小さな約束
その日の最後のチャイムが校内に響くまで、文化祭の準備は続いた。
装飾のほとんどは、すでに完成している。
色を塗ったばかりの画用紙は、乾かすために机の上へ並べられていた。
紙で作った花は、教室のほぼ半分を埋め尽くしている。
そして、来場者がメッセージを書くための掲示板も、少しずつ形になってきていた。
先生は完成したものを見渡し、満足そうにうなずく。
「みなさん、よく頑張りましたね」
「まだ細かい部分は残っていますが、順調に進んでいます」
涼が両腕を高く上げる。
「任務完了!」
すると、陽斗がノートから目を離さずに訂正した。
「八十二パーセント完了です」
涼が首をかしげる。
「そこまで数えたの?」
「はい」
「……」
「どうして?」
「誰かが数えないといけなかったので」
松が吹き出した。
「日に日に、お前の頭の中がわからなくなってくるよ」
陽斗は相変わらず冷静に答える。
「僕も、君たち二人がどういう思考をしているのか、よくわかりません」
……。
どうやら、今日もいつも通りのようだった。
みんなが材料を片付け始めた、その時だった。
先生が再び口を開く。
「あと二人だけ、少し残ってもらえますか?」
「文化祭の会場へ、この箱を運んでほしいんです」
そう言われた瞬間――。
俺が何か言うより先に、涼が勢いよく俺の手を挙げた。
「南がやります!」
「え……?」
「それから、八神さんも!」
舞夜が驚いたように瞬きをする。
「え?」
先生は嬉しそうにうなずいた。
「それでは、お願いします」
「ありがとうございます」
涼は満足そうな笑顔を浮かべている。
「どういたしまして、先生!」
俺は涼をじっと見つめた。
「……これ、あとで貸しだからな」
「いつでもどうぞ!」
涼は悪びれる様子もなく笑った。
……。
絶対、わざとだ。
それくらいはわかる。
とはいえ――。
隣にいる舞夜を見ると、彼女も小さく笑っていた。
「行きましょうか、南くん」
「……そうだな」
俺たちは箱を一つずつ持ち上げ、教室を出た。
廊下には、まだ文化祭の準備をしている生徒たちの声が響いていた。
その中を並んで歩きながら――。
俺は少しだけ、涼に感謝してしまった。
数分後――。
俺と舞夜は、それぞれ一つずつ箱を抱えながら廊下を歩いていた。
箱はそれほど重くない。
ただ、かなり大きい。
「……涼、絶対わざとだろ」
俺が呟くと、舞夜が小さく笑った。
「たぶん、そうだと思います」
「やっぱり?」
「はい」
二人で顔を見合わせる。
そして、同時に小さく笑った。
やがて、文化祭の会場となる教室へ到着する。
まだ誰もいない。
中にはいくつかの机が積まれていて、壁際には木製のパネルが立てかけられていた。
俺たちは持ってきた箱を、隅へ置く。
「よし」
俺は腰を伸ばしながら息を吐いた。
「これで終わりだな」
舞夜は部屋の中を見渡す。
「あと二日……」
「ここが、たくさんの人でいっぱいになるんですね」
「そして、たぶん涼がその中を走り回ってる」
俺がそう言うと――。
舞夜は小さく吹き出した。
「ふふっ」
「それは間違いなさそうです」
俺も笑う。
まだ何もない静かな教室。
けれど、あと二日もすれば。
ここにはたくさんの人が集まり、笑い声が響くのだろう。
そう考えると――。
少しだけ楽しみになってきた。
会場となる教室を出ると――。
廊下には、もうほとんど誰も残っていなかった。
窓から差し込む夕暮れの光が、床をオレンジ色に染めている。
俺たちは急ぐことなく、ゆっくりと歩いていた。
すると、舞夜がふと口を開く。
「南くん」
「ん?」
「今日みたいに、みんなで何かを準備するのって……」
少しだけ言葉を探すように間を置く。
「久しぶりなんです」
俺は舞夜を見る。
「前の学校では、文化祭とかやらなかったの?」
「ありました」
舞夜は静かに答えた。
「でも……」
そこで言葉が途切れる。
俺はそれ以上、聞かなかった。
舞夜も、続きは話さない。
ただ、夕暮れの廊下を二人で歩いていく。
不思議と気まずさはなかった。
むしろ――。
その沈黙が、今は心地よく感じられた。
しばらくして、舞夜が小さく笑う。
「今日……」
「とても楽しかったです」
その声には、いつもの穏やかさとは少し違うものがあった。
本当に楽しんでいたのだと、すぐにわかった。
「俺も」
そう答えると、舞夜は嬉しそうに微笑んだ。
夕暮れの光の中で見たその笑顔が――。
なぜか、いつもより少しだけ印象に残った。
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廊下を曲がったところで――。
俺たちは、壁に並べられた一枚の大きなパネルに気づいた。
そこには、過去の文化祭の写真が飾られている。
古いものは十年以上前のもの。
最近のものも、いくつか並んでいた。
舞夜が足を止める。
「……」
一枚の写真をじっと見つめている。
そこには、紙灯籠で飾られた舞台の前で、笑顔で並ぶ生徒たちが写っていた。
「みんな、楽しそうですね」
舞夜が小さく呟く。
「そうだな」
俺も写真を見る。
「きっと、何年か後には」
「誰かが俺たちの写真を見て、同じことを思うんだろうな」
舞夜は少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
俺たちはしばらく、その写真を眺めていた。
そこに写っている人たちの名前も、どんな毎日を過ごしていたのかも、俺たちは知らない。
それでも――。
一枚一枚の写真には、その瞬間にしか存在しなかった物語が残っているように感じた。
笑顔。
友達との時間。
学校で過ごした何気ない一日。
どれも、その時には当たり前だったのかもしれない。
けれど、時間が過ぎれば――。
きっと大切な思い出になる。
「……文化祭って、不思議ですね」
舞夜がそう言った。
「何が?」
「終わったあとも、こうして残るものがあるんです」
俺はもう一度、写真へ目を向けた。
そして、静かにうなずいた。
「確かに」
その言葉が、なぜか心に残った。
写真を見終えたあと――。
俺たちは再び出口へ向かって歩き始めた。
しばらく無言で歩いていると、舞夜がふと口を開く。
「南くん」
「ん?」
「文化祭が終わったら……」
「私たちも、あの掲示板にメッセージを書きませんか?」
俺は少し驚いて彼女を見る。
「俺たちも?」
「はい」
舞夜は小さくうなずく。
「さっき作った言葉じゃなくて」
「他の生徒たちと同じように、自分たちの思いを自由に書くんです」
「誰が書いたのかは、秘密にして」
俺は少し考えた。
そして、笑いながらうなずく。
「いいな」
「それなら、俺たちもこの文化祭の思い出に参加できる」
舞夜は嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「じゃあ……約束です」
そう言って、舞夜は小指を差し出した。
俺は少し驚いた。
「子供の頃みたいだな」
「ふふっ」
舞夜は小さく笑う。
「そうですね」
俺も小指を差し出す。
そして――。
二人の小指が、そっと絡み合った。
ほんの数秒。
それだけの、小さな約束。
けれど――。
なぜか胸の奥が、少しだけ温かくなった。
ただ掲示板に一つのメッセージを残す。
それだけの約束のはずなのに。
この瞬間を、いつまでも忘れたくない。
そんな気持ちが、自然と胸の中に生まれていた。
第五十七話『小さな約束』を読んでいただき、ありがとうございました。
文化祭の準備も、いよいよ終わりが近づいてきました。
そして、夕暮れの廊下で交わされた舞夜と大樹の小さな約束。
二人が書くメッセージには、どんな想いが込められるのでしょうか。
次はいよいよ、文化祭当日です。
それでは、次の話でお会いしましょう。




