書き綴る想い
一時間目は、大きな出来事もなく終わった。
交換留学用に組まれた特別時間割のおかげで、青龍学園の生徒たちは今日もさまざまな活動を体験することになっている。
チャイムが鳴ると、先生が教壇の前に立った。
「それでは、みなさん」
「今日は校内の部活動を見学してもらいます」
「案内役のみなさんは、一緒に回りながら質問があれば答えてあげてくださいね」
その説明が終わる前に、勢いよく手が挙がった。
「先生!」
もちろん、涼だ。
「見学する順番は自分たちで決めてもいいですか?」
先生は少し考えたあと、微笑みながら答えた。
「見学予定の部を全部回るなら構いませんよ」
「やった!」
涼は満面の笑みで拳を握る。
その様子を見て、松も嬉しそうに声を上げた。
「自由行動ってことだな!」
「違うと思うぞ」
俺は小さくため息をつく。
先生は確かに順番を自由にしていいと言っただけだ。
自由行動を許可したわけじゃない。
だけど――。
この二人の頭の中では、もう完全に都合よく変換されている気がした。
……嫌な予感しかしない。
今日も、平穏な一日にはならなそうだった。
最初に向かったのは、文芸部だった。
静かな廊下の奥にある部室の扉を開けると、本の香りがふわりと漂ってくる。
室内には小説やエッセイ、文芸誌、そして学校新聞まで、さまざまな本がきれいに並べられていた。
「ようこそ」
顧問の先生が優しく微笑みながら迎えてくれる。
「どうぞ、ゆっくり見ていってください」
「失礼します」
俺たちは軽く頭を下げ、中へ入った。
舞夜は部室を見渡した瞬間、小さく目を輝かせた。
本棚を見つめるその表情は、普段よりもずっと柔らかい。
ここが好きなんだろう。
見ているだけで、それが伝わってきた。
その変化に真っ先に気づいたのは、みすずだった。
「八神さんって、本当に本が好きなんだね」
舞夜は嬉しそうにうなずく。
「はい。とても好きです」
「好きな作家さんはいるの?」
少しだけ考えてから、舞夜は静かに答えた。
「たくさんいます」
「でも、一番好きなのは……」
「何気ない日常を描いているのに、読み終わったあと心に何かが残る作品です」
その言葉を聞いて、陽斗が小さくうなずいた。
「派手な展開じゃなくても、読者の心を動かせる物語ですね」
舞夜は嬉しそうに微笑む。
「はい。そういう作品に、とても憧れます」
二人は自然と文学の話を続けていく。
好きな作家。
好きな表現。
物語の終わり方。
その会話はとても楽しそうで、まるで前から知り合いだったかのようだった。
俺は少し離れた場所から、その様子を静かに眺めていた。
みんなが本棚を見て回っていると――。
文芸部の顧問の先生が、一つの箱を両手で運んできた。
「よかったら、こちらも見ていってください」
箱の中には、何冊ものノートが丁寧に並べられている。
「これは、昔の部員たちが書いた原稿です」
「自由に読んでも構いませんよ」
「へえ!」
真っ先に反応したのは涼だった。
適当に一冊を手に取り、勢いよくページをめくり始める。
「どんな話を書いてたんだろう」
その隣では、松も別のノートを開いている。
「お、これ結構面白いぞ!」
二人はすっかり夢中になっていた。
一方で――。
舞夜は箱の中から、一冊の古いノートをそっと取り上げる。
まるで壊れ物を扱うような、とても優しい手つきだった。
最初の数ページだけ静かに目を通す。
そして、しばらくすると、ゆっくりとノートを閉じた。
「どうだった?」
俺が尋ねると、舞夜はどこか懐かしそうに微笑んだ。
「とても素敵なお話でした」
「でも……」
「少しだけ直したほうがいいところもありました」
その言葉を聞いた顧問の先生が、くすりと笑う。
「見る目がありますね」
「その作品を書いた生徒は、そのあと全国の小説コンクールで入賞したんですよ」
舞夜は驚いたように目を見開いた。
「本当ですか?」
「ええ」
先生は優しくうなずく。
「卒業したあと、この部に戻ってきてね」
「『ここでたくさん指導してもらえたから今の自分があります』って、お礼を言ってくれたんです」
舞夜は何も言わなかった。
ただ静かに、そのノートの表紙へ指先をそっと添える。
その横顔には――。
憧れと、少しだけ切ないような想いが浮かんでいるように見えた。
みんなが部室を見て回っている間、俺は舞夜のそばへ歩み寄った。
彼女は、まだあのノートを静かに見つめている。
「気に入ったみたいだな」
俺が声をかけると、舞夜は小さくうなずいた。
「はい」
「とても好きなお話でした」
そう答えても、彼女の視線はまだノートから離れない。
「作家になりたいからか?」
そう聞くと、舞夜は少しだけ考えてから答えた。
「それもあります」
「でも、それだけじゃありません」
彼女はノートをそっと閉じた。
「最初から完璧な物語を書ける人なんて、きっといないんです」
「みんな、たくさん失敗して」
「何度も書き直して」
「少しずつ上手になっていくんだと思います」
その言葉を聞いて、思わず苦笑してしまう。
「それを聞くと、少し安心するな」
舞夜がこちらを見る。
「どうしてですか?」
昨日のゲームで話したことを思い出す。
「子どもの頃、小説を書こうとしたことがあるって話、覚えてるだろ」
舞夜は静かにうなずいた。
「覚えています」
「今でも時々は書こうと思うんだ」
「でも、いつも最初の数ページで止まる」
「続きを書けなくなるんだよ」
舞夜はくすりと笑った。
「それなら」
「いつか読ませてください」
「え?」
思わず聞き返す。
「そんな恥ずかしいもの見せられるか」
そう言うと、舞夜は優しく首を横に振った。
「笑ったりしません」
「本当に?」
「はい」
その返事には、一切迷いがなかった。
まっすぐで、温かい声だった。
だからこそ――。
ほんの少しだけ。
いつか本当に見せてもいいのかもしれない、と。
そんなことを考えてしまった。
部室の反対側では――。
蓮が一冊の本を手に取り、静かにページをめくっていた。
誰が見ても、読書に集中しているように見える。
少なくとも、表向きは。
けれど。
数ページ読むたびに、彼はふと顔を上げる。
その視線の先にいるのは――。
舞夜と俺だった。
二人が話す様子を、ただ静かに見つめている。
疑っているわけではない。
警戒しているわけでもない。
その瞳に浮かんでいたのは、純粋な興味だった。
「何か面白い本でも見つけた?」
後ろから蒼太が声をかける。
蓮は視線を本へ戻し、静かにページを閉じた。
「うん」
「見つけたよ」
「どんな話?」
蒼太が興味深そうに尋ねる。
蓮は小さく笑う。
「……でも」
「その答えは、この本の中には書いてなかった」
「え?」
蒼太は首を傾げた。
蓮は軽く肩をすくめる。
「気にしないで」
「独り言みたいなものだから」
それ以上は何も言わない。
蒼太も深く追及することなく、「そう?」とだけ返して別の本棚へ向かっていった。
一人残った蓮は、もう一度だけ静かに視線を上げる。
舞夜が笑う。
それを見て、南も自然に笑い返す。
本当に、ごく当たり前のやり取り。
けれど、その自然さこそが、蓮には少しだけ気になっていた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
その続きを口にすることはなかった。
まだ確信はない。
だからこそ、急いで結論を出すつもりもない。
ただ静かに。
少しずつ。
その答えを見つけようとしていた。
文芸部を見学し終えると、顧問の先生が軽く手を叩いた。
「本日は来てくれてありがとうございました」
「楽しんでもらえたなら嬉しいです」
「ありがとうございました」
俺たちはそろって頭を下げ、部室をあとにした。
廊下へ出ると、涼が大きく背伸びをする。
「よーし!」
「次はどこに行こう!」
その声に、松が勢いよく手を挙げた。
「もちろん運動部だ!」
「賛成!」
二人は迷うことなく意見が一致する。
その様子を見て、陽斗は小さくため息をついた。
「……予想どおりですね」
「たぶん、あの二人なら一日中でも運動部にいられそうです」
「違いない」
俺も苦笑しながら答える。
涼と松は同時に親指を立てた。
言葉なんて必要ない。
表情だけで十分伝わってくる。
「じゃあ、行こう!」
二人が先頭を歩き始める。
俺たちも、そのあとに続いた。
歩きながら、ふと舞夜のほうを見る。
彼女は文芸部でもらった案内パンフレットを、胸の前で大切そうに抱えていた。
何気ない一冊の紙。
けれど、その手には思った以上に力が入っている。
まるで、大切な宝物を失わないように守っているかのようだった。
俺は何も聞かなかった。
理由を尋ねる必要はない気がしたからだ。
あの部室で見た古い原稿。
夢を叶えた先輩の話。
そして、舞夜が見せたあの優しい表情。
きっと、そのパンフレットはただの記念品じゃない。
彼女にとっては――。
いつか自分も、その場所へたどり着きたいという願いを思い出させてくれる、小さな約束なのかもしれなかった。
第五十話『書き綴る想い』を読んでいただき、ありがとうございました。
文芸部でのひとときは、舞夜にとって特別な時間となりました。
先輩が書き続けた物語、努力の末につかんだ夢、そして「最初から完璧な作品を書く人はいない」という言葉。
それらは、舞夜だけでなく、大樹の心にも静かに残ることになります。
一方で、蓮は二人の何気ないやり取りを見つめながら、少しずつ自分の中の疑問を深めていました。
夢を追いかける者たちと、それを見守る者。
その想いは、これからどのように交わっていくのでしょうか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




