見透かす瞳
昼休みに舞夜が言った言葉が、その日の午後になっても頭から離れなかった。
『そういう人は……誰にも知られたくなかったことまで見つけてしまいます』
何気ない一言だった。
けれど、あれはただの独り言には思えなかった。
もちろん、俺の考えすぎなのかもしれない。
昔から、俺には物事を深く考えすぎる癖がある。
……きっと、今回もそうだ。
そう自分に言い聞かせながら、窓の外へ視線を向けた。
夕方の光が、静かに教室へ差し込んでいる。
やがて、いつもより少し早く授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
クラスメイトたちは、一斉に帰り支度を始める。
そんな中、舞夜が俺の机の前までやって来た。
「南くん。図書館へ行きましょうか」
「もちろん」
今日は、発表用の資料を完成させる予定だった。
俺が立ち上がろうとした、その時――。
「ちょっと待って」
聞き慣れた声が、俺たちを呼び止めた。
振り返ると、そこには愛莉が立っていた。
手には一冊のノート。
そして、いつも通りの穏やかな笑顔。
「一つ、お願いしてもいい?」
舞夜が小さく首をかしげる。
「どうしたんですか?」
「私のプロジェクトの相手、まだ風邪で休んでるんだよね」
愛莉は困ったように笑った。
「だから、明日までに資料を集めないといけないんだけど……」
そこで言葉を切り、俺たちを見た。
「今日、一緒に勉強してもいい?」
……。
俺は舞夜を見る。
舞夜も、静かに俺を見返した。
どうやら、反対する理由はないらしい。
「俺は別にいいよ」
そう答えると、舞夜も小さくうなずいた。
「私も構いません」
愛莉は、ほっとしたように笑った。
「ありがとう。今度、お礼するね」
放課後の図書館は、いつも通り静かだった。
俺たちは、窓際のいつもの席に腰を下ろす。
ただ――。
今日は少しだけ違った。
テーブルを囲んでいるのが、二人ではなく三人だったからだ。
愛莉は鞄からノートを取り出し、机の上に広げる。
「安心して。今日はちゃんと勉強するから」
「本当だろうな」
俺が疑いの目を向けると、愛莉は胸を張った。
「もちろんです」
その返事を聞いて、舞夜が小さく笑う。
俺たちは資料を広げ、それぞれ作業を始めた。
……。
静寂が流れる。
ページをめくる音と、ペンが紙を走る音だけが聞こえていた。
だが、その平和は長く続かなかった。
わずか五秒後。
「南」
愛莉が手を挙げた。
俺は深いため息をつく。
「今度は何だよ」
「松とは、どうやって知り合ったの?」
……。
俺はゆっくり顔を上げ、愛莉を見つめる。
「さっき、『邪魔しない』って言ってなかったか?」
「これは短い質問だから」
まったく悪びれる様子はない。
そのやり取りを見ていた舞夜が、くすりと笑った。
「たぶん、桜井さんには我慢できないんでしょうね」
愛莉は大げさに胸に手を当てた。
「ひどいなあ。私、そんなにおしゃべりなイメージ?」
「完全に自業自得だろ」
俺がそう言うと、愛莉は肩をすくめた。
どうやら、反省する気はまったくないらしい。
資料を探しながら、俺は愛莉の質問に適当に答えていった。
「松と知り合ったのは、中学に入学した初日だよ」
「へえ」
愛莉が興味深そうに身を乗り出す。
「どんな出会いだったの?」
「遅刻してきた松が、俺の隣の席に座ったんだ」
「それで?」
「開口一番、『鉛筆貸してくれ』って言われた」
愛莉は目を丸くした。
「ずいぶん図々しい第一印象だね」
「俺もそう思った」
そう答えながら、参考書のページをめくる。
すると、愛莉はさらに質問を続けた。
「で、そのまま仲良くなったの?」
「いや、そんな簡単じゃない」
「じゃあ、何があったの?」
俺は少し考えるふりをしてから答えた。
「松は、最後まで鉛筆を返さなかった」
「えっ、本当に?」
愛莉が驚いた声を上げる。
俺は首を横に振った。
「いや、その日のうちになくしたらしい」
一瞬の沈黙。
そして――。
「あははっ!」
愛莉が吹き出した。
隣では、舞夜も小さく笑っている。
本当に、かすかな笑い声だった。
けれど、最近はその笑顔を見る機会が少しずつ増えている気がする。
それが、なぜだか心地よかった。
一時間近くが過ぎたころ、愛莉はふいにペンを置いた。
「ちょっと、いい?」
「もう話してるだろ」
俺がそう返すと、愛莉は気にした様子もなく頬杖をついた。
「一つ、気づいたことがあるんだよね」
舞夜が本から顔を上げる。
「気づいたこと、ですか?」
愛莉は静かにうなずいた。
そして、机に肘をついたまま言った。
「南が話してる時ってさ」
「ん?」
「絶対に最後は八神さんのほうを見るよね」
……。
一瞬、頭が真っ白になった。
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
だが、愛莉は構わず続けた。
「それに、八神さんが話してる時は――」
そう言いながら、今度は舞夜のほうを見る。
「八神さんは、ずっと南のことを見てる」
……。
沈黙。
図書館の静けさが、いつも以上に重く感じられた。
「いや、それは……」
何か言い返そうとする。
だが、うまく言葉が出てこない。
隣を見ると、舞夜も珍しく困ったような表情を浮かべていた。
そして、会話が始まってから初めて、静かに視線を逸らした。
そんな俺たちを見て、愛莉は満足そうに微笑む。
「やっぱりね」
「何が『やっぱり』なんだよ」
愛莉は肩をすくめた。
「別に。ただ、ある仮説を確かめただけ」
……。
その言い方は、本当にやめてほしい。
嫌な予感しかしなかった。
気づけば、窓の外の空は少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
俺たちは本を閉じ、図書館を後にする。
帰り道、愛莉はふと足を止めた。
校庭の前だった。
「ねえ」
愛莉が夕焼け空を見上げながら口を開く。
「今日、一緒に勉強できて楽しかった」
「それはよかったな」
俺がそう答えると、愛莉は小さく笑った。
「たぶん、自分のプロジェクトの相手といるより楽しかったかも」
「それ、本人の前で言うなよ」
「さすがに言わないよ」
愛莉は楽しそうに肩をすくめる。
その様子を見て、舞夜も小さく微笑んだ。
「では、今日のことは三人だけの秘密ですね」
「うん、秘密」
愛莉はそう言って、人差し指を唇の前に立てた。
その瞬間、俺たちは三人そろって夕焼けに染まる空を見上げていた。
言葉では説明できないような、不思議な静けさが流れている。
昼休みの騒がしさも、相性ランキングのことも、今だけは遠い世界の話のように感じられた。
しばらくの沈黙のあと、愛莉が再び口を開いた。
だが、今度の声は今までとは違っていた。
冗談めいた調子はなく、どこか真剣だった。
「南」
「ん?」
俺が振り向くと、愛莉はまっすぐ俺を見ていた。
「もし、いつか誰かに相談したくなったら――」
そう言って、少しだけ微笑む。
「私を頼ってくれていいからね」
思わず眉をひそめた。
「急にどうしたんだよ」
愛莉は首を横に振る。
「別に、深い意味はないよ」
そして、夕焼け空を見上げながら続けた。
「ただの勘」
「勘?」
「うん」
愛莉は小さくうなずいた。
「時々、一番よく笑う人ほど、たくさんの悩みを抱えてたりするから」
……。
俺は何も言い返せなかった。
愛莉も、それ以上は何も説明しなかった。
ただ、「じゃあね」と軽く手を振り、そのまま前を歩き出す。
俺は、その後ろ姿を黙って見送っていた。
明るくて、誰とでもすぐに打ち解ける。
そんな桜井愛莉の笑顔の裏側には、俺たちの知らない何かが隠れているのかもしれない。
そんな気がした。
そして同時に――。
愛莉は、俺たちが思っている以上に、多くのことを見抜いているのではないか。
なぜか、そんな予感がしていた。
第四十話『見透かす瞳』を読んでいただき、ありがとうございました。
桜井愛莉という少女は、誰よりも明るく笑いながら、誰よりも鋭く人を見つめています。
少しずつ縮まっていく大樹と舞夜の距離。
そして、愛莉だけが気づき始めているものとは――。
それでは、次の話でお会いしましょう。




