一歩を踏み出す勇気
朝が進むにつれて――。
教室には、ますます多くの人が集まってきた。
すべての机が埋まってしまうこともある。
生徒たちは静かに言葉を書いたり、顔を見合わせて笑ったり、他の人が掲示板に残したメッセージを読んだりしている。
何より不思議だったのは――。
誰も急いでいなかったことだ。
文化祭には、他にもたくさんの企画がある。
それなのに、多くの人が思っていた以上に長く、この場所に残っていた。
「もう何人来たのか、わからなくなってきたな」
新しいカードの束を整理しながら、俺は呟いた。
蒼太が記録していた紙を確認する。
「二百十七人です」
俺は驚いて彼を見る。
「数えてたのか?」
「だいたいですけど」
その横を通り過ぎた陽斗が、落ち着いた声で訂正する。
「二百二十二人です」
……。
俺は小さくため息をついた。
そういえば――。
こいつも人数を数えていたんだった。
それにしても。
まだ午前中なのに、二百人を超えている。
どうやら『言葉の小さな広場』は、俺たちが想像していた以上に多くの人の心を引き寄せているらしい。
別のクラスの先生が、掲示板の前までやって来た。
しばらくメッセージを眺めたあと、笑顔でこちらを見る。
「すみません」
「私たち教師も参加してもいいでしょうか?」
舞夜はすぐに笑顔で首を横に振った。
「もちろんです」
「むしろ、参加していただけたら嬉しいです」
先生は白いカードを一枚手に取った。
そして、しばらく考えながら文章を書き始める。
その様子を見ていた他の先生たちも――。
次々とカードを手に取った。
数分後には、教師だけではなく、学校の職員や事務員までメッセージを残していた。
愛莉が驚いたようにその光景を見る。
「先生たちまで参加するなんて、思わなかった」
舞夜は静かに答えた。
「言葉は、誰のためのものでもありますから」
「年齢なんて関係ありません」
その言葉を聞きながら、俺は掲示板を見る。
そこには、生徒たちの言葉に混ざって、大人たちの言葉も少しずつ増えていた。
この場所では――。
先生も、生徒も関係ない。
誰もが一人の人間として、自分の言葉を残すことができる。
それが、なんだか不思議で――。
同時に、とても温かいことのように感じられた。
昼近くになった頃――。
一人の年配の男性が教室へ入ってきた。
首からカメラを下げ、来賓用の名札を身につけている。
その男性は、しばらくの間、掲示板を眺めていた。
そして、ゆっくりと俺たちのところへ近づいてくる。
「こんにちは」
「私はこの学校の卒業生なんです」
「今日は文化祭に招待されましてね」
陽斗が丁寧に頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました」
男性は一枚のカードを手に取った。
そして――。
数分間、静かに文章を書き続けた。
書き終えると、自分の手で掲示板へカードを掛ける。
そして、俺たちを振り返って微笑んだ。
「ありがとう」
「誰かのために文章を書くなんて、何年ぶりでしょうね」
そう言い残すと、男性はゆっくりと教室を出ていった。
俺たちは、誰も何も言わなかった。
ただ――。
その背中を静かに見送った。
短い時間だった。
それでも、その人にとっては――。
きっと、この文化祭が大切な思い出の一つになったのだろう。
正午頃になると――。
しばらくの間、来場者の数が少なくなった。
ほとんどの生徒が昼食を取ったり、他の企画を見に行ったりしているのだろう。
涼が椅子に座り込み、大きく息を吐く。
「もう疲れた……!」
松も隣の椅子に腰を下ろした。
「まさか、紙を配るだけでこんなに疲れるとは思わなかった」
陽斗が二人を見ながら、冷静に言う。
「君たちは全員と話していたからでしょう」
「それも仕事だろ?」
涼が反論する。
「そういうことにしておきます」
みすずが笑った。
「でも、涼くんのおかげで、みんな楽しそうでしたよ」
「だろ?」
涼は少しだけ元気を取り戻す。
「じゃあ、もう少し頑張るか!」
「休憩したばかりでしょう」
陽斗が呆れたように言う。
俺はそのやり取りを見ながら笑った。
午前中からずっと忙しかった。
それでも――。
みんなが楽しそうにしているのを見ると、不思議と疲れを忘れられる気がした。
昼休みの静かな時間を利用して――。
舞夜が掲示板の前へ歩いていった。
そして、貼られているメッセージを一枚ずつ、ゆっくりと目で追っていく。
俺も彼女の隣に立った。
「どのメッセージが一番好き?」
そう尋ねると、舞夜は少し考えた。
「一つには決められません」
「どうして?」
「だって……」
舞夜は掲示板を見つめながら答える。
「ここにある言葉は、全部、それを書いた人にとって大切なものだからです」
少しの沈黙。
そして――。
舞夜は、一枚の黄色いカードを指差した。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
> 「今日は昨日より、少しだけ勇気を出せた。」
舞夜は、その言葉を見ながら微笑む。
「……これかもしれません」
「短いから?」
俺が聞くと、舞夜は首を横に振った。
「違います」
「時には……」
「それだけで十分だからです」
「大きな変化なんて、必要ありません」
「ただ、一歩踏み出すだけでいい」
俺も、そのカードを見つめた。
たった一文。
それなのに――。
不思議なくらい、心に残る言葉だった。
そして俺は、ふと考えた。
舞夜自身も――。
いつか、何かに向かって一歩を踏み出そうとしているのだろうか。
そんなことを思いながら、俺は彼女の横顔を見つめていた。
教室の入口から――。
蓮が静かにこちらを見ていた。
掲示板を見ているわけではない。
来場者の様子を眺めているわけでもない。
その視線は、舞夜に向けられていた。
そして――。
一度、俺へ視線を移す。
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、こちらへ歩いてくる。
「南」
「ん?」
蓮は掲示板へ目を向けた。
そして、静かに口を開く。
「今なら、どうしてこの場所がこんなに人気になったのか、わかる気がする」
「言葉がいいから?」
俺が尋ねると、蓮はゆっくり首を横に振った。
「違う」
「誰かが、自分のことより先に、他の人のことを考えて作ったからだ」
蓮は一瞬だけ、舞夜を見る。
彼女はまだ掲示板のメッセージを読んでいた。
「それが、伝わってるんだと思う」
それだけ言うと――。
蓮は踵を返した。
「じゃあな」
そのまま教室を出ていく。
俺はしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
何を言いたかったのか。
完全には理解できない。
けれど――。
一つだけ、はっきりしていることがあった。
蓮はもう、舞夜の正体や過去を探ろうとしているわけじゃない。
ただ――。
彼女のことを理解しようとしている。
そして、少しずつそれができるようになっている。
俺は舞夜を見る。
彼女は何も知らず、静かに笑っていた。
その姿を見ながら――。
俺も小さく笑った。
第五十九話『言葉が集まる場所』を読んでいただき、ありがとうございました。
『言葉の小さな広場』には、生徒だけでなく、先生や卒業生まで参加するようになりました。
そして蓮もまた、少しずつ舞夜という人を理解し始めています。
この場所に集まった言葉が、これから三人の関係にどんな変化をもたらすのでしょうか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




