縮まる距離
午前中は、比較的平和に過ぎていった。
……比較的、というだけだが。
先生たちはいつも通り授業を進めている。
生徒たちも、一応は真面目に話を聞いているように見えた。
だが、先生が黒板に文字を書こうと後ろを向くたびに――。
何人もの生徒が、こっそりスマホを取り出していた。
もちろん、確認しているのは例のアンケートだ。
「今、誰が一位なんだ?」
「さっき順位が変わったらしいぞ」
「え、本当?」
そんな小声が教室のあちこちから聞こえてくる。
……理解できない。
どうして、あんなくだらない企画がここまで盛り上がるんだ。
俺にはまったくわからなかった。
だが、少なくとも今、この学校では――。
あの相性ランキングが、間違いなく一番の話題だった。
休み時間のチャイムが鳴った瞬間、教室は一気に騒がしくなった。
ついさっきまで授業を受けていたはずの生徒たちが、ものすごい勢いで席を立っていく。
そんな中、俺も立ち上がろうとした瞬間――。
松に腕をつかまれた。
「行くぞ」
「どこに?」
「途中経過を見に行くんだよ」
「まったく興味ないんだけど」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
だが、松は俺の抗議を完全に無視した。
そのまま俺を引きずるようにして、教室の外へ出ていく。
「おい、離せ!」
「こういうイベントは、リアルタイムで楽しむものなんだよ」
「誰が楽しむか」
結局、俺の抵抗はまったく意味をなさなかった。
数分後――。
掲示板の前には、すでに小さな人だかりができていた。
笑っているやつ。
順位について話し合っているやつ。
ただ興味本位で眺めているやつ。
その中心には、新しく貼られた一枚の紙があった。
『相性アンケート・途中結果』
嫌な予感しかしなかった。
松は人混みをかき分けながら、俺を掲示板の前まで連れていった。
周囲では、あちこちから興奮した声が聞こえてくる。
「誰が一位なんだ?」
「やっぱり、あの二人じゃない?」
「いや、まだわからないぞ」
……。
俺は今すぐ教室へ戻りたかった。
だが、松はまるで逃がす気がないらしい。
「ほら、見るぞ」
そう言って、掲示板の中央に貼られた紙を指差した。
『相性アンケート・途中結果』
思わず唾を飲み込む。
松はわざとらしく咳払いをした。
「第三位――」
周りの生徒たちが静かになる。
「田辺と結衣!」
「おおー!」
歓声が上がる。
松は満足そうにうなずき、続きを読み上げた。
「第二位――」
「朝美と二年B組の男子!」
再び歓声が響く。
そして、松はそこでわざと間を置いた。
嫌な予感しかしない。
いや、もう結果は予想できていた。
「そして、第一位は――」
松は俺の顔を見ながら、にやりと笑う。
「圧倒的な票差で――」
『南大樹 × 八神舞夜』
……。
一瞬、時間が止まったような気がした。
次の瞬間。
「やっぱり!」
「絶対そうだと思った!」
「お似合いすぎるだろ!」
周囲から大きな拍手が巻き起こる。
……消えたい。
今すぐ、この場から消えてしまいたかった。
そんな俺の肩を、松が勢いよく叩く。
「おめでとう、チャンピオン!」
「めでたくない」
「でも、一位だぞ?」
「だから何だよ。俺たちは付き合ってない」
そう言い返すと、松は呆れたように肩をすくめた。
「それ、お前たちだけが言ってるんだよなあ」
俺は何も言い返せなかった。
どうにか人混みから抜け出そうとしていた、その時だった。
ふと、廊下の向こうからこちらへ歩いてくる舞夜の姿が見えた。
舞夜はいつも通り落ち着いた様子で、掲示板の前へとやって来る。
周囲の生徒たちも、すぐに彼女の存在に気づいた。
「あ、八神さんだ」
「本人が来たぞ」
「どんな反応するんだろう」
小さなざわめきが広がる。
だが、舞夜はそんな視線を気にすることなく、途中結果の紙へ目を向けた。
数秒間、静かに順位を確認する。
そして――。
小さく息を吐いた。
「……気になりますか?」
俺は思わず尋ねた。
舞夜は俺のほうを見つめ、少しだけ考え込む。
「気になるというよりは……」
言葉を選ぶように視線を落とした。
「これほど注目を集めることには、少し戸惑います」
「それは、俺も同じだ」
そう答えると、舞夜は小さくうなずいた。
「ですよね」
その瞬間だけは、俺たちは完全に同じ気持ちだった。
文化祭の時も、噂が広がった時も、ここまで意見が一致したことはなかったかもしれない。
だが――。
少なくとも今、この騒がしさを楽しめないという点だけは、間違いなく同じだった。
俺たちは、騒がしい掲示板の前を離れ、校舎の裏庭へ向かった。
そこは、昼休みでもほとんど人が来ない場所だった。
大きな桜の木の下に、古い木製のベンチが一つだけ置かれている。
俺と舞夜は、特に会話をすることもなく、そのベンチに腰を下ろした。
風が静かに吹き抜ける。
木々の葉が、ゆっくりと揺れていた。
数分間、誰も口を開かなかった。
さっきまでの騒ぎが嘘だったかのような静けさだった。
そして、不意に舞夜が口を開く。
「……ありがとうございます」
「え?」
思わず聞き返す。
舞夜は視線を前に向けたまま、静かに続けた。
「噂が広がっても、南くんが私への接し方を変えなかったので」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
だが、すぐにその意味を理解する。
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「この学校の噂を全部気にしてたら、たぶん人生が足りないよ」
そう言うと、舞夜は小さく笑った。
本当に、かすかな笑い声だった。
「……それも、そうですね」
その言葉とともに、穏やかな空気が二人の間に流れていた。
舞夜は静かに空を見上げた。
「プロジェクト、うまくいくといいですね」
「うまくいくさ」
俺がそう答えると、舞夜は少しだけ首をかしげる。
「そんなに自信があるんですか?」
「あるよ」
「どうしてですか?」
俺は、目の前に座る舞夜を見た。
「二年で一番優秀な生徒が、俺のパートナーだから」
舞夜はゆっくりと首を横に振る。
「私は、そんなにすごい人じゃありません」
「それは舞夜がそう思ってるだけだ」
俺は彼女の目をまっすぐ見つめた。
「少なくとも、俺はお前が諦めるところを一度も見たことがない」
……。
舞夜は何も言わなかった。
太陽の光を受けた紫色の瞳が、静かに揺れている。
やがて、彼女は優しく微笑んだ。
今まで見たどんな笑顔よりも、自然な笑顔だった。
「それなら――」
舞夜は小さく息を吸う。
「私も、このプロジェクトで南くんを失望させません」
「約束だな」
考えるより先に、俺は右手を差し出していた。
舞夜はその手を数秒間見つめる。
そして、そっと俺の手を握った。
ほんの一瞬のことだった。
それでも、手が離れた瞬間――。
昨日より、ほんの少しだけ。
俺たちの距離が縮まったような気がした。
本当にわずかで、誰にも気づかれないほどの変化。
だけど、その一歩は確かに存在していた。
……しかし。
校舎の窓の向こうから、その様子を静かに見つめる誰かがいた。
俺には見えなかった。
それでも、なぜか胸の奥で感じていた。
この穏やかな時間は、そう長くは続かないのかもしれない――と。
第三十八話『縮まる距離』を読んでいただき、ありがとうございました。
相性ランキングの騒動の中で、大樹と舞夜の距離は少しずつ縮まり始めています。
しかし、二人の穏やかな日常を見つめる新たな視線も現れました。
この先、二人の関係はどのように変わっていくのでしょうか。
それでは、次の話でお会いしましょう。




