夕暮れのしおり
午後の授業は、昨日よりもずっと穏やかな雰囲気で進んでいった。
交換留学生たちも、クラスのみんなと自然に打ち解け始めている。
授業の合間には笑い声が聞こえ。
休み時間には、あちこちで楽しそうな会話が交わされていた。
気づけば、交換留学が始まった初日のような緊張感は、ほとんど消えていた。
そして――。
放課後を告げるチャイムが校内に鳴り響く。
「終わったー!」
真っ先に声を上げたのは涼だった。
大きく両腕を伸ばしながら、満足そうに笑っている。
「この学校、思ってたよりずっと面白いな!」
その言葉に、松は誇らしげに胸を張った。
「だろ?」
「だから最初から言ってたじゃん!」
「まだ料理部も見てみたいし!」
「俺はもう一回体育館に行きたい!」
二人は次々と話し始める。
その様子を見た陽斗は、小さく息をついた。
「二人とも……」
「疲れるということを知らないんですか?」
「知らない!」
「まったくだ!」
返事までぴったりそろう。
……。
俺は思わず苦笑した。
ここまで息が合うと、もはや才能と言っていいのかもしれない。
授業が終わると、生徒たちは少しずつ帰り支度を始めた。
教室のあちこちで、「また明日」と笑い合う声が聞こえる。
そんな中、みすずは舞夜のもとへ歩み寄った。
「八神さん」
舞夜は穏やかに振り返る。
「今日は本当にありがとう」
「いろいろな場所を案内してくれて、とても楽しかったよ」
そう言って、みすずは優しく微笑んだ。
舞夜も小さく会釈を返す。
「こちらこそ」
「私も、とても楽しかったです」
少しだけ間を置いてから続ける。
「残りの日も、今日みたいに楽しく過ごせたら嬉しいですね」
「きっと大丈夫」
みすずは自信ありげにうなずいた。
「みんな、もうすっかり仲良くなってるもの」
その言葉どおりだった。
初日はどこか遠慮がちだった交換留学生たちも、今では自然にクラスへ溶け込んでいる。
その様子を見ていると、交換留学は思っていた以上にうまくいっているように思えた。
その頃、蒼太が俺のところへやって来る。
「南」
「今日はありがとう」
「質問ばかりして悪かったね」
俺は苦笑しながら首を横に振る。
「そんなに多くなかっただろ」
蒼太は少し笑った。
「いや」
「君が思っているより、ずっと聞いてたよ」
……そう言われてみれば、その通りかもしれない。
俺たちは笑い合いながら、軽く握手を交わした。
帰り支度を終え、ノートを鞄へしまおうとした、その時だった。
「南」
静かな声に呼ばれる。
顔を上げると、蓮がこちらを見ていた。
「少し時間ある?」
「もちろん」
俺はうなずき、蓮と一緒に教室の隅へ移動する。
周りにはまだ何人か生徒が残っていたが、この距離なら話は聞こえないだろう。
特別深刻な雰囲気ではない。
けれど、二人だけで話したいことがあるようだった。
蓮は穏やかな表情のまま口を開く。
「お礼を言いたくて」
「お礼?」
思わず聞き返す。
「うん」
「交換留学が始まってから」
「君はずっと、僕たちが過ごしやすいように気を配ってくれていた」
俺はすぐに首を横へ振った。
「そんな大したことはしてないよ」
「案内役として当たり前のことをしただけだ」
蓮は静かに微笑む。
「君はそう思っているんだろうね」
「でも、外から見ているとよくわかる」
「君は自然に人を気遣える人なんだ」
その言葉に、返事ができなかった。
何と言えばいいのかわからなかったからだ。
蓮は小さく一礼する。
「その優しさは、これからも変えないで」
「そんな人は、そう多くないから」
そう言い残すと、何事もなかったようにみんなのところへ戻っていった。
……今日だけで二度目だ。
蓮の言葉は、不思議なくらい心に残る。
学校を出る頃には――。
空はゆっくりと茜色へ染まり始めていた。
昼間ほどの暑さはもうない。
夏の夕風が、心地よく頬をなでていく。
いつもの帰り道を歩いていると、不意に後ろから声が聞こえた。
「南くん」
振り返る。
そこには舞夜が立っていた。
「八神」
彼女は少しだけ歩み寄る。
「南くんも、この道ですか?」
「うん」
「いつもここを通って帰るよ」
舞夜は安心したように微笑んだ。
「それなら……」
少しだけ言葉をためる。
「一緒に帰ってもいいですか?」
その問いかけは、とても自然だった。
「もちろん」
俺が笑って答えると、舞夜も嬉しそうに微笑む。
二人でゆっくり歩き始めた。
しばらくの間、会話はなかった。
けれど、不思議と気まずさは感じない。
舞夜といる時の沈黙は、いつも穏やかだった。
風の音。
木々の葉が揺れる音。
遠くから聞こえる蝉の声。
そんな何気ない音を聞きながら歩くだけで、十分心地よかった。
しばらくして、俺は静かに口を開く。
「今日のピアノ」
「すごく良かったよ」
舞夜は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
「実は……」
「すごく緊張していたんです」
俺は驚く。
「あれで?」
「全然そうは見えなかったけど」
舞夜はくすっと笑う。
「それなら」
「うまく隠せたみたいですね」
「うまく隠せたみたいですね」
舞夜がそう言って微笑む。
その言葉を聞いた瞬間――。
俺は思わず口を開いていた。
「八神は、本当に隠すのが上手だよな」
言ってから気づく。
……しまった。
その言葉には、別の意味も含まれてしまっていた。
舞夜も、それに気づいたらしい。
一瞬だけ目を丸くする。
二人の間に、小さな沈黙が流れた。
夏の風が静かに吹き抜ける。
しばらくして。
舞夜が小さく笑った。
「そうかもしれません」
その声は、とても穏やかだった。
「でも……」
彼女は空を見上げる。
夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていた。
「最近は」
「隠すことが、少しずつ難しくなってきた気がします」
俺は静かに彼女を見る。
「例えば?」
そう尋ねると、舞夜は少しだけ困ったように笑う。
「まだ……」
「その質問には答えられません」
それから、小さく息をついた。
「でも」
「いつかきっと、お話しします」
その言葉に、俺は何も聞き返さなかった。
ただ静かにうなずく。
「わかった」
「その時まで待ってる」
舞夜は安心したように微笑んだ。
その笑顔は、夕暮れの柔らかな光に照らされて、いつもより少しだけ優しく見えた。
やがて、いつもの分かれ道へたどり着いた。
舞夜は静かに足を止める。
「南くん」
そう呼ぶと、鞄の中へ手を入れた。
取り出したのは、小さなしおりだった。
桜の花があしらわれた、上品なデザイン。
「これ……」
舞夜は少し照れくさそうに、それを俺へ差し出した。
「今日、文芸部でいただいたものなんです」
「でも」
「南くんが持っていたほうが、きっと大切に使ってくれると思って」
思わず目を瞬かせる。
「俺に?」
舞夜は優しくうなずいた。
「はい」
俺はしおりを両手で受け取る。
決して高価なものじゃない。
それでも、不思議なくらい温かみを感じた。
「ありがとう」
「大事にするよ」
そう言うと、舞夜は嬉しそうに微笑んだ。
「知ってます」
その一言が、胸に残る。
交差点で別れを告げると、舞夜はゆっくりと歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、俺は今日一日を思い返す。
涼は相変わらずクラスを振り回していた。
蒼太とみすずは、すっかりみんなと打ち解けている。
陽斗は最後まで真面目だった。
そして――蓮。
最初は舞夜の秘密を探ろうとしているように見えた。
けれど今は違う。
秘密を暴きたいわけじゃない。
ただ、舞夜という人を理解したい。
そんなふうに思い始めている気がした。
俺はポケットへ手を入れる。
指先に触れたのは、舞夜からもらったしおり。
その感触に、自然と笑みがこぼれる。
この交換留学で変わるのは、留学生たちだけじゃない。
きっと――。
俺たちの日常も、少しずつ新しい形へ変わり始めている。
第五十三話『夕暮れのしおり』を読んでいただき、ありがとうございました。
交換留学にも少しずつ慣れ、みんなの距離は確かに縮まり始めています。
そして、舞夜から大樹へ贈られた小さなしおりは、二人の関係が少しずつ変わり始めていることを静かに物語っていました。
それでは、次の話でお会いしましょう。




