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変わらない日常、変わった僕ら

「人は、物事にすぐ慣れてしまうものだ」


そんな言葉がある。


俺には、その意味が今までよくわからなかった。


あの日の朝までは――。


「大樹、いつまで寝てるの!」


母さんの声が、軍隊の目覚まし時計のような正確さで部屋に響く。


俺は片目を開けた。


時計を見る。


六時半。


「あと五分……」


そう答えれば、なんとかなると思った。


もちろん――。


ならなかった。


三秒後。


ドアが開いた。


「それ、十分前にも言ってたでしょ」


母さんは腕を組んでいる。


「また遅刻したら、先生に怒られても助けないからね」


俺はため息をついた。


「いつも助けてくれないじゃん」


「だって、いつも先生のほうが正しいもの」


……。


その反論には何も言い返せなかった。


諦めてベッドから起き上がる。


朝の光が窓から差し込み、机の上に並んだノートや本を照らしている。


文化祭のあと、まだ片付けていないものもいくつかあった。


その中に――。


一つの小さな栞があった。


舞夜からもらったものだ。


俺はそれを指先でそっと持ち上げる。


不思議だった。


それを見るたびに――。


あの日、彼女と一緒に歩いた帰り道を思い出す。


気づけば、俺は微笑んでいた。


「もう起きたの?」


廊下から妹の妙子の声が聞こえる。


「まあ……一応」


「じゃあ、早くして」


「父さん、もう食べ始めてるよ」


……。


それは確かに、急がなければならない緊急事態だった。


食堂は、いつも通り賑やかだった。


父さんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。


母さんは朝食の準備を終えようとしていた。


妙子は、すでに学校へ行く準備を終えている。


俺も席に着いた。


「おはよう」


「ちょうどいいところに来たな」


父さんは新聞から目を離さずに言った。


「あと五分遅かったら、母さんがお前のトーストを食べていたぞ」


「そんなことしないわよ」


母さんが答える。


そして――。


少し間を置いてから。


「一枚だけなら食べるけど」


「それ、ほとんど同じじゃない?」


俺が言うと、みんなが笑った。


こういう会話は、俺の家ではごく普通のものだった。


そして――。


正直、俺はこういう時間が好きだった。


ジャムをトーストに塗りながら食べていると、父さんが新聞をテーブルの横へ置いた。


「そういえば、交換留学はもう終わったのか?」


俺は頷いた。


「うん」


「結構楽しかったよ」


「新しい友達はできたか?」


その質問を聞いた瞬間――。


俺の頭に、涼の顔が浮かんだ。


陽斗。


蒼太。


みすず。


そして――。


蓮。


「うん」


「……結構できたと思う」


父さんは満足そうに笑った。


「それはよかった」


「人と出会うたびに、自分の世界は少しずつ広がっていくからな」


俺は何も答えなかった。


けれど――。


その言葉は、なぜかいつまでも頭の中に残っていた。

空気は心地よかった。


夏の暑さは、少しずつ消え始めている。


木々の葉も、ところどころ黄金色に染まり始めていた。


学校へ向かって歩きながら――。


俺は、ふと妙なことを考えていた。


学校までの道は、何も変わっていない。


同じ通り。


同じ家。


同じ橋。


それなのに――。


なぜか、何かが変わったように感じる。


もしかすると――。


変わったのは、俺自身なのかもしれない。


「南!」


聞き覚えのある声がして、俺は考え事をやめた。


振り返る。


松が手を振りながら、こちらへ走ってきていた。


相変わらず――。


時間ギリギリらしい。


「また寝坊したのか?」


俺が尋ねる。


「違う!」


松は息を整えながら答えた。


「靴下を探してたんだ」


「……見つかった?」


「いや」


「でも、別の靴下なら見つけた」


俺は数秒間、松を見る。


「……それ以上は聞かないことにする」


「そのほうがいい」


俺たちは並んで歩き始めた。


しばらくの間、文化祭の話をした。


涼のこと。


陽斗のこと。


そして――。


毎日のように教室を騒がせていた、あの大きな声のこと。


「学校、静かになりすぎたな」


松が呟いた。


「そうだな」


俺も頷く。


「まさか自分から、誰かが何かで叫んでる声を聞きたくなるなんて思わなかった」


「俺もだよ」


二人で笑った。


たった一週間。


それだけだったのに――。


あの時間は、思っていた以上にたくさんの思い出を残していた。

学校の門に到着すると――。


桜の木の下で、何人かの女子生徒が話しているのが見えた。


その中に――。


黒い髪の少女がいた。


すぐに誰なのかわかった。


舞夜だった。


彼女はまだ俺に気づいていない。


唯や愛莉と話している。


三人とも、何かの話で楽しそうに笑っていた。


俺は思わず、その場で数秒立ち止まった。


「……何見てるんだ?」


隣から松の声が聞こえた。


その声には、どこか楽しそうな響きがあった。


「何も」


俺は、少し早口で答える。


「そうか……」


松は意味ありげに頷いた。


「『何も』ね」


「……何だよ」


「いつか自分から認めるんだろうな」


「何を?」


俺が聞き返す。


松はニヤリと笑った。


「それは、自分が一番よくわかってるだろ」


「……」


何か言い返そうとした。


けれど、その前に――。


舞夜がふと顔を上げた。


そして――。


俺たちの目が合った。


ほんの一瞬。


舞夜は自然な笑顔を浮かべる。


そして、小さく手を上げた。


俺も同じように手を上げる。


たったそれだけのことだった。


特別な言葉を交わしたわけでもない。


それなのに――。


なぜか、その日の朝が少しだけ温かく感じられた。


そして俺は、まだ知らなかった。


この何気ない挨拶が――。


俺と舞夜にとって、新しい日々の始まりになることを。

俺は松と一緒に校門をくぐった。


校舎へ向かいながら、ふと後ろを振り返る。


舞夜たちは、まだ桜の木の下で話していた。


唯と愛莉が何かを話すたびに、舞夜が小さく笑っている。


その光景を見ていると――。


交換留学の間に過ごした時間が、ほんの少しだけ蘇ってきた。


文化祭。


図書室。


帰り道。


そして――。


夕暮れの中で交わした、小さな約束。


どれも、つい最近の出来事なのに。


ずっと前から知っていた思い出のように感じられた。


「……本当に一週間だけだったんだよな」


俺が呟くと、松が首を傾げる。


「何が?」


「いや……なんでもない」


俺は笑った。


けれど、その時――。


ポケットの中に手を入れる。


指先に、あの小さな栞が触れた。


舞夜からもらったもの。


それを確かめるように、そっと握る。


不思議だった。


たった一つの栞なのに――。


見るだけで、あの一週間の出来事が全部思い出せる。


そして、これから始まる毎日も。


今までとは少し違ったものになる気がした。


俺は前を向く。


「ほら、遅れるぞ」


松が先に走っていく。


「待てよ!」


俺もその後を追った。


いつもの朝。


いつもの学校。


だけど――。


昨日までとは、少しだけ違う日常が始まろうとしていた。

教室へ入ると――。


いつものように、クラスメイトたちがそれぞれの席で話をしていた。


黒板には今日の予定が書かれている。


窓から差し込む朝の光。


机の並び。


何も変わっていない。


なのに――。


俺には、すべてが少し違って見えた。


交換留学が始まる前なら、こんなことは考えなかっただろう。


新しい友達ができること。


誰かと一緒に文化祭を作ること。


そして――。


舞夜と、こんなにも自然に話せるようになること。


俺は自分の席に座る。


鞄を机の横に置く。


その時――。


教室の入口から、舞夜が入ってきた。


彼女は俺を見つけると、また小さく微笑む。


「おはようございます、南くん」


「おはよう、八神」


たったそれだけ。


それだけなのに――。


昨日までとは、何かが違う。


俺たちはもう、以前の俺たちではない。


大きな出来事があったわけじゃない。


劇的に何かが変わったわけでもない。


ただ――。


一緒に過ごした時間が、少しずつ俺たちの距離を変えていた。


そして、これからもきっと。


こういう何気ない日々の中で、少しずつ何かが変わっていくのだろう。


俺は窓の外を見る。


夏の終わりを告げるように、風が木々の葉を揺らしていた。


新しい季節が始まろうとしている。


そして――。


俺たちの新しい日常も、今始まったばかりだった。

第六十五話『変わらない日常、変わった僕ら』を読んでいただき、ありがとうございました。

交換留学が終わり、物語は再びいつもの学校生活へ戻りました。

けれど――。

大樹と舞夜の関係は、以前とは少し違っています。

何気ない挨拶。

短い会話。

一緒に過ごす時間。

そうした小さな積み重ねが、二人の距離を少しずつ変えていきます。

そして舞夜の過去では、まだ誰にも知られていない出来事が静かに動き続けています。

これから始まる新しい日常が、二人にどんな変化をもたらすのか。

それでは、次の話でお会いしましょう。

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