最後の一枚
昼を過ぎると――。
再び、来場者の数が増えてきた。
教室には笑い声が戻り、ペンが紙の上を走る音に、穏やかな会話や掲示板のメッセージを読む声が混ざっている。
大きな掲示板は、もうほとんどいっぱいだった。
残っている空白は、ほんのわずか。
「まさか、ここまでになるとは思わなかったな」
新しいカードを貼りながら、俺は呟いた。
愛莉が誇らしそうに笑う。
「思ってたより、ずっと素敵になったね」
みすずも頷いた。
「それに、まだ文化祭の最後の一時間が残ってるよ」
涼が両腕を高く上げる。
「よし! 最後の隅まで全部埋めよう!」
陽斗が静かにノートを閉じた。
「今のペースなら――」
「二十分もかからないと思います」
「……本当に?」
俺は掲示板を見つめる。
たくさんの色。
たくさんの言葉。
そして、それぞれの人が残していった小さな物語。
あと少しで――。
この掲示板は、完全に埋まる。
それからしばらくして――。
この日、初めて教室がほとんど空になった。
数人の生徒だけが残り、掲示板に貼られたメッセージを静かに読んでいる。
先生も少し休憩するため、教室を出ることにした。
「すぐ戻ってきますからね」
「何も壊さないように」
涼が手を挙げる。
「それは約束できません!」
「だから言ってるんです」
先生は呆れたように言い残し、教室を出ていった。
その直後――。
みんなの間から笑い声が起こった。
「相変わらずだな」
俺が苦笑すると、涼は胸を張る。
「信頼されてるってことだろ!」
「どこをどう考えたら、そうなるんだ?」
松が笑いながら肩を叩く。
「まあ、涼らしいけどな」
一瞬だけ――。
文化祭の喧騒から離れた、穏やかな時間が流れた。
しばらくして――。
舞夜がゆっくりと掲示板の前へ歩いていった。
そして、俺を見る。
小さな笑顔を浮かべながら、白いカードを二枚手にしていた。
「南くん」
俺はうなずいた。
何も聞く必要はなかった。
数日前に交わした約束。
俺たちは、ちゃんと覚えていた。
「私たちも、書きましょう」
舞夜がそう言うと、愛莉が興味深そうにこちらを見る。
「何を書くの?」
舞夜は二枚のカードを見せた。
「私たちもメッセージを書くんです」
みすずが嬉しそうに笑う。
「いいね!」
「あとで読んでもいい?」
舞夜は静かに首を横に振った。
「ごめんなさい」
「今回は匿名にします」
涼が大げさに驚いた顔をする。
「匿名!?」
「それなら、ますます気になるじゃん!」
俺は苦笑する。
「だからこそ、読まないんだろ」
舞夜も小さく笑った。
そして――。
俺たちは白いカードを手に、少し離れた机へ向かった。
約束の時が来た。
あの日、夕暮れの廊下で交わした小さな約束。
それを、今ここで果たすことになった。
俺たちは少し離れた机に向かい、それぞれ白いカードを前に座った。
しばらくの間――。
どちらも何も書かなかった。
ただ、真っ白な紙を見つめている。
「……思っていたより難しいな」
俺が呟くと、舞夜が小さく笑った。
「今なら、ここに来た人たちの気持ちが少しわかりますね」
「そうだな」
「何を書こうとしても、簡単には決まらない」
俺は苦笑した。
「まさか、自分たちが同じことで悩むとは思わなかった」
数分後――。
俺はようやくペンを手に取った。
そして、深く考えすぎないようにしながら、ゆっくりと言葉を書いていく。
書き終える。
俺はカードを折り、内容が見えないようにした。
隣を見ると――。
舞夜も、ちょうど書き終えたところだった。
彼女もカードを丁寧に折っている。
目が合う。
「……できた?」
俺が尋ねる。
舞夜は小さくうなずいた。
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
二人で立ち上がる。
そして、掲示板の前まで歩いていく。
言葉を交わすことなく――。
俺と舞夜は、自分たちのカードを隣同士に並べて掛けた。
お互いのカードは、読まない。
それが最初から決めていたことだった。
だから――。
どんな言葉を書いたのかは、お互いに知らない。
それでも。
この瞬間だけは――。
二人だけの秘密のような気がした。
掲示板には、まだ一つだけ空いている場所が残っていた。
ちょうど中央。
その時――。
教室の入口から、聞き覚えのある小さな声が聞こえた。
「……まだ、書いてもいいですか?」
振り返る。
そこにいたのは――。
朝、舞夜が手助けした一年生の女の子だった。
両手には、一枚のカードを大切そうに持っている。
舞夜が嬉しそうに微笑む。
「もちろんです」
女の子はゆっくりと掲示板の前まで歩いていく。
そこに並ぶ、たくさんのメッセージを見つめる。
そして――。
最後に残っていた空白へ、自分のカードを掛けた。
一歩下がる。
掲示板全体を見渡す。
そして、満足そうに笑った。
「これで、全部ですね」
そう言うと、小さく頭を下げてから教室を出ていった。
舞夜は、その後ろ姿を静かに見送る。
「戻ってきてくれて……よかった」
小さく呟いた。
俺も掲示板を見る。
最初は何もなかった場所が――。
今では、たくさんの人の言葉で埋め尽くされている。
そして最後の一枚まで加わったことで――。
一つの大きな物語が、完成したような気がした。
教室の入口近くで――。
蓮が掲示板のメッセージを一枚ずつ読んでいた。
しばらくすると、あるカードの前で足を止める。
一度読む。
そして、もう一度。
その表情が、ほんの少しだけ変わった。
俺は気になって近づく。
「気に入ったメッセージでもあったのか?」
蓮はカードを見つめたまま、静かに笑う。
「うん」
「かなりね」
「どれ?」
俺が尋ねると、蓮は首を横に振った。
「教えない」
「どうして?」
「君に教えたら――」
「この言葉が持っている意味が、少し変わってしまう気がするから」
俺は不思議に思いながら、蓮が見ていた場所へ目を向ける。
けれど――。
カードが多すぎて、どれを見ていたのか分からない。
蓮はもう一度だけ、そのカードを見つめる。
そして――。
何も言わずに、その場を離れていった。
俺はその背中を見送る。
一体、どんな言葉だったんだ?
気になった。
けれど、無理に探す気にはなれなかった。
匿名で残された言葉なのだから。
それを誰が書いたのか、知る必要はない。
ただ――。
蓮があれほど心を動かされたということだけが、妙に気になった。
掲示板には、たくさんの言葉が並んでいる。
その中のたった一枚。
誰にも知られないまま残された、小さなカード。
けれど、その一枚は――。
まだ誰も知らない物語の、重要な一部分になろうとしていた。
第六十二話『最後の一枚』を読んでいただき、ありがとうございました。
ついに『言葉の小さな広場』の掲示板が、すべてのカードで埋まりました。
大樹と舞夜も、それぞれ匿名のメッセージを残しました。
そして最後に――。
蓮の心を強く引きつけた、一枚のカード。
その言葉を書いたのは誰なのか。
なぜ蓮は、そのメッセージに特別な意味を感じたのか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




