、小説読む?」


「少しだけ」


「ライトノベルのほうが多いかな」


その瞬間、愛莉の目が輝いた。


「私も!」


唯が笑う。


「愛莉、いつも私たちに本を勧めてくるもんね」


「だって、面白いんだから!」


愛莉は胸を張る。


「絶対読んだほうがいいよ」


その様子を見て、舞夜が小さく笑った。


柔らかな笑い声だった。


初めて会った頃に見せていた笑顔とは、少し違う。


もっと自然で――。


肩の力が抜けている。


俺はふと考えた。


舞夜は最近――。


前よりずっと、笑うことに慣れてきたのかもしれない。

数分後――。


唯が弁当箱の上に箸を置いた。


「舞夜」


「もう決めたからね」


舞夜は少し首を傾げる。


「何を?」


「文学コンクールに参加すること」


舞夜は少しだけ目を見開いた。


「それは……」


「唯が決めることじゃないですよ」


「わかってる」


唯は自信満々に答える。


「だから、私が舞夜を説得するの」


愛莉がすぐに手を上げた。


「私も賛成!」


二人の視線が、俺へ向く。


突然、妙なプレッシャーを感じた。


「……南くんは?」


俺は小さく息を吐く。


「昨日も言ったけど――」


「俺は、挑戦してみたほうがいいと思う」


「たとえ、優勝できなくても」


「一度だけでもいい」


俺は少し考えてから、続けた。


「やってみなかったことを後悔するより――」


「やってみたらどうなっていたんだろうって、ずっと考え続けるほうが嫌だろ?」


教室が静かになる。


舞夜は視線を落とした。


そして――。


しばらくして、小さく笑った。


「どうやら……」


「私だけ反対みたいですね」


「完全に少数派だな」


唯が即答する。


「そういうこと!」


愛莉も楽しそうに笑った。


舞夜は二人を見て、それから俺を見る。


その表情には――。


ほんの少しだけ、迷いが消えていた。

昼休みも終わりに近づいた頃――。


舞夜が、ほとんど聞こえないくらいの声で口を開いた。


「実は……」


俺たち三人が、舞夜を見る。


「もう、少し書き始めているんです」


愛莉が驚いたように目を見開く。


「本当に?」


舞夜はゆっくりと頷いた。


「まだ数ページだけです」


「文章も、かなりまとまっていなくて……」


「誰にも読んでもらっていません」


唯は誇らしそうに笑った。


「やっぱりね」


「もう書き始めてると思ってた」


愛莉が身を乗り出す。


「読みたい!」


舞夜は困ったように笑いながら、静かに首を横に振った。


「まだ駄目です」


「もう少し完成してから……」


「今は、まだ誰にも読ませたくありません」


そう言った舞夜の視線が――。


ふと、俺へ向いた。


俺も自然と彼女を見る。


数秒間。


何も言葉が出てこなかった。


そして、舞夜が静かに口を開く。


「最初の原稿が完成したら……」


「南くんに、一番最初に読んでもらえませんか?」


一瞬――。


何を言われたのか理解できなかった。


「……俺が?」


舞夜は小さく頷く。


「はい」


「正直な感想が聞きたいんです」


「もし、何か足りないところがあったら……」


「遠慮せずに言ってください」


俺は少しだけ緊張した。


それと同時に――。


不思議なくらい嬉しかった。


誰かにとって大切なものを、最初に読ませてもらう。


そんな経験は、今まで一度もなかった。


俺は笑った。


「わかった」


「完成したら、ちゃんと読むよ」


「思ったことは、全部言う」


舞夜は安心したように微笑んだ。


「……それを聞きたかったんです」

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


俺たちはそれぞれの席へ戻る。


舞夜も自分の席へ向かおうとした。


その途中で――。


愛莉が俺たちのほうを見ていることに気づいた。


何も言わない。


ただ、少しだけ意味ありげな笑顔を浮かべている。


その隣では、唯も同じような表情をしていた。


二人は顔を見合わせる。


そして――。


どちらからともなく、小さく笑った。


「……」


何だろう。


妙に気になる。


けれど、俺が尋ねる前に、舞夜が席へ戻っていった。


俺も自分の席に座る。


先生が教室へ入ってきた。


「それでは、授業を再開します」


教科書を開く。


いつもと変わらない午後の授業。


けれど――。


俺の頭には、さっきの舞夜の言葉が残っていた。


最初の原稿が完成したら、自分に読んでほしい。


そう言ってくれたことが、なぜか嬉しかった。


どんな物語になるのだろう。


どんな言葉が書かれるのだろう。


そして――。


舞夜は、その物語にどんな想いを込めるのだろう。


俺は窓側の席を見る。


舞夜も、ちょうどこちらを見ていた。


目が合う。


彼女は少しだけ微笑んだ。


俺も笑い返す。


そして、すぐに二人とも黒板へ視線を戻した。


その様子を――。


少し離れた席から、愛莉と唯がこっそり見ていた。


二人は何も言わない。


ただ、また顔を見合わせる。


どうやら――。


俺たち自身が気づいていない変化を、周りのほうが先に気づき始めているらしい。


ほんの小さな変化。


けれど、それは確実に積み重なっていた。


そしてこの日――。


俺はまだ知らなかった。


舞夜が書き始めた物語が、やがて俺自身にも大きな影響を与えることになるなんて。

第六十七話『最初の読者』を読んでいただき、ありがとうございました。

舞夜が文学コンクールへの参加を考える中、彼女がすでに作品を書き始めていたことが明らかになりました。

そして――。

その最初の原稿を、誰より先に読んでほしいと頼まれたのは大樹でした。

舞夜にとって、大樹はただのクラスメイトではなくなりつつあります。

一方、唯と愛莉も二人の距離の変化に気づき始めています。

これから舞夜がどんな物語を書き、大樹がそれを読んで何を感じるのか。

そして、その物語が二人の関係にどんな影響を与えるのか。

次の話から、少しずつ動き始めます。

それでは、次の話でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ