観察者の視線
祖父が、昔よく言っていた言葉がある。
『本当に危険なのは、よくしゃべる人間じゃない。
誰よりも、人の話を聞いている人間だ』
子供のころの俺には、その意味がよくわからなかった。
ただ、祖父が難しいことを言っているだけだと思っていた。
だが――。
今なら、少しだけ理解できる気がする。
桜井愛莉が現れてから、ずっと妙な感覚があった。
常に誰かに観察されているような。
そんな、不思議な感覚だ。
――二日後。
授業はいつも通り続いていた。
プロジェクトも、少しずつ進んでいる。
そして、例の噂も――。
相変わらず、学校中で生き続けていた。
「大樹!」
突然、松が牛乳パックを俺の机の上に置いた。
「おごりだ」
「……なんで?」
「相性アンケート一位を祝ってだよ」
「まだ最終結果は出てないだろ」
「細かいことは気にするな」
俺は諦めたように牛乳を手に取った。
「いつか、お前も俺をからかうのに飽きる日が来ると思うぞ」
「そんな日は一生来ないな」
即答だった。
……こいつ、本当に迷いがない。
先生はまだ教室に来ていなかった。
クラスメイトたちは、それぞれ友達と話している。
舞夜は、いつものように静かに本を読んでいた。
そして――。
教室の一番後ろの席から、桜井愛莉がこちらを見ていた。
俺と目が合う。
すると、愛莉はまた笑った。
……。
なんで、あんなに楽しそうなんだ?
俺には、まったく理解できなかった。
一時間目が終わると、先生は十分間の休み時間を告げて教室を出ていった。
教室の空気が、一気に緩む。
そんな中、愛莉が席を立ち、俺たちの机へ歩いてきた。
「ちょっと質問してもいい?」
「内容による」
俺がそう答えると、愛莉は首をかしげた。
「難しい質問じゃないよ」
そう言って、まず舞夜のほうを見る。
そして、次に俺へ視線を向けた。
「二人って、どうやって仲良くなったの?」
……。
俺と舞夜は、同時に黙り込んだ。
確かに、単純な質問だ。
だが、その答えは意外と難しい。
しばらく沈黙が続いたあと、最初に口を開いたのは舞夜だった。
「偶然です」
「偶然?」
愛莉が聞き返す。
舞夜は静かにうなずいた。
「はい。それだけです」
俺も後に続く。
「特に面白い話はないよ」
愛莉は少しだけ目を細めた。
まるで、俺たちの言葉が本当かどうかを確かめようとしているようだった。
「そうなんだ……」
そう言いながらも、どこか納得していないような表情を浮かべていた。
昼休みになると、俺たちはいつものように中庭へ向かった。
プロジェクトを少しでも進めるためだ。
ベンチに座り、ノートを開く。
ようやく静かに作業ができる――。
そう思った、その時だった。
足音が近づいてくる。
「また会ったね」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、そこには昼食のトレーを持った愛莉が立っていた。
「……またお前か」
思わずそう言うと、愛莉は楽しそうに首をかしげる。
「迷惑だった?」
「少しだけな」
「それはよかった」
なぜか満足そうに笑い、そのまま俺たちの返事を待たずに向かいの席へ座った。
舞夜は特に驚いた様子もなく、小さく微笑む。
「桜井さんも、ここで昼食を食べるんですか?」
「結構前からね」
愛莉はそう言って、箸を手に取った。
「ただ、今までは誰も気にしてなかっただけ」
……。
言われてみれば、その通りだった。
俺は愛莉がどこで昼食を食べているのかなんて、今まで考えたこともなかった。
気づかなかっただけなのか。
それとも――。
最初から、気にしていなかっただけなのか。
俺にはわからなかった。
昼食を食べ始めると、愛莉は次々と質問を投げかけてきた。
「南、好きな教科は?」
「歴史」
「じゃあ、苦手な教科は?」
「数学」
「好きな食べ物は?」
「カレー」
「兄弟はいる?」
「妹が一人」
「ペットは?」
「いない」
……。
俺は箸を止め、じっと愛莉を見つめた。
「これ、尋問か?」
そう言うと、愛莉は笑いながら首を横に振る。
「違う違う。ただ、私、記憶力がいいだけ」
「その能力の使い方、絶対に間違ってるだろ」
「そうかな?」
まったく悪びれる様子はない。
その時、舞夜が静かに箸を置いた。
「桜井さん」
「ん?」
「いつも、そんなに質問をするんですか?」
愛莉は少し考えるように空を見上げる。
そして、何でもないことのように答えた。
「誰かに興味を持った時だけかな」
……。
一瞬、沈黙が流れる。
すると、愛莉は俺と舞夜を交互に見ながら、自然な口調で続けた。
「だって、二人はこのクラスで一番面白い人たちだから」
俺は思わず舞夜の顔を見た。
舞夜も、少しだけ困ったような表情を浮かべていた。
昼休みが終わる頃、愛莉は手を振りながら立ち上がった。
「じゃあ、また後でね」
そう言い残し、いつもの調子で歩き去っていく。
俺は、その後ろ姿をぼんやりと見送っていた。
やがて、愛莉の姿が廊下の向こうへ消える。
そこでようやく、俺は小さく息を吐いた。
「……変なやつだな」
隣に座る舞夜が、静かにうなずく。
「でも、悪い人には見えません」
「それが、逆に不思議なんだよな」
俺がそう言うと、舞夜はノートを閉じた。
「南くんは、桜井さんのことをどう思いますか?」
「どう思うって……」
俺は少し考え込む。
そして、頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「たぶん、観察しすぎなんだと思う」
「観察?」
「まるで、クラス全員のことを理解しようとしてるみたいなんだ」
舞夜は視線を落とした。
そして、独り言のような小さな声でつぶやく。
「そういう人は……」
「時々、誰にも知られたくなかったことまで見つけてしまいます」
……。
思わず、舞夜の顔を見た。
だが、彼女はすぐに自分の言葉に気づいたようだった。
いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「行きましょう」
「まだ、やることが残っていますから」
そう言って、舞夜はベンチから立ち上がった。
俺も、その後を追うように立ち上がる。
けれど、さっきの言葉だけが頭の中に残り続けていた。
なぜだろう。
ほんの一瞬だけ――。
舞夜は愛莉のことではなく、自分自身のことを話していたような気がした。
第三十九話『観察者の視線』を読んでいただき、ありがとうございました。
桜井愛莉の何気ない質問は、大樹と舞夜の日常に少しずつ変化をもたらしていきます。
そして、誰にも知られたくない秘密は、いつか誰かに見つかってしまうのかもしれません。
二人を見つめる視線の先には、いったい何があるのでしょうか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




