答えを探す視線
高校に入ってから、一つだけ学んだことがある。
それは、とても単純な法則だった。
平和すぎる一日があったなら――。
次の日は、その分だけ騒がしくなる。
そして今週は、交換留学生まで来ている。
目立たずに一週間を終えられる可能性なんて、最初からほとんどなかった。
「おはよう」
母さんが、ご飯と味噌汁を食卓に並べながら声をかけてくる。
「……おはよう」
まだ半分眠ったまま返事をすると、母さんはじっと俺の顔を見つめた。
「なんだか、寝不足みたいな顔してるわね」
「ちゃんと寝たよ」
「何時間?」
……。
頭の中で数えてみる。
「五時間くらい」
その瞬間、母さんは呆れたようにため息をついた。
「それは『寝た』とは言わないわ」
「目を閉じていただけでしょう?」
向かいの席から、妹の多恵子が吹き出した。
「もしかして、お兄ちゃん夜中まで女の子と電話してた?」
危うくご飯を吹き出しそうになる。
「なんでそうなるんだよ」
「勘」
「その勘、一回修理に出したほうがいいぞ」
父さんは新聞を畳みながら、穏やかに口を開いた。
「そういえば、他校の生徒が来てるんだったな」
「ああ」
「一週間だけ交流することになってる」
父さんは自然な口調でうなずく。
「せっかくだし、友達を作るといい」
……簡単に言ってくれる。
まるで、パンでも買いに行くみたいな気軽さだった。
「まあ、頑張ってみるよ」
そう答えたものの――。
たぶん、半分くらいは嘘だった。
家を出ると、朝の空気は驚くほど心地よかった。
暑すぎず、寒すぎず。
歩くにはちょうどいい気温だ。
通学路には、いつもより少しだけ人が多い気がする。
耳を澄ませば、あちこちから交換留学の話題が聞こえてきた。
「青龍学園って、すごくレベルが高い学校なんでしょ?」
「成績がオール満点の生徒もいるって聞いたよ」
「女の子、すごく可愛かったよね」
……。
噂が広まる速さだけは、この学校は本当に一流だ。
そんなことを考えながら角を曲がると――。
「南ー!」
聞き慣れた元気な声が飛んできた。
振り向くと、涼がこちらへ向かって走ってくる。
鞄を片方の肩に引っかけたまま、大きく手を振っていた。
「おはよう」
「おはよう!」
「いやあ、偶然会ったな!」
俺は数秒、黙って涼を見つめる。
「……家、同じ方向だよな?」
「あ」
涼は目を丸くした。
「そうだった」
そして、何事もなかったように笑う。
……この人、本当に細かいことを気にしない。
「南って、いつも一人で登校してるの?」
「だいたいな」
「じゃあ、今日からは一人じゃない!」
「え?」
返事をする間もなかった。
涼は当然のように俺の隣へ並ぶ。
「よし、行こう!」
……もう決定事項らしい。
俺は小さくため息をつきながらも、結局そのまま一緒に歩き始めた。
たぶん、断ったところで結果は変わらなかっただろう。
しばらく歩いていると、涼が何気ない調子で口を開いた。
「そういえばさ」
「八神さんとは、どうやって知り合ったんだ?」
……来た。
いつかは聞かれると思っていた質問だ。
「同じクラスなんだ」
そう答えると、涼はすぐに首を横へ振る。
「それは知ってるよ」
「そうじゃなくてさ」
「どうやって仲良くなったの?」
少しだけ考える。
だけど、特別なきっかけなんて思い浮かばなかった。
「気づいたら、って感じかな」
「少しずつ話すようになって」
「いつの間にか仲良くなってた」
涼は納得していないような顔をした。
「それだけ?」
「それだけだ」
「もっとこう……運命的な話を期待してたのに」
「悪かったな」
俺が苦笑すると、涼は諦めずに質問を続ける。
「じゃあさ、ロマンチックな出来事とかは?」
「ない」
「転んで抱きついちゃうとか」
「ない」
「夕日を見ながらいい雰囲気になるとか」
「ない」
「雨の日に一本の傘を二人で使うとか――」
……。
その言葉に、一瞬だけ足が止まりそうになる。
あの日の帰り道が頭に浮かんだからだ。
涼は俺の反応を見逃さなかった。
「……あ」
「もしかして」
「あった?」
俺は小さく息をつく。
「雨だったから仕方なかったんだよ」
「やっぱり!」
涼は嬉しそうに笑う。
「俺の恋愛ドラマセンサーは間違ってなかった!」
「ただの偶然だ」
「いやいや、そういうところから始まるんだって!」
「お前は恋愛ドラマの見すぎだ」
「違う」
涼は得意げに人差し指を立てた。
「これは経験じゃない」
「知識だ!」
……何が違うのか、最後までよくわからなかった。
校門をくぐると、そこにはすでに松が待っていた。
俺たちの姿を見つけるなり、大きく手を振る。
「おーい!」
「やっと来たか!」
涼も負けじと元気よく手を振り返した。
「おはよう!」
「おはよう!」
二人は顔を合わせた瞬間、まるで昔からの親友のように笑い合う。
そして――。
「なあ」
松が腕を組みながら言った。
「俺たち、どっちが足速いと思う?」
「もちろん俺だろ!」
涼が即答する。
「いやいや、絶対俺だ!」
「勝負するか?」
「望むところだ!」
……まだ朝なんだけど。
俺は呆れながら二人を眺める。
交流が始まってまだ二日目。
それなのに、この息の合い方はどうなんだ。
思わず口から言葉が漏れる。
「お前らさ」
「前世で知り合いだったんじゃないか?」
二人は同時にこちらを向いた。
「それって褒めてる?」
涼が首を傾げる。
「……まだ判断できない」
正直な感想だった。
松は笑いながら肩をすくめる。
「まあ、気が合うのは確かだな!」
「だよな!」
二人はそのまま笑い合っている。
……うん。
やっぱり、この二人を止められる人間は、たぶんどこにもいない。
教室へ入ると、ほとんどの生徒がすでに登校していた。
昨日よりも、教室の空気はずっと自然だ。
交換留学生たちも、少しずつこの学校に馴染み始めている。
窓際では、愛莉とみすずが楽しそうに話していた。
何やら部活動について盛り上がっているらしい。
「それでね、この学校には――」
「へえ、面白そう!」
二人の笑い声が教室に心地よく響いていた。
少し離れた席では、陽斗がノートを開き、静かに授業の予習をしている。
相変わらず真面目だ。
その近くでは、蒼太が校内案内でもらった地図を広げながら眺めていた。
「まだ全部は覚えられないな……」
小さく苦笑している。
そして――。
蓮は窓の外を静かに見つめていた。
頬杖をつきながら、中庭を眺めている。
何を考えているのかは、やっぱりよくわからない。
そんな中、教室の扉が静かに開いた。
「おはようございます」
聞き慣れた穏やかな声。
舞夜だった。
いつも通りの落ち着いた笑顔を浮かべながら、教室へ入ってくる。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
あちこちから挨拶が返ってくる。
舞夜は軽く頭を下げ、自分の席へ向かった。
その途中――。
ほんの一瞬だけ、俺たちの視線が重なる。
舞夜は小さく微笑んだ。
俺も自然に笑い返す。
それだけのことだった。
言葉もない。
特別な仕草もない。
それでも、不思議と十分だった。
……その様子を。
教室の反対側から、蓮が静かに見つめていたことには、その時の俺はまだ気づいていなかった。
その時だった。
蓮は静かに視線を窓の外から教室へ戻した。
ちょうどその瞬間。
舞夜と俺の視線が重なり、お互いに小さく微笑み合う姿が目に入る。
ほんの一瞬。
誰も気に留めないような、短い出来事だった。
けれど――。
蓮だけは、その光景から目を離さなかった。
何も言わない。
ただ静かに見つめている。
その表情は、昨日までとは少し違っていた。
まるで、頭の中で一つの答えを探しているようだった。
「……そういうことなのかな」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
もちろん、その言葉を聞いた者はいない。
俺も。
舞夜も。
愛莉も。
蓮はもう一度だけ俺たちへ視線を向ける。
そして、静かに目を閉じた。
まだ確信はない。
だからこそ、確かめたい。
そんな感情が、その瞳の奥に浮かんでいるように見えた。
その日の授業が始まるチャイムが鳴り響く。
教室中の生徒たちが席へ戻り、いつもの朝が始まっていく。
けれど――。
俺はまだ知らなかった。
蓮の中で生まれたその小さな疑問が、これから少しずつ大きくなっていくことを。
そして、その答えを探す視線が、俺と舞夜の関係を静かに追い続けることになるということを。
第四十九話『答えを探す視線』を読んでいただき、ありがとうございました。
交換留学二日目が始まり、それぞれの距離は少しずつ縮まっていきます。
一方で、蓮の中には新たな疑問が芽生え始めました。
大樹と舞夜が自然に見せる何気ないやり取り。
その裏には、どんな関係があるのか。
まだ答えは見つかっていません。
しかし、蓮はその答えを探そうとしています。
その視線が、これからどのような変化をもたらすのか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




