約束が動き出す日
家に着いた頃には――。
太陽はすっかり沈んでいた。
玄関に鞄を置き、俺は大きく伸びをする。
一日中、箱を運んだり、ポスターを切ったり、飾り付けを手伝ったりしていたせいで、肩が重かった。
「ただいま」
「おかえり」
台所から母さんの声が返ってくる。
家中にカレーのいい匂いが広がっていた。
「今日はいつもより遅かったわね」
「文化祭の準備をしてたんだ」
父さんが新聞から顔を上げる。
「例の、二つの学校が一緒にやるやつか?」
「うん」
「どうやら、生徒より周りのほうが盛り上がってるみたいだけど」
その時――。
妹の妙子が、いたずらっぽい笑顔を浮かべながら現れた。
「それで?」
「今日もあの子、一緒だったの?」
俺はため息をつく。
「どの子?」
「髪の長い子」
……。
誰のことを言っているのか、聞くまでもなかった。
「うん」
「彼女も手伝ってくれたよ」
妙子は満足そうに笑う。
「最近、『あのクラスメイト』って言わなくなったね」
「今じゃ、名前を言わなくても誰のことかわかってるじゃん」
「最初からわかってたよ」
「へえ……」
それ以上は何も言わなかった。
妹と口論したところで、最初から勝ち目なんてない。
俺はそう判断して、黙って夕食の席についた。
夕食を終えたあと――。
俺は自分の部屋へ戻った。
机の上にスマートフォンを置いた、その瞬間。
画面が明るくなる。
表示された名前を見て、思わず瞬きをした。
八神舞夜。
彼女からメッセージが来るのは、あまり多くない。
俺はすぐに画面を開いた。
> 舞夜:
> こんな時間にごめんなさい。
思わず笑ってしまう。
俺は返信を打った。
> 大樹:
> 気にしなくていいよ。どうかした?
すると、すぐに返信が届いた。
> 舞夜:
> 掲示板に使う言葉を見直していたんです。
> もう少し、いい言葉を見つけました。
数秒後――。
新しいメッセージが届く。
> 「数分の出会いが、一生の思い出になることがある。」
俺はその文章を二度読んだ。
そして、もう一度。
……。
いかにも舞夜らしい言葉だった。
シンプルなのに――。
どこか心に残る。
俺は返信を打つ。
> 大樹:
> 前の言葉より、こっちのほうが好きだな。
数秒後。
返信が届いた。
> 舞夜:
> ありがとうございます。
> おやすみなさい、南くん。
俺はしばらく、その画面を見つめていた。
たったそれだけの短いやり取り。
それなのに――。
なぜか、自然と笑みがこぼれた。
翌日の夜――。
街の別の場所では、蓮が交換留学生たちのために用意された部屋の机に向かっていた。
机の上には、黒い表紙のノートが一冊置かれている。
蓮はそれをゆっくりと開いた。
そして、ある名前を書き込む。
「八神舞夜」
その下に、もう一行。
「思っていたより、ずっと楽しそうにしている」
蓮はしばらく、その言葉を見つめていた。
ここ数日。
舞夜の様子を見てきた。
以前とは違う表情。
自然にこぼれる笑顔。
そして――。
南大樹と一緒にいる時に見せる、穏やかな雰囲気。
蓮は小さく息を吐く。
「もしかしたら……」
少し間を置いて。
「それだけで十分なのかもしれないな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
そして、ノートを閉じる。
部屋の明かりを消すと――。
静かな闇が部屋を包んだ。
翌朝――。
学校は、いつも以上に活気に満ちていた。
校庭では、生徒たちが机を運んでいる。
別の場所では、ポスターを壁に貼っている生徒もいる。
先生たちは、山のようにある備品のチェックに追われていた。
そして――。
涼は校庭を走り回っていた。
片手には、大きなテープのロール。
「松!」
「何だ?」
「紙の花を飾る場所を見つけたぞ!」
松が驚いたように目を見開く。
「まさか……」
「百三十四個全部か!?」
「百三十四個全部だ!」
涼は誇らしげに答える。
その後ろを、陽斗がノートを片手に歩いていた。
「ちなみに、まだ四十二個余っています」
「花は余っても困らない!」
涼は走りながら叫ぶ。
俺はその様子を見て、思わず首を振った。
……。
こいつらが近くにいる限り、退屈することはなさそうだった。
教室に入ると――。
舞夜はすでに机の上へいくつかの紙を並べていた。
俺が近づくと、彼女が顔を上げる。
「おはようございます、南くん」
「おはよう」
俺は鞄を置きながら、昨夜のメッセージを思い出す。
「昨日送ってくれた言葉……」
「うん」
「やっぱり、あれを使おう」
そう伝えると、舞夜の目が少しだけ輝いた。
「本当ですか?」
「うん」
「きっと、あの言葉に共感する人は多いと思う」
舞夜は嬉しそうに小さく頭を下げる。
「よかった……」
その表情を見ていると――。
昨日、あの言葉を送ってきた理由が少しだけわかった気がした。
彼女にとって、ただの文化祭の文章ではない。
きっと――。
何か特別な意味があるのだろう。
そんなことを考えていると。
教室の扉が開いた。
「みんな、準備はいいですか?」
先生が入ってくる。
そして、手を叩いて全員の注意を集めた。
「今日は、いよいよ文化祭当日です!」
教室中から歓声が上がる。
「最後まで気を抜かずに、楽しい一日にしましょう!」
「はい!」
みんなが元気よく返事をする。
俺も周囲を見渡した。
完成した装飾。
準備された材料。
そして、これからたくさんの言葉が書き込まれる予定の掲示板。
いよいよ始まる。
そう思った瞬間――。
昨日、舞夜と交わした小さな約束が頭に浮かんだ。
この時の俺はまだ知らなかった。
あの約束が――。
今日一日を通して、俺たちにとって特別な意味を持つことになるなんて。
文化祭が始まる直前――。
教室の中は、最後の確認で慌ただしくなっていた。
涼は紙の花を並べ直している。
松は風船を壁に固定していた。
愛莉とみすずは掲示板の位置を確認している。
陽斗と蒼太は、足りないものがないか最後のチェックをしていた。
そんな中――。
俺は完成した掲示板を見つめる。
そこには、昨日まで何もなかった場所に、色とりどりの紙が並べられている。
これから、たくさんの人がここへ言葉を残していく。
「南くん」
隣から舞夜の声が聞こえた。
「はい?」
「昨日の約束……」
舞夜は少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「忘れてませんよね?」
俺も笑った。
「もちろん」
「文化祭が終わったら、一緒に書こう」
「はい」
舞夜は嬉しそうにうなずく。
その瞬間――。
校内に開始のアナウンスが響いた。
「文化祭、開会します!」
教室の外から、一斉に歓声が上がる。
涼が拳を握る。
「よし! いよいよだ!」
松も笑顔でうなずく。
「絶対に成功させよう!」
みんながそれぞれの持ち場へ向かっていく。
俺も舞夜と顔を見合わせる。
「行こうか」
「はい」
俺たちは並んで、教室の入口へ向かった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
今日、この場所に残されるたくさんの言葉の中に――。
俺たち自身の気持ちを大きく変える一つの言葉があることを。
そして――。
舞夜と交わした小さな約束が、想像していた以上の意味を持つことになるなんて。
第五十八話『約束が動き出す日』を読んでいただき、ありがとうございました。
いよいよ合同文化祭が始まりました。
舞夜と大樹が交わした小さな約束も、これから一つの形になっていきます。
そして、この文化祭で二人が残す言葉とは――。
次の話から、いよいよ文化祭本番です。
それでは、次の話でお会いしましょう。




