言葉を届けるために
授業開始のチャイムが鳴った。
ほんの数分前まで話し声で賑わっていた廊下も、少しずつ静かになっていく。
松と俺は教室へ入った。
「おはようございます」
先生が教室に入るなり挨拶する。
俺たちも、ほぼ同時に返事をした。
それぞれが自分の席へ向かう。
俺は鞄を机の横へ置き、いつものように窓側の列へ目を向けた。
舞夜は、すでに席に座っていた。
授業が始まるのを待ちながら、本を読んでいる。
別に珍しい光景ではない。
不思議なのは――。
いつの間にか、舞夜が本を読んでいる姿を見ても、何とも思わなくなっていたことだ。
それは、ただ――。
舞夜だった。
まるで最初から、教室にそんな光景があったかのように。
「また、あっち見てるのか?」
後ろの席から、松が小声で言った。
俺はゆっくり振り返る。
「……何?」
「別に」
「たださ」
「クラスメイトがどこに座ってるか、全部知ってるみたいなのに――」
「いつも同じところを見てるよな」
「気のせいだろ」
「そうか」
松はニヤリと笑った。
「じゃあ、俺は学校長だな」
俺が何か言い返そうとした、その時――。
先生が咳払いをした。
「もう話し終わったのなら……」
「授業を始めてもいいですか?」
松は何事もなかったような顔で笑う。
「先生、まだ始まってませんよ」
教室中から、深いため息が漏れた。
出席を確認し終えると――。
先生は持っていたファイルを机の上へ置いた。
「授業を始める前に、一つ知らせがあります」
教室が静かになる。
「知っている人もいると思いますが、来月、この地区で青少年文学コンクールが開催されます」
何人かの生徒が、興味深そうに顔を上げた。
先生は続ける。
「本校からも代表者を出す予定です」
「参加は自由ですが、希望する生徒は自分で書いたオリジナル作品を提出してください」
「校内選考で選ばれた作品は、学校の代表として地区大会へ進むことになります」
その瞬間――。
誰かがゆっくりと顔を上げた。
俺は窓側へ目を向ける。
舞夜が読んでいた本を閉じていた。
その目は、先生へまっすぐ向けられている。
今朝、舞夜があんなに真剣な表情をしているのを見たのは、初めてだった。
「参加を希望する人は、今週中に申し込んでください」
先生はそれだけ告げると、教科書を開いた。
「では――」
「四十八ページ」
教室に再び、いつもの授業の空気が戻っていった。
けれど――。
俺の頭には、さっきの話が残っていた。
そして。
おそらく、舞夜の頭の中にも。
休み時間のチャイムが鳴った瞬間――。
教室は再び話し声でいっぱいになった。
松が俺の机に両手をつく。
「聞いたか?」
「うん」
「舞夜、参加したほうがいいよな」
俺はもう一度、舞夜の席を見る。
唯がすでに舞夜のところへ行っていた。
愛莉も一緒になって話している。
二人とも、かなり楽しそうだ。
会話の内容までは聞こえない。
でも――。
何について話しているのかは、だいたい想像できた。
「きっと、もう二人から言われてるだろ」
俺が答える。
「そりゃそうだ」
松は頷いた。
「逆に、すぐ参加するって言うほうが驚きだけどな」
「どうして?」
「自分のために書くのと、人に評価されるために書くのは、全然違うだろ」
俺は、その言葉を聞いて少し考えた。
……確かに。
『言葉の小さな広場』では、誰も文章の上手さを気にする必要がなかった。
どんな言葉でも、自分の気持ちを書けばよかった。
でも――。
コンクールとなれば話は違う。
作品を読まれる。
評価される。
そして、順位までつけられる。
舞夜にとって、それは今までとは違う挑戦になるのかもしれない。
俺は窓側の席へ目を向けた。
舞夜は、まだ唯と愛莉と話していた。
その表情は穏やかだった。
けれど――。
どこか迷っているようにも見えた。
俺たちが話していると――。
「南くん」
自分の名前を呼ばれた。
振り返る。
舞夜が俺の机の横に立っていた。
腕には一冊のノートを抱えている。
「少し、話してもいいですか?」
「もちろん」
俺たちは教室から少し離れ、廊下の窓際まで移動した。
数秒間――。
どちらも何も言わなかった。
舞夜は、何か言葉を探しているようだった。
やがて――。
ゆっくりと顔を上げる。
「南くんは……」
「コンクールについて、どう思いますか?」
突然の質問だった。
俺は少し驚いた。
「俺は――」
「参加したほうがいいと思う」
舞夜は少しだけ笑った。
「唯にも、同じことを言われました」
「だって、唯の言う通りだから」
舞夜は視線を落とした。
そして、抱えていたノートを少し強く握る。
「……もし、私が思っているほど上手じゃなかったら?」
その言葉を聞いて、俺は舞夜を見る。
数秒考えてから――。
思わず笑ってしまった。
「『言葉の小さな広場』を作った人が、そんなことを言うのか?」
舞夜は黙った。
俺は続ける。
「覚えてる?」
「あそこに、何人の人が言葉を残したか」
舞夜は小さく頷いた。
「はい」
「その人たちは、どれくらい笑ってた?」
舞夜は少しだけ考える。
そして――。
「……たくさん」
小さく笑った。
「だったら、もう答えは出てるだろ」
俺は窓の外へ目を向ける。
「一番になるために書く必要なんてない」
「舞夜の言葉は、ちゃんと人に届いてる」
「それって――」
「思ってるより、ずっと難しいことだと思う」
舞夜は何も言わなかった。
ただ、俺の言葉を静かに聞いていた。
しばらくの間――。
舞夜は何も言わなかった。
ただ、抱えていたノートを見つめている。
やがて――。
小さな笑い声が漏れた。
「南くんって……」
「いつも、物事を簡単に考えているように見えますね」
「そう?」
「はい」
舞夜は少しだけ顔を上げる。
「でも……」
「不思議と、南くんにそう言われると、本当にできるような気がします」
俺は苦笑した。
「俺は、思ったことを言っただけだよ」
舞夜はノートを胸の前で抱え直す。
そして――。
しばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「じゃあ……」
「もう少しだけ、考えてみます」
「コンクールのこと」
俺は頷いた。
「それでいいと思う」
「すぐに決める必要はないよ」
舞夜は小さく笑った。
「はい」
その笑顔を見ていると――。
きっと、彼女は本当に何かを書こうとしているのだろう。
誰かに評価されるためではなく。
自分の中にある言葉を、誰かに届けるために。
その時――。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺たちは一緒に教室へ戻る。
けれど――。
俺はまだ気づいていなかった。
教室の入口から、こちらを見ている人物がいたことに。
休み時間が終わり――。
俺たちは一緒に教室へ戻った。
舞夜は自分の席へ戻る前に、一度だけこちらを振り返った。
そして――。
小さく笑った。
俺も自然に笑い返す。
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、なぜか心に残った。
その一方で――。
少し離れた場所から、愛莉がこちらを見ていた。
彼女は何も言わない。
ただ、俺と舞夜が並んで歩いていく姿を見つめている。
そして――。
自分の席へ戻ると、口元に小さな笑みを浮かべた。
「……あの二人」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「やっぱり、そういうことなのかな」
愛莉は少しだけ楽しそうに笑った。
一方、俺はそんなことには気づかず、自分の席へ座る。
先生が教室へ戻ってくる。
「それでは、授業を再開します」
教科書を開く。
いつもの授業。
いつもの教室。
何も変わっていないように見える。
けれど――。
俺は、ふと窓側の席を見る。
舞夜もこちらを見ていた。
目が合う。
彼女はすぐに前を向いた。
俺も黒板へ視線を戻す。
……コンクール。
舞夜は本当に参加するのだろうか。
そして、もし参加するなら――。
どんな物語を書くのだろう。
そんなことを考えながら――。
俺は授業に意識を戻した。
この日から。
俺たちの日常に、新しい「物語」が一つ加わることになった。
第六十六話『言葉を届けるために』を読んでいただき、ありがとうございました。
新しい日常が始まったばかりの中で、舞夜の前に新たな挑戦が現れました。
青少年文学コンクール。
舞夜は、自分の作品を誰かに評価してもらうことに、まだ少し不安を感じています。
そんな彼女の背中を押したのは――大樹の何気ない言葉でした。
そして最後には、愛莉も二人の距離に気づき始めています。
果たして舞夜は、コンクールへの参加を決意するのでしょうか。
そして、彼女が書く新しい物語とは――。
それでは、次の話でお会いしましょう。




